五 香具師の元締

 廻船問屋亀甲屋の主が先代の亀右衛門だった当時。

 主の亀右衛門と女房のトキの間に、長男の庄右衛門と妹で長女の美代がいた。

 当時、先代の亀右衛門は支払いを渋る顧客に手を焼いていた。


 その頃、亀甲屋は薬種問屋の利権を手に入れていたため、度々、日本橋界隈の裏世界を牛耳る香具師の元締の藤吉が、辻売りで商う薬を求めて廻船問屋亀甲屋を訪れ、現金で薬を仕入れていた。


 藤吉は身の丈が六尺ほどで厳い体躯だが、役者を連想するような小顔の整った面立ちで、言葉づかいも丁寧で人当たりが良く、先代の亀右衛門は、藤吉が商いのイロハを全て揃えているように思えた。

 薬を辻で商うとなればその筋に話をつけねばならぬが、藤吉はいっさいそのような態度を見せずにいつもおちついていた。


 その姿に亀右衛門は、

『この男、刃傷沙汰など幾多もの修羅場を潜り抜けて来たに違いない。

 そして一つも傷痕が無いこの顔と大きな体躯。さぞや向う所、敵無しなのだろうだろう。

 だが、ここに至るまでに、並々ならぬ苦労があったであろう・・・』

 と思い、現金で薬を仕入れる藤吉に、亀右衛門は様々な便宜をはかった。


 藤吉は廻船問屋亀甲屋の主亀右衛門に、多大な恩義を感じた。

「旦那様が困った折は、この藤吉が人肌脱ぎます」

 藤吉は日頃の恩に報いるため、亀右衛門にそう伝えて、自身が日本橋界隈の裏世界を牛耳る香具師の元締である事を亀右衛門に打ち明けた。


 亀右衛門は驚かなかった。やはり推察したとおりだ・・・。

 亀右衛門は巷の噂に、

『香具師は頼みようによっては、支払いをごまかそうとする不埒な顧客や、不当な卸しをする卸問屋を懲らしめてくれる』

 と香具師が裏社会で何をしているか聞いていた。

 藤吉が香具師の元締なら、藤吉は裏社会では大物だ・・・。

 亀右衛門はこの折にと思い、日頃から支払いを渋る顧客に手を焼いている事を藤吉に打ち明けた。


「わかりました。この藤吉、旦那様のために一肌脱ぎましょう。

 相手の名と住い、それと未払いの支払額を、旦那様の代理人であるこの藤吉に支払うよう、証文にしたためてくださいまし。

 その証文を町奉行所に届け、未払いの銭を取り立てる許可を承諾する証文をしたためでいただきます。

 さすれば、私に未払いの支払額を支払わぬ場合、相手は咎人です。町奉行所に捕縛されて支払いを強要されても文句は言えますまい」

 藤吉は未払いの銭の取り立て方法を亀右衛門に説明した。


 町奉行所にまで手をまわすとは大した男だ・・・。

 亀右衛門は藤吉の説明に納得した。

「それではよろしくお願いします。早速、証文をしたためます」

 亀右衛門は、店にいる藤吉を店の座敷に上げた。娘の美代に茶菓を用意させて藤吉の相手をさせてもてなし、その間に証文をしたためて藤吉に渡した。



 三日後。

 藤吉は未払いになっていた支払額を全額取り立てて亀甲屋へ届けた。


 亀右衛門は藤吉を奥座敷に招き入れて娘の美代に茶菓を用意させ、藤吉が取り立てた未払いの支払い額を受けとった。

 未払いの支払い額はまちがいなく全額があった。

 亀右衛門は大いに驚くと同時に、町奉行所の証文を使った藤吉の才覚に感激した。

 この男、香具師にしておくには勿体ない才の持主だ。何とか廻船問屋の商いをさせたい。娘の美奈と所帯を持たせ、亀甲屋を暖簾分けさせたいものだ・・・。

 亀右衛門は包み隠さず、その旨を藤吉に話した。


 亀右衛門と辻商いの品物を仕入れに来る藤吉は、以前から親しい間柄だ。最近は、亀甲屋が薬種問屋の代理店を兼ねているため、藤吉は亀甲屋で薬を仕入れるようになり、さらに亀右衛門が藤吉と顔を合せる機会が増えている。それは娘の美代も同じだった。


「あっしは読み書き算盤はできますから、品物の仕入れ値と商った値を大福帳に書きしるし、損の無いに商いをしております。

 しかしながら、その・・・、証文による商いというのが、何と言いますか、苦手でして。

 廻船問屋の商いが嫌いだと言うんじゃありません。品物と銭を直に見て商いをしませんと、納得できない性分なんでございます。

 証文による商いは、大口の商いの時が多いと聞いております。

 あっしには小口の商いが向いているんでしょうね」

 藤吉はそう言って、亀右衛門の申し出をやんわりと躱した。


 藤吉がそうするのには訳があった。

 廻船問屋、亀甲屋亀右衛門には二人の子がある。兄の庄右衛門と妹の美代である。

 かたや、藤吉は、日本橋界隈の裏世界を牛耳っている香具師の元締、藤信の一人息子である。


「未払い金取り立ての手筈は、藤吉さんの考えですか」

「あっしは支払いを渋っている客と面識がありませんでした。

 未払いの支払額を示す証文だけでは、難癖つけられて逃げられるやも知れません。

 そこで町奉行所に客の名と住いを届け、未払いの支払額を取り立てる許可を承諾する証文と捺印で、客が逃げられぬようにしたまでです」


 藤吉の説明を聞き、亀右衛門はますます、藤吉には廻船問屋を切り盛りできる才がある、と思った。藤吉を亀甲屋で働かせるにはどうすればいいのか・・・。

 そうだっ。美代は藤吉を好いている。美代の幸せのためにも、ひとまず美代と藤吉を夫婦にしよう。その上で藤吉を説得すればいい・・・。

 そう決断した亀右衛門は穏やかに言った。

「藤吉さん。今後もこの亀甲屋亀右衛門のために働いてください。

 お願いいたします」


「わかりました。この藤吉、亀甲屋さんのために働きましょう。

 その代りと言ってはなんですが、今後も、あっしの商いの仕入れを、よろしくお頼みします」

「もちろんですよ。

 ところで、美代と夫婦になってはいかがですか。美代も藤吉さんを好いているようですし、二人で、この亀甲屋の長屋で暮すのはいかがですか」

 亀右衛門はこの時とばかりに、思っていることを包み隠さずに話した。


「旦那様がそこまで話してくださるのだから、あっしも腹を割って話します。

 あっしは娘さんの美代さんを好いております。

 あっしは、日本橋界隈を縄張りにしている香具師の元締です。他界したあっしの父親は藤信といって、日本橋界を縄張りにしていた香具師の元締でした。

 大店の娘さんと香具師のあっしでは身分がちがいます」


「身分がちがえば夫婦にはなれぬと言うのですか。

 武家と町人でさえ夫婦になる今日この頃です。

 商人の娘と香具師が商売を通じて夫婦になっても構いますまい。

 主の私がここまで言っても、身分云々と気になさいますか」

 亀右衛門は、亀甲屋の行く末と娘の美代の幸せを願う思いを込めて、鋭い眼差しで藤吉を睨みつけた。


 香具師の縄張り争いで刃傷沙汰を潜り抜けた経験のある藤吉だったが、亀右衛門の眼差しに藤吉は身震いした。亀右衛門は本気だ・・・。

「わかりました。美代さんと夫婦になります。長屋に住わせてください。

 この藤吉、二言はありません」


「わかりました。美代をよろしく頼みます」

「あっしの方がよろしくお願いいたします」

 亀右衛門と藤吉は互いに深々と御辞儀した。


 頭を上げると亀右衛門は、

「トキさんっ。庄右衛門っ。美代っ。ここに来てださい。大事な話がありますよ」

 女房のトキと息子の庄右衛門、娘の美代を大声で呼んだ。亀右衛門の声が喜びに弾んでいる。

 美代は先ほど茶菓を運んできて台所へ引っ込んでいた。台所にはトキもいる。庄右衛門は店の帳場だ。


「はあい・・・」

 いつになく陽気な亀右衛門の声に、美代は、未払い金の取り立てのほかに藤吉さんが父を喜ばせるような事を話したのだろう、と思った。



 トキと庄右衛門と美代が座敷に現れた。

 亀右衞門は美代を藤吉の隣に座らせ、トキと庄右衛門を二人の横に座らせた。

「実は、美代を藤吉さんの嫁にと思っているのだ。

 藤吉さんは承諾している。あとはお前の心一つだ。

 お前とトキと庄右衛門に無断で話を決めてしまい、誠にすまない」

 亀右衞門はトキと庄右衛門と美代に向って丁寧に頭を下げた。

「二人は似合いの夫婦になると思うが、どうだろう」

 亀右衞門は七面倒な前置き無しにそう言った。


「あなた、なんて事を・・・」

 トキは目を丸くして口をパクパクしている。

 息子の庄右衛門の驚きも母のトキと同じだった。

 庄右衛門は藤吉と美代の仲が良いの知っていた。何とか妹の望みを叶えてやりたいと思っていたが、采配を振るのは父の亀右衞門だ。庄右衛門の立場では何も口出しできない。


「まあ、なんてことなの・・・」

 美代は隣に座っている藤吉を見つめてポッと頬を赤らめた。そして、その赤みが顔全体に拡がった。


「トキさん。『何て事を』の続きは美代の顔色と同じと言うことですね」

 亀右衞門はいちいち説明するのは煩わしかった。


 亀甲屋に出入りしているとは言え、辻商いの藤吉の立場は町人より低い。口には出さぬが、香具師の立場は無宿人だ。理由無く町人から忌み嫌われる。亀右衞門はこの場に及んでそうした煩わしい事を説明したくなかった。


「藤吉さんは、亀甲屋と取り引きある商人あきんどですよ。

 その藤吉さんに、美代を嫁に貰っていただくだけです。

 住いは、亀甲屋の長屋です。

 何か依存はありますか・・・」

 亀右衞門は女房と子どもたちを見た。急な話で言葉に詰まっているが、皆、笑顔だ。


「では、祝言の段取りは、庄右衛門、お前に任せます。

 何を驚いているのですか。お前は、いずれ亀甲屋を背負って立つ身ですよ。

 その時、藤吉さんと美代が、お前の良き助っ人になるはずです。

 がんばって祝言を仕切ってみなさい」

 亀右衞門はきっぱりそう言って美代と藤吉にほほえんだ。そして、トキを見て、

「身分などより、娘の幸せが第一です。

 足りぬところは私たちが補ってやればいいんですよ」

 と話した。

 私が身分などに拘らずに娘の幸せを願っているのは確かだ。そして、同等にこの亀甲屋の存続を願っている。そのためにも、藤吉の助力を必要だ。この亀甲屋が存続すれば、皆が安心して暮らせる・・・。

 亀右衞門はそう思っていた。


 日頃から仲の良い美代と藤吉を見ているトキだ。二人を何とかいっしょにしてやりたいと願っていても、なかなか亀右衞門に話せなかったトキだけに、娘の幸せを思う亀右衞門の心が自分と同じだと知って、トキは娘の幸せを願う以上に喜びを感じていた。トキは、亀甲屋存続のために、香具師の元締の藤吉を身内にしようと考える、もう一つの亀右衞門の腹の内を読み取ってはいなかった。

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