緋浦の国ひとかたり

かかえ

 ぬかるんだ地面に横たわりながら、鈴音すずねはぼんやりと目を開けていた。

 指先ひとつ動かすこともできぬまま、どれほどの時が過ぎただろう。うつろな視界に映るのは、彼女を取り囲むように生えた木々の根もとと、枝葉の積み重なった土ばかりだ。

 山林のあいだに伸びるこの道に、鈴音以外の人影はない。冷たく仄白い朝霧が立ちこめる中で、たったひとり。空から落ちてくる葉擦れの音だけが、虚しく辺りに響いていた。

 自分はここで、死ぬのだろうか。

 とうに枯れ果てていた涙の代わりに、口から細い息がもれる。

 戦というものが、各地で頻繁に起きているのは知っていた。でもそれは鈴音にとって見たことも聞いたこともない遠くの場所の話で、毎日の穏やかな暮らしには関係がないものだと、どこか他人事のように考えていた。

 まさか、生まれてから十二年も過ごした村に、突然武器を手にした者たちが押し寄せてくるなんて。

 当たり前だと思っていた日常が、たったひと晩で呆気なく壊されてしまうなんて。

 ひとり娘を逃がそうとする両親の必死な声に追い立てられて、鈴音は夜の中をひたすらに駆けた。月はなかったが、視界は明るかった。故郷を飲み込み燃え上がった真っ赤な炎が、行く先どこまでも照らしていたからだ。

 走って走って、やがて道の途中で力尽きた。

 当てもなく闇雲に逃げてきたので、この山林がどの辺りなのか、見当もつかない。知らない土地で誰にも気づかれずに、ひとりぼっちで死んでいくのかと思うと、たまらなく怖かった。

 やっぱり駄々をこねてでも両親のもとに残っていれば……。そう考えてから、鈴音は奥歯を食いしばる。

(父さん、母さん)

 あのあと父と母がどうなったのか、鈴音にはわからない。けれどなんとなく、もう二度と会えないのだろうという予感があった。ふたりは自らの命を懸けて、娘を守ってくれたのだ。それなのに、もう生きることを終わらせてしまうのか。

(……いやだ。いや。まだ死にたくない)

 強い思いとは裏腹に、意識はどんどん薄れていく。このまま気を失えば、きっと目覚めることはない。どうにかして生き延びなければと、重いまぶたを懸命にひらき続けていたときだった。

 遠くから、馬のひづめの音が聞こえた。一定の間隔で繰り返される軽やかな足音が、耳をつけていた地面から複数伝わってくる。

 そこに金具がこすれ合うような響きが重なっていることに気づき、鈴音は絶望した。

 鎧を着た者が騎乗しているのだ。襲われた村でも同じ音を聞いたので間違いない。

 逃げ出す力は残っていなかった。恐ろしさと悔しさで頭がいっぱいになっていた彼女のそばで、とうとう馬たちの足が止まった。

 誰かが馬上から着地して、一歩ずつ歩み寄ってくる。思わずぴくりとまぶたを動かしてしまってから、どうして無反応でいられなかったのだろうと悔やんだ。死んだふりでもしていれば見逃してもらえたかもしれないのに。

 その人物は鈴音の顔の前にしゃがみ込み、やがて小さく鼻から息を吐いた。

光繁みつしげさま。まだ息があります」

 思ったよりも若い声だ。大人と子どもの真ん中あたりの、少しかすれた声。鈴音がわずかに視線を上げると、彼女とふたつみっつほどしか歳の変わらなさそうな少年が、真っ直ぐこちらを見つめていた。

「しっかりしろ。おまえは助かる」

(たす、かる……?)

 静かだが確信を持って告げられたその言葉が、鈴音の心を強く揺さぶった。消えてしまいそうだった鼓動が途端に早まり、忘れていた空腹さえも感じるようになった。

(わたし、助かるんだ。まだ生きていられるんだ)

 ふいに身体から力が抜ける。けれど、もう怖いとは思わなかった。意識を手放しても大丈夫だと、何故だか強くそう感じた。

 ようやく閉じたまぶたから、涙がひと筋、頬を伝って流れ落ちた。

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