三 室橋幻庵の容態
昼四ツ半(午前十一時)過ぎ。
外廊下の障子戸と入口の襖を開け放った奥座敷の寝所には微風が流れていた。口鼻覆いをした竹原松月は、室橋幻庵を診察した。
室橋幻庵の症状は亀甲屋の祖父の亀右衞門や義父の庄右衛門と同じで、この冬の流行病で衰弱した身体に、この夏の猛暑が災いし、さらに衰弱させていた。
診察を終え、竹原松月は外廊下を移動した。隣座敷の、戸外から微風が吹き込む外廊下の手桶に用意された焼酎入りのぬるま湯で手を洗い、口鼻覆いを外し、湯飲みの塩水で嗽し、室橋幻庵の子息良磨と藤五郎、おさきが待つ、隣座敷に入った。
「これは、熱冷ましと精がつく薬、慈旺丸です。毎日、昼餉の後に飲ませてください。
一日に一つ。三日分です」
竹原松月は往診箱から丸薬の包みを取り出し、診察結果を話した。
「とても、身体が弱っておいでです。幻庵先生はご自分の容態を分かっておいでです。
精のつく、軟らかく煮た菜などの青物と、軟らかく煮た魚の類いを、たくさん食べさせなさい。腹を下さぬよう柔らかく煮るのです。白米は粥にしなさい。分量は・・・」
竹原松月は、軟らかく煮た魚を小鉢一杯、菜などの青物を小鉢一杯、白米粥は小鉢一杯の八割より少なめ、と藤五郎に話した事と同じに説明した。
「父は重態ですね・・・」
室橋幻庵の子息良磨は、竹原松月から丸薬の包みを受けとりながら、竹原松月の説明にそう言った。良磨も鍼医だけあって、室橋幻庵七十二歳の容態を分かっていた。
良磨は三十二歳。父の室橋幻庵四十歳と、母のお咲三十歳の間に生れた。母は良磨が二十七歳の時、流行病で急逝した。享年五十七歳であった。
「はい。芳しくありません。
ここだけの話ですが、亀甲屋さんのお二方も同様です」
「藤五郎さんとおさきさんは、それをわかっておいでだから、父のお見舞いに来てくださったのですね・・・。
流行病以来、父は甘い物が好きでして・・・」
良磨は見舞いの菓子折を見て頷いている。
「甘い物は弱った身体を回復させます故、そのようになったのでしょう。
ところで炊事は
「下女のお梅がします。母は十五年前に他界しました。私はまだ独り身ですので・・・」
そう言って、良磨はおさきを見た。
おさきは愛嬌があり利口で可愛い。十八歳だ。良磨は三十二歳。十四歳ちがう。
藤五郎は良磨がおさきに興味を持ったのを感じた。
良磨がおさきと顔を合せるのはこれが初めてではない。良磨が室橋幻庵の使いで薬種問屋でもある亀甲屋を訪れた際、何度かおさきに会って挨拶を交わす程度である。
良磨もおさきの立場を、藤五郎の祖父の亀右衞門と義父の庄右衛門の身のまわりを世話して、亀右衞門と庄右衛門に可愛がられ、ふたりからは、藤五郎の後添いにと思われている娘だと知っていた。
そして、女房は生き死にに関わらず藤裳ひとり、との藤五郎が亡き妻藤裳を思い続けているのも知っていた。
亀甲屋の祖父と義父が思いを無理強いしても、藤五郎さんは従わぬだろう。藤五郎さんは、ふたりの思いを叶える気は無い。その事は私も本人から聞いている。その事を、おさきさんは、如何様に思っているのだろう・・・。
父が重態のこの時、このような事を思う私は親不孝かも知れぬが、私の気持を知って、藤五郎さんはおさきさんを連れてきたに違いない・・・。
良磨はそう思っていた。
「良磨さん。先ほどの薬、慈旺丸は三日分です。
三日経っても幻庵先生に変化が無い折は、亀甲屋さんの薬種問屋の方で、あの慈旺丸を処方して貰って下さい。
藤五郎さんに処方箋を渡しておきました故」
「わかりました。では、三日後に慈旺丸を処方して頂けますか。父の容態を見越してその方が良いと思いますので」
良磨は藤五郎に慈旺丸の処方を依頼した。
竹原松月は良磨の言葉に頷いた。良磨は父室橋幻庵の体力が回復しないだろうと見越している・・・。
「承知しました。私も祖父と義父に慈旺丸を処方するつもりでした。
松月先生。慈旺丸は日持ちしないのですか」
藤五郎は良磨にわからせようと、再度、慈旺丸を処方した後の薬物効果を確認した。
「はい。藤五郎さんに説明したように 様々な薬を混ぜて有ります故、三日過ぎるとそれぞれの薬が影響し合い、害にはなりませぬが、薬効が無くなりまする」
「では、慈旺丸は、服用するその日に処方した方が良いのですか」
「如何にも、その通りです。一度に処方する慈旺丸は三日分です。
処方した薬は三日以内に飲んで下さい」
「承知しました」
良磨が答えた。
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