間章 「大魔法使いの末路」
西暦1720年。
イングランド南部にある小さな村に一人の魔法使いが居た。
魔法使いの名前はオーリー。
当時、魔女狩りがヨーロッパ全土で頻繁に行われていたが、教会の指導よりも遥か古から村人達を薬や医療の知識で救ってきた魔法使いを信仰するイングランド人も多かった。
祖父の代から魔法使いの家系であるオーリーも村人達と強い信頼関係を築いており、村人達に匿われるようにして生活を共にしていた。
村人達に守られている理由として、オーリーが十四歳の頃、唯一の肉親である母親が異端審問に掛けられ、火炙りの刑に処された事によって天涯孤独となってしまったオーリーに同情しているという点も大きかった。
オーリーが三十歳になる頃、郊外の森で暮らしていたオーリー宅の前に一人の赤ん坊が捨てられていた。
銀髪に金眼という珍しい赤子は、天使と見間違うような美しさと愛くるしさがあった。
親に名前すらも授かっていない赤子にオーリーは、母と同じリーシャという名前を付けた。
魔法使いオーリーの元で育てられたリーシャは、言葉を覚えるのと同じように魔法を覚え、計算を覚えるより先に薬草の知識を身につけた。
リーシャが十六歳になる頃、村人から魔女様と呼ばれ始めた。
リーシャの事を自分の娘のように可愛がっていたオーリーだが、オーリーは年を重ねるに連れて美しくなるリーシャに娘に向ける以上の愛情を向けるようになった。
育て親であるオーリーにリーシャが向ける愛情は家族愛だったが、オーリーがリーシャに向ける愛情はそれと同じでは無かったのだ。
やがて、オーリーは己の中に潜む欲望に恐怖するようになった。
家族同然の存在であるリーシャを自らの手で汚してしまいたいという、あってはならない欲望。欲望は日に日に大きくなり、オーリーが五十歳になる頃、彼は夢を見た。
それは一匹のライオンが愛しいリーシャの腸を貪り食らう夢。
その光景をただ茫然と見ていたはずなのに、気が付けば口の中から鉄臭い血の味がする。
先程まで眺めていたリーシャの体が目の前にあり、リーシャの臓物の匂いにとても食欲をそそられるオーリー。
四つん這いになり、腸を食い散らかされ冷たくなったリーシャの亡骸の四肢を舐めまわすオーリー。そんな彼を二足歩行をしているライオンが蔑みの目で見てくるのだ。
自らの喉が裂けんばかりの絶叫と共に悪夢から解放されたオーリーだが、夢の中で見た無残なリーシャの顔が脳裏に焼き付いて離れない。
オーリーは間違いなく興奮していたのだ、そんな己が秘めた欲望が怖くて仕方が無かった。
オーリーが誰とも結婚をしなかった理由は二つある。
一つはリーシャへの恋心があった事。
二つ目に己が中に眠る獅子のような残虐性を理解していたからだ。
やがて、オーリーはリーシャから逃げるように距離を取った。
リーシャは自らを避けるオーリーに何度か問いただしたが、気のせいだとはぐらかされるばかり。
勤勉な魔法使いだったオーリーは村人のみならず、大陸全土からも大魔法使いと呼ばれるようになっていた。大魔法使いと呼ばれてもなお、オーリーは知識を増やし続けた。
先祖から受け継いだ書庫、それに納められた数ある魔導書の中、異界について記された書物を見つけた事で、彼の人生は大きく狂い始める。
この世界と平行して存在する世界、この世界とは異なり人の狂気が許された世界。
赤い月の世界や、その周囲に無数に存在する強い個人の感情によって生み出された離れ小島のような異界。
オーリーは異界に関する書物を読み解いていくうちに、自らが毎晩見ている悪夢の正体が異界である可能性に気が付いた。
その気付きこそが彼を終焉へと導くとも知らず。
最初こそ己の中に眠る欲望を恐れていたが、やがてオーリーは異界に魅了され始める。
遂には、行ってみたいと願ってしまった。
黄昏は彼を招いた。
既に形を成していた、自らの歪んだ狂気が生み出した世界へ。
黄昏と共に姿を消したオーリー。
オーリーの痕跡を追うリーシャが、オーリーの机の上に置いてあった本に辿り着くまでに、それほど時間は掛からなかった。
異界に関して記されたその本は、異界への行き方についても記してあった。
本に記してあった異界への訪れ方、リーシャは黄昏時にもう一度オーリーと会いたい、天涯孤独となってしまった彼女を救ってくれた恩人との再会を願った。
――そこは、神に見放された世界。
それが、異界に初めて足を踏み入れたリーシャの頭に浮かんだ最初の言葉だった。
異界には普通の人間は存在しない。異界で出会う生物と言えば、異形の化け物や気狂いになってしまった人だ。
咽返るような瘴気の中、リーシャはオーリーの行方を捜した。
探す中で異界の住人達に襲われ何度か命を落とし掛けたリーシャだが、長い時を彷徨いオーリーを探し続けた。
長い時の中でやがて太陽は沈み、黄昏を超え、夜を迎えた。
赤い月が照らす星空の下、リーシャは一つの大きな洋館に辿り着いた。
洋館の中には異界の女王を名乗る女性が豪華絢爛な部屋で、玉座に座っていた。
「余はこの赤き月の世界の女王。赤き月の世界へようこそ、お嬢さん」
女王と聞いてリーシャは慌てて玉座の前に膝を突いた。
「と、突然お邪魔してしまい申し訳ございません、女王陛下」
「気にする必要は無い。丁度退屈していたところだ。お嬢さん、誰か人を探しているそうじゃないか?」
まるで、リーシャが異界に入って来た時から見ていたかのような口ぶりにリーシャは驚く。
「はい。育て親であるオーリーがこちらの世界へ来ているはずなのです。私はオーリーを見つける為に来ました」
「ほぉ、なんて泣かせる親子愛だ…………虫唾が走る」
態度を豹変させる女王にただただ困惑するリーシャ。
今までオーリーや村人、親切にしてくれる人としか出会ってこなかったリーシャには女王の悪意が理解出来なかった。
「お嬢さんが探しているオーリーとか言う魔法使いだがな、お嬢さんより一足先にこの世界に来たぞ」
「本当ですか!」
「ああ、本当だとも……すぐに死んだがな」
「……嘘です」
「これを見ても同じことが言えるか?」
女王が指を鳴らすと、空中に映像が浮かび上がった。
リーシャの目の前に現れたフチが半透明にぼやけた映像は、森の中で一匹のライオンが命乞いをするオーリーを惨たらしく食い殺している光景。
空中から聞こえるオーリーの悲痛な断末魔にリーシャは耳を塞いで叫んだ。
「こんなの嘘です! 嘘です! 嘘です! 嘘です!」
「本当本当本当ぉ! 全部本当の事よぉ? 貴様の探してるおっさんはもう死んでんだよ!」
耳を塞いで蹲るリーシャを見てケタケタと笑う女王。
ひとしきり笑い終わった後、蹲って泣いているリーシャが邪魔に感じた女王は最悪の発想に至る。
「可哀そうなお嬢さん。そんなお嬢さんに一つ、良い事を教えてあげよう」
続く女王の言葉は、耳を塞いでいたリーシャの関心を引く魅力的な言葉だった。
「――反魂の魔法。聞いた事ぐらいはあるかしら?」
女王が魔女リーシャに語った反魂の魔法とは、異界とは異なる世界の住人の魂を百集める事で一人の人間を蘇らせる魔法だった。
神に見放された世界だからこそ成せる魔法である為、反魂の魔法は異界でしか使えない。
つまり、リーシャの住む世界の住人を百人異界へ送り、その全員の魂を異界で回収する事でオーリーを生き返らせる事が出来る。それが、女王の語る反魂の魔法だった。
オーリーの死に様を目の当たりにしたリーシャは精神的に疲弊しきっており、希望が欲しかった……例えそれが悪魔の囁きであったとしても。
リーシャが異界の住人を増やす事に利用出来ると考えた女王は、反魂の魔法という偽りを語り、リーシャを異界から帰還させた。
異界から戻って来たリーシャが最初に目にしたのは、茜色に空を染め上げる夕日だった。
「憎い。私からお父様を奪った黄昏が……憎い」
いつの日かオーリーとの再会を果たす為、魔女リーシャはオーリーから受け継いだ書庫へ足を踏み入れた。
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