第20話 消えた男


 三好友希は、ニノマエ探偵事務所と同区内のアパートに一人で暮らしていた。電車を一本乗り継いで山ノ手駅で降り、駅のすぐ裏手に棲家があった。

「時也さん、本当に三好さんが事務所を荒らしたと疑っているんですか」

 恐る恐る問いかける八月一日青年に、時也は優しい声色で返す。

「別に彼だけを特別怪しんでいるわけじゃない。鍵をこじ開けられた形跡がない以上、必然的に鍵を所持していた人間に犯行が限られる。敢えて言うなら、俺は三人を平等に疑っているよ」

「そうですか……でも、一体何の目的で事務所荒らしなんか」

「最も考えられることは、探し物だな。何か目当てのものがあって盗みに入った。目的のブツがあったかなかったか定かじゃないが、パソコンまで破壊されているところを見るに何かしらのデータを欲していたのかもしれないな」

「紙ベースの書類の中に目当てのものがなく、パソコンも盗み見たということですか」

「妥当な推理だな。もしパソコンの中に目当てのデータがあったのなら、USBのような記録媒体にデータを移せばいい。パソコンを壊したとなれば、データの消去が目的だったかあるいはパスワードを解除できなかった末の苦肉の策なのかもしれない」

「でも、電子データ化している書類はまだ少ないし、半分以上はまだ紙データのままですよ」

「今の話は、あくまで何かしらのデータが目的だった場合だ。別のブツを盗むためのカムフラージュとして破壊しただけかもしれない――と、このアパートみたいだな」

 三階建ての白い建物の前に到着した。一階部分は〈fresco〉という小さなスーパーが入っていて、二階と三階が賃貸住宅のようだ。スーパーの入り口付近に上へと続く階段が設けられている。

「三好青年の部屋は、二階の二〇三号室だな」

 くすんだ緑色の玄関ドアは、ところどころ塗装が剥がれ年季を漂わせている。インターホンを押すと「ジリリリリ」という昔ながらの音が閑散とした廊下に鳴り響いた。

「三好さん、お休みのところすみません。ニノマエ探偵事務所の八月一日です。少しお話したいことがあって伺いました」

 八月一日青年が軽くノックする。返事はなく、扉の奥はしんと静まり返っていた。

「留守ですかね」

「携帯電話を鳴らしてみてくれないか」

 スマホを操作する事務員の横で、扉に片耳を当てる。しばらくすると部屋の向こう側から微かな着信音が聞こえてきた。誰かが電話に出る気配はない。

「電話を切ってくれ」

 時也が指示した途端、音はぴたりと止んだ。部屋の主は携帯電話を置いて外出しているらしい。

「スマホを忘れて出かけたんでしょうか。それとも、すぐ戻るから置いていったのか」

「どちらもあり得るが、別の可能性も考えられる」

 言いながら、ドアノブに手をかける。こうした場面ではおおよそ次の展開が予測できるものだ。時也の予想は当たった。扉は僅かな軋み音を立てながらゆっくり開かれる。

「あ、時也さんそれはまずいんじゃ」

 連れの制止も聞かず、玄関に一歩踏み入る。廊下にキッチンを併設したワンルームタイプのようだ。バスルームやトイレも確認するが、何者も潜んでいない。部屋へと続く扉を慎重に押し、隙間から室内を窺う。人影はなく、冷蔵庫の稼働音以外はいたって静かだ。

 襲撃の気配がないことを確かめ、扉を勢いよく押し開けた。分厚いカーテンは固く閉ざされ、薄暗い空間にテレビや本棚などの調度品が無秩序に配置されている。部屋の隅に敷布団が雑に畳まれ、その上にシャツやジーンズが無造作に放り投げられていた。特別片付いているわけでもないが、一定の生活感を保ったごく普通の部屋である。

「誰もいないですね。鍵を掛け忘れてどこか出かけたんでしょうか」

 時也の肩越しから八月一日青年が声をかける。

「スマホも鍵も持たず外出するなんて、三好青年はよほど田舎出の者なのか」

「さあ……でも、それなら何故」

「俺たちが訪ねることを予期して、逃亡を図ったとか」

「逃亡って――じゃあ本当に彼が」

「決めつけるのはまだ早い。八月一日くん、一に連絡を取ってくれ。探偵事務所に所轄の警官がいるはずだから、こちらにも向かわせよう」



 ニノマエ探偵事務所の空き巣事件を担当するのは、香賀町警察署の捜査二課の刑事らだ。偶然にも、香澄橋の爆破事件を捜査している所轄である。三好友希のアパートに駆けつけたのは、額が見事に禿げた中年刑事と短髪の若い捜査官の二人組だった。

「では、ニノマエ探偵事務所で空き巣が発生したのとほぼ同じタイミングで、そこの所員が行方知れずになっていると。そういうことですか」

 田辺と名乗った刑事が、唇をへの字に曲げて室内を見渡している。相棒の川瀬という若刑事は外で聞き込みの最中だ。

「状況はそういうことになりますね。彼が何度も携帯に電話を入れているのですが、いっこうに出る様子がありません」

 八月一日青年がスマホを片手に、小さく会釈する。

「このシチュエーションを見る限り、その三好というアルバイト生が空き巣事件について何らかの事情を知っている可能性が高いですな……ところで、県警本部の刑事さんがなぜこんなところに?」

 胡散臭い目を向ける田辺に「こちらも色々とありまして」と言葉を濁す。空き巣専門のベテラン捜査官はふんと鼻を鳴らし、

「事務所をざっと確認したところ、特に盗まれたブツはなさそうですな。パソコンについては押収のうえ中身を調べてみないことには断定できかねますが。それから出入り口や窓も調べましたが破壊の痕跡はありませんでした。念のため現場の指紋を採取して照合はしてみますが」

「ビルの階段下に監視カメラが設置されていましたね。そこに犯人の姿が映っているのでは」

「ありゃダミーですよ。最低限の防犯として取り付けたんでしょうな。まったく、ビルのオーナーはろくな仕事をしていない。費用をケチってハリボテで済ませようとするからこういうことになるんだ」

 八月一日青年が遠慮がちな声で「僕、外で三好さんに電話しておきますね」と断りを入れる。田辺と二人になったタイミングを見計らい、

「仮に三好友希が犯人である場合、彼は最初からニノマエ探偵事務所を狙っていた線も考えられます」

「と、いいますと」

「三好友希がニノマエ探偵事務所に入所したのは、つい二か月ほど前だそうです。これは私の個人的な主観も入ってしまいますが、所長の一は空き巣を許すほど無防備な奴じゃない。仕事柄、その手の被害はかなり警戒していたはずです」

「つまり、三好という男は窃盗目的でニノマエ探偵事務所に潜入していたと。そう仰りたいわけですな」

「ええ。しかもできるだけ早急に、です。所長の一には空き巣を演出する理由もありませんし、事務員の八月一日青年にしてもデータを盗み見ることは難しくない。わざわざ部屋を荒らしてまで探し物をする必要がないんです」

「まあ、筋は通っていますがあくまで可能性の話ですから。それにご自身も指摘したように、主観で捜査はできかねます。とりあえずは、三好友希について詳しく調べるところからでしょうな」

 田辺はあくまでも慎重に言葉を選ぶ――と、不意にチノパンのポケットから携帯電話を取り出した。聞き込みに回っていた川瀬刑事からの報告らしい。

「三好らしき人物を見たという情報はないようですな。近所や駅周りの防犯カメラも当たる必要がありそうだ」

「お手数ですがよろしくお願いします」

「はいはい。私はもう少しここを見てから戻りますんで、こちらは結構ですよ」

 体よく追い払われる形となり、二人はアパートを辞した。事務所の最寄り駅である石原町駅で八月一日青年は下車し、時也はそのまま湾岸通りまで電車に揺られる。探偵事務所の一件については、現時点で公安警察が介入する余地はない。所轄の捜査に期待するしかなさそうだ。

 桜町駅の改札口を通り抜けたと同時に、胸ポケットのスマートフォンが震えた。一色乙葉の行確を任せている捜査員からだ。爆破事件が起きた昨日から急遽交代を要請したのである。

『こちらマルタイIのマンション前です。マルタイにこれといった動きはありません。現時点では外出等もなく外から見る限り外部との接触もなしです』

「わかった、引き続き監視を」

 言いかけた言葉を「ただ」という接続詞が遮る。

『つい数分前、マンション周辺を不審な人物が徘徊していました。キャップを目深に被りパーカーを着用、中肉中背の体型です。何をするわけでもなくマンションの入り口付近を数分ほど往来し、そのまま商店街の方向へ去っていきました』

「不審者か……ほかに異常は」

『ありません。犬の散歩をする老女や下校する小学生の集団は通りましたが、マンション付近を執拗にうろついていたのはパーカーの不審人物のみです』

「了解。再度姿を現すことがあればできるだけ人相を確認してくれ」

『了解です』

 時也はすぐさま探偵の男に連絡を取ろうとした。だが、警察署で聴取を受けている可能性があるため代わりに別の番号をプッシュする。

「――ああ、八月一日くんか」

『時也さん、どうかしましたか』

「事務所の様子はどうだい」

『警察の現場検証は終わって、今は誰もいません。所長は警察署で話があると連れていかれちゃいました』

「ただの事情聴取だよ。心配しなくても直に戻ってくる。ところで、三好友希について訊きたいことがあってね」

『三好さんが、どうしましたか』

「彼の背格好を教えてほしいんだ。だいたいの身長とか、体格とか」

『背格好、ですか。身長は僕よりちょっと低いくらいかもしれません。特別細身でもなく恰幅がよいわけでもなく、中肉中背ってやつですかね』

 八月一日青年の身長は時也より二センチほど低い。つまり三好友希は百七五センチ前後ということになる。

『あ、でも三好さんを見かけたらすぐ判ると思いますよ。僕も初見のときびっくりしましたけど、彫刻みたいに美形なんです。顔のすべてのパーツが完璧で整っていて……あ、所長や時也さんもすごくイケメンなんですけど、三好さんは何というか中世的な顔立ちみたいな』

「それは興味深いね。たしかに外を出歩いたら目立ちそうだ」

『そりゃもう。本人も、外出するときはわざとダサい眼鏡や帽子を身につけているって話していましたよ。事務所に出勤するときもキャップ帽をよく被っていますし』

「キャップ帽……判った、ありがとう。とても参考になったよ」

 礼を告げて電話を切る。有名女優の顔写真が大きく掲載された看板に背中を預け、思わず小さなため息を吐いた。

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