八 煮売屋
江戸時代、食事や料理を保存する事ができなかったため、作った食品をすぐさま食べるのが当り前の時代だった。そのため、当時のファストフード店とも言える担い屋台の煮売屋は至る所で店開きした。
煮売屋の売上は場所によって大きく変わる。香具師の元締めは、煮売屋たちが稼ぎの違いで揉めぬよう、煮売屋たちの店開きする場所を日毎に変えて売上に差が出ぬようにした。
それでも売上に差が出る場合は、その原因を詳しく調べて煮売屋たちに忠告した。(現在ならマーケットリサーチである)それでも煮売屋が店開きする場所とは無関係に売上に違いが出るのは致し方なかった。
「伝助の握り飯は塩気が足りねえんだ。
客を見てみない。客は大工や左官や植木屋だ。
みいんな汗かいて、塩っ辛い物を食いてえのさ。
惣菜もそうだぜ。もっと塩気を増やして、味付けを濃くしてみない。客が喜ぶぜ」
あの煮売屋の飯がまずい、などと苦情を聞けば、仲間が寄り合いで、苦情が出ている煮売屋を忠告して指導するのは、藤吉たちの振る舞いを学んだ香具師仲間たちの仲間に対する人情だった。
こういうと、藤吉たちの振る舞いで、江戸の香具師仲間が一つにまとまったように思えるが、そうはゆかない。中には悪どい商人も香具師もいる。その者たちは、藤吉のような者たちをいつ蹴落としてやろうか、虎視眈々と香具師の総元締めの座を狙っていた。
時は文月(七月)二十日。暮れ六ツ(午後六時)。
まもなく日没、暑い一日が終ろうかという頃の事である。
「八よ。このところ、客が減ったなあ。なんでだべよ」
担い屋台の前に立ち、熊助は隣の担い屋台で煮売屋をしている八吾郎とともに人通りを見た。みなが担い屋台に立ち寄らずに通りすぎるのだ。
「あたぼうよ。あれを見ろや。
ああやって用心棒が脅せば、嫌でもあそこで飯を買うぜ。
俺なら、脅されたって、ここで飯を買うけどよう」
そう話すの馴染みの大工の伝助が示すのは両国橋西詰めの西、浅草御門の方角だ。そこには、見慣れぬ担い屋台が立って、無頼漢数人が担い屋台の周りにたむろし、通りすがりの者たちを屋台に引きこんでいる。
「あいつら、誰だ?」
熊助は伝助に訊いた。
「奴ら、藤吉親分の親類だと言ってたが、騙りだぜ。
親分はああいう人だ。困っている者を見捨てちゃおかねえが、悪どい真似をさせねえし、悪どい真似をする者を許しちゃおかねえ。
あいつら、親分の親類なんかじゃねえぞ・・・」
「確かめてみっか」と八吾郎。
「それがいい。伝助さん。帰りがけに馬喰町の藤代の元締めに、この事を知らせてくれまいか」
熊助がそう言うと、大工の伝助が言った。
「俺も確かめるのを見てえものよ。それならこうしよう。
俺が一っ走り行って、元締めの藤代親分を連れてくっから、奴らが藤吉親分の親類か、藤代の親分と確かめりゃあいいぜ。
それに、ここを仕切ってるのは藤代の親分だ」
大工の伝助の言い分に、熊助も八吾郎もなるほどと思った。
藤代は、藤五郎の父藤吉の再従弟で、歳は藤五郎より二つ上だ。藤五郎にとっては再従弟叔父である。
「そうしてくれるかい、伝助さん」
「あたぼうよ。皆とは、総元締めの藤吉親分の先代、藤信親分からの付き合いだ。
親分たちの親類を騙る者が作った高くてまずい飯なんぞ、食いたかねえぜ。
ちょっくら、待っててくんない」
大工の伝助は両国橋の西詰めから元来た本町通りを駆け戻り、馬喰町へと通りの左へ角を曲がった。
藤代は馬喰町の長屋にいた。大工の伝助から話を聞くや、日本橋田所町の廻船問屋亀甲屋の長屋にいるの藤吉の元へ使いを走らせ、すぐさま両国橋の西詰めへ駆けつけた。
藤代は横山町二丁目から両国橋西詰めの通りへ出た。そこで商売している煮売屋に、
「お前さんらの名を聞かせてくれ。
俺はこの界隈を仕切ってる、香具師の元締の藤代だ」
と言った。
「さあ、俺たちは藤吉の遠縁だ。あんたがどうしようと勝手だぜ。
その代わり、藤吉にどう裁かれるか、見物だぜ」
煮売屋の担い屋台の仲間が数人集ってきた。
「おうっ。俺たちにいちゃもんつける気か。ここがおめえの島だって言うんか」
「おめえさんたちの名を聞かせてくれ」
「聞いてどうする。総元締めに俺たちの筋を確かめるかい」
「名を聞きたいと言ってるんだ。聞かせてやれ」
藤代の背後に身の丈がある男が現れた。夕闇のため、男の実際の背丈はわからない。
「お仲間を連れてきたのかい。ご苦労なこったぜ。
オイ。おめえらっ。一人残さず、殺っちまいなっ」
煮売屋が仲間に指示した。煮売屋仲間が懐から匕首を出した。
「藤代、皆、叩きのめしてやれ」
男の背後には、棍棒を持った男たちがいる。
煮売屋仲間に指示ていた煮売屋が匕首を抜いた。そして、身の丈がある男を刺した、と思ったら、男がヒラリと身を躱した。煮売屋は闇雲に匕首を振りまわしたが、匕首より棍棒が長い。男たちは間合いを取って煮売屋たちが振りまわす匕首を叩き落し、煮売屋たちを叩きのめして地べたに押さえつけた。
「おめえらっ、こんな事をして、総元締めから締めあげられるぜっ」
煮売屋が喚いた。
「どうしてそんな事を言えるんだ。総元締めを知ってんのか」
身の丈がある男が、地べたに押さえつけられた煮売屋の頭を足で押さえつけ、さらに地べたに押しつけた。
「あた棒よ。俺は、藤吉の遠縁の藤呉だ・・・」
仲間が、俺たちぁ、元締めの藤吉の遠縁だ、と息巻いている。
「俺は藤吉と親しいが、おめえも、藤呉という名も、知らぬ」
身の丈がある男が足で、煮売屋の頭をさらに地べたに押しつけた。
「おめえがでたらめを言ってるからだろうぜっ」
煮売屋は高飛車にそう言った。
「俺の親爺は藤信だ。女房は美代だ。廻船問屋亀甲屋の娘だった。
倅は、藤五郎だ・・・」
男は藤吉だった。
「・・・」
煮売屋が黙った。仲間も騒がなくなった。そして震えはじめた。
「こいつは藤代といって、馬喰町界隈を仕切っている元締めだ。
ここにいるのは藤代の仲間と、俺の仲間だ。
おめえらが、どこの誰か、名を言え」
「・・・」
煮売屋がガタガタと震えた。
「おめえの知ってる藤吉を呼んでもらおうか。どこにいる」
藤吉は煮売屋の脇腹を足蹴にした。
「うっ・・・」
「どこにいる。藤吉を呼んでみろっ」
藤吉はまた煮売屋を足蹴にした。肋骨が折れた鈍い音がして、
「ウォッ・・・」
煮売屋が呻いた。
「藤代、こいつのあばらが折れた。添木して蓑虫に縛り上げ、両国橋から吊せっ。
与力の藤堂八十八様には、俺から話しておく。
この匕首が何よりの証拠よ。殺し目的で匕首を振りまわせば、死罪だ。御上もその事はわかってるぜ。
蓑虫に縛り上げて、吊せっ」
煮売屋たちはガタガタ震えた。
煮売屋たちは蓑虫のように身体中を縛り上げられて、両国橋から吊された。
与力の藤堂八十八が同心と捕り方を連れて現れた。
「仲間から、連絡をもらって駆けつけた。
手際よく片づけたな。我らの手間が省けた。礼を言うぞ」
藤堂八十八郎は両国橋に吊された煮売屋たちを見た。
「また、縄張り荒らしです。我らを殺す、と言って、その匕首を振りまわしたので、我らで叩きのめしました」
藤吉が示す匕首は十一本だ。
「これは動かぬ証拠だな。鞘は奴らの懐か」
「親分格の煮売屋のあばらが折れたので、添木代わりに」
「あいわかった。
此奴ら、総元締めを相手に馬鹿な事をしおって。
死罪は免れまい・・」
藤堂八十八は両国橋まで行って、吊されている煮売屋たちを見下ろした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます