五
ひと月後。緋浦の国は、再び湯白の国と戦になった。
結果は惨敗だった。首こそ取られはしなかったものの、光繁は片腕にひどい怪我を負った。一時は生死も危ぶまれたほどだ。どうにか簡単な食事を取れるくらいに回復したが、もう刀を握ることはできないかもしれないと、人づてに噂を聞いた。
仲間の犠牲も多く出た。あれほど〈降神祭〉を目前にして浮かれていた国の雰囲気が、今では一転して、鉛のように重く沈んでいる。
己の心を映したような曇り空を見上げながら、鈴音は深々と息を吐いた。
さらなる驚異を見逃さないようにと言って、小景は先日から〈常凪の鏡〉がある部屋にこもりっきりだ。もう長いこと姿を見ていない。
彼女が心配でならなかった。頑張り過ぎて倒れなければいいが。こういうときこそ鈴音が近くで支えてやりたいのに、〈鏡〉の部屋は事読み以外の立ち入りを許されていないため、小景のそばにいてあげることもできなかった。
悶々とした気持ちを抱いたまま、鈴音は再びため息をつく。廊下の拭き掃除でもしようかと濡れ雑巾を持ち出してきたのだが、一向に進んでいない。
ふとした足音に気づいて顔を上げると、中庭を突っ切って歩いて来たのは時継だった。床にしゃがみ込んだ鈴音を見るなり、彼はなんとも言えない顔をする。
「どうにかならんのかねえ、この重々しい空気。息苦しくって仕方ねえわな」
その口ぶりは普段と変わらず飄々としていたが、頬にはまだ完全に塞がりきらない新しい傷がついていた。隠れているだけで、他にももっとたくさんの怪我を抱えているのかもしれない。そう思うとどう返していいのかわからなくなって、鈴音は黙ったまま相手を見つめ続ける。
時継はいきなり大きな手を伸ばし、鈴音の頭をわしわしと撫でた。
「おまえまでそんな顔すんなって。もう終わったことなんだ。いつまでも引きずってても意味ねえよ」
「だけどまた戦が起こったら、時継さまは怪我をしたままでも戦場にいくんでしょう? それがわかっているのに、わたしはただ見送ることしかできないから。なんだか申し訳なくて」
守られてばかりの自分が情けなかった。弓の腕を磨いたところで、使えないなら意味がない。下唇を噛む鈴音を前にして、時継が困ったように頬を指で掻く。
「待っててくれる人間がいるってのは、結構励みになるもんだがなあ。光繁もあんな怪我を負っちゃあいるが、そこまで気落ちしてるわけでもねえし。どっちかと言うと……」
そこでふと、時継は何かを思いたように動きを止めた。
「そうだ。なあ鈴音、これから光繁の見舞いにいってやってくれねえか?」
「え、うん。かまわないけど……」
「よし。たぶん閃の奴がつきっきりで看病してるはずだ。あいつにもよろしくな」
発言の意味を理解しかねているうちに、時継はひらひらと手を振って去ってしまう。遠ざかる背中をしばらく眺めたあとで、鈴音は言われた通りに光繁の療養する離れへと向かった。
離れといっても、庶民からすれば十分な大きさがある。鈴音が生まれ育った村で住んでいた家よりもずっと立派だ。玄関の前では、下働きの六次がせっせと雑草を抜いていた。彼は近づく鈴音に気づくや否や、途端に強張った顔をする。
「鈴音さん、まさか」
「光繁さまのお見舞いに来たの。入れてくれる?」
「やっぱり! 駄目ですよう、怒られるのはもうこりごりなんですから」
大きく首を振って拒否を示す六次の姿に、鈴音は苦い笑みを浮かべた。そういえば、以前は盗み聞きに彼を巻き込んでしまったのだ。
「大丈夫、今回は時継さまに頼まれて来たんだから。六次さんに迷惑はかけないわ」
安心させるように説明すると、六次は疑いの目を向けながらも、渋々といった様子で離れの中に入れてくれた。
草鞋を脱いで廊下を進めば、すぐに光繁の姿が見えた。だだっ広い板間の真ん中で、寝具から上半身だけを起こしている。聞いていた通り、そばには閃の姿もあった。こちらに背を向けているため表情は読めないが、ひどくうな垂れた様子だ。
なんとなく入りづらくて敷居をまたげずにいた鈴音のほうへ、ふいに光繁が顔を動かした。慌ててその場に膝をつく。
「今度は堂々と来たか。さては叔父上の差し金だな」
どうやら何もかもお見通しらしい。鈴音は頭を低くしたままうなずいた。
「遅ればせながら、お見舞いに参りました。お加減はいかがでしょうか」
「大したことはない。たまに痛むが、それだけだ」
光繁はさらりと答えたが、そんなはずはなかった。何日も目を覚まさないほどの傷だったのである。はだけた衣から覗く胸もとには幾重にも包帯が巻かれているのが見えたし、声にもいつもの覇気がない。
痛ましさに眉を寄せる鈴音の前で、唐突に閃が口をひらいた。
「光繁さま、申し訳ございません。命を懸けてお守りすると誓っていながら、貴方に傷を負わせてしまった。俺の力が及ばないばかりに」
悔しさを押し殺したような口調だった。ちらりと視線を上げると、小刻みに震える背中が映る。わななく彼に向かって、光繁は静かに告げた。
「傷を負ったのはおまえも同じだろう。程度が違うだけのことよ」
「俺が怪我をすることと、貴方がお怪我をされるのとでは意味が違います。光繁さまは、戦乱の続く阿木津に平穏をもたらしてくださる、選ばれたお方だ。それなのに」
感情のままに床を殴りつける閃の言葉をさえぎって、光繁が首を横に振る。
「閃よ。傷ついてもよい者など、この世にはおらぬ」
「俺はそうは思いません。……湯白の奴ら、残らずぶっ潰してやる」
食い縛った歯のあいだから漏れる閃の言葉は、黒々とした憎しみに満ちていた。さすがに放って置くことはできなかったのか、視線を険しくした光繁が、鋭い口調で閃の名前を呼ぶ。
「閃。言い過ぎだ。頭を冷やして来い」
閃はわずかに動きを止めたあとで、さっと頭を下げてから立ち上がった。振り向きざまに目が合ったが、彼は何も言わずに鈴音の脇を通り過ぎた。
遠ざかっていく足音を聞きながら、光繁が苦笑とともに額へ手を当てる。
「……あいつめ。剣の腕は頼りになるが、どうにも周りが見えなくなるときがある」
鈴音は唐突に理解した。時継はきっと、こうなることを見通していたのだ。危ういのは光繁の容態よりも、閃の心のほうだろうと。
「光繁さま、わたし――」
「ああ、頼む。私の代わりになだめてやってくれ」
最後まで言わずとも、光繁は鈴音の思いを察してくれた。鈴音はその場で深々と平伏してから、急いで閃のあとを追いかけた。
玄関を出たときには、すでに閃の姿はなかった。雑草を握り締めたまま立ち尽くしている六次に尋ねると、母屋のほうへ向かったことを教えてくれた。鈴音は礼を述べてから、言われた方向へ駆け足で進んでいく。
庭を過ぎ、母屋に上がって、建物同士を繋ぐ渡り廊のあたりでようやく、閃に追いついた。息を弾ませながら、大股で歩む彼に声をかける。
「ねえ。どこにいくの」
しかし答えはなかった。閃は無言を貫いたまま、足を止めようとはしない。必死について行くしかない鈴音を連れてどんどん進んでいた彼は、やがて館の裏手にある空き地で立ち止まった。
何をするのかと様子を伺っていた鈴音の前で、閃は壁に立てかけてあった木刀を無造作につかみ、勢いよく振り始める。気迫のこもった様子にたじろぎつつも、鈴音はおずおずと口をひらいた。
「怪我してるんでしょう。まだあまり動かないほうが……」
無茶をして傷口がひらきでもしたら大変だ。それでも素振りをやめない閃に向かって、今度はもう少し声を張って話しかけてみる。
「閃、ねえ」
「うるさい!」
噛みつくような大声に鈴音はびくりと肩を揺らした。動きを止めた閃が、苦々しげに表情を歪ませる。
「俺はもっと、強くならないといけないんだ。強くなって、今度こそ光繁さまをお守りしなければならないんだ。この命に変えても」
かなりの力が入っているのだろう、構えたままでいる木刀の先がぶるぶると震えていた。鈴音はしばらく呆然と彼を見つめてから、やっとのことで言葉を口にした。
「どうして、そこまで」
怯えの含まれた声に気づいたらしい閃が、一瞬だけ罰が悪そうに鈴音を見る。それからすぐに視線を戻し、彼は静かに告げた。
「俺も昔、光繁さまに命を救われた。親に捨てられ野犬のような生活をしていた俺に、手を差し伸べてくださった。あのときから俺は、あの方の剣だ。唯一の役目を果たす力もないのなら……、俺が生きている意味はない」
(ああ、そうか)
同じなのだ、と鈴音は思った。閃も鈴音と同様に、自分の居場所を失いたくないのだ。与えられている役目を取り上げられたとき、どこでどうやって生きたらいいのか、わからずにいるのだ。
鈴音は一度目を伏せてから、遠慮がちに閃の顔を覗き込んだ。
「わかった。もう止めない。でもその代わりに、ここで見ていてもいい?」
彼の気持ちはわかる。しかし無茶をして怪我がひどくなるのではと思うと、このまま離れる気にはなれなかった。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうな口調を返して、閃が再び力強く木刀を振った。
*
湯白の国の長・望長は、いつになく上機嫌であった。宿敵である緋浦との戦いで満足な成果をあげられたことに、気持ちが高ぶって仕方がないのだ。
「光繁めの首は得られなかったが、それでも上々よ」
天井の高い建物の中には、他に誰の姿もない。窓から頼りなく差し込む月光を身に浴びながら、彼はひとりごとのように明るい声で語り続ける。
「奴は深手を負い、剣もまともに握れぬという話ではないか。この機に乗じて一気に攻め込めば、今度こそ緋浦を潰すことができるに違いない。そうだろう?」
尋ねた先は、祭壇に置かれた平らな盆だった。張られた水が細かくざわめき、くぐもった声が返された。
『早まるな。〈御伺い〉の結果では、今は動くときではないと出ている』
望長はほころんでいた表情を途端に消した。いつもいつも、この事読みを名乗る者の返事はほとんど変わらない。待てだの動くなだの、まるで己が犬になったようで腹が立つ。
「ならばいつだ。一体いつまで待てば、神から許しを得られるのだ」
『近いうちに。それ以上はわからない』
これ見よがしに深く息を吐いた。そろそろ潮時か。〈降神祭〉までもう数えるほどの日数しかない。これ以上待っていては、長きに渡る湯白の栄光を他国に奪われてしまう。それだけは絶対に、避けなければならない。
「そうか。ならばもう先見には頼らぬ。これからは私の好きにさせてもらう」
『な、何を……』
初めて水盆から狼狽えた声を聞いた。いい気味だ。にやりと口の端を吊り上げながら黙っている望長に、事読みは脅すような口調で言った。
『己の欲のために、神の声を蔑ろにするというのか。湯白の国が滅ぶことになっても構わないのか』
「そうだ。それに、おまえにも愛想が尽きた」
ぐっと言葉に詰まった様子が滑稽だった。望長は喉の奥で小さく笑ってから、さらに相手を追い詰める。
「前から思っていたが、おまえはまだ青いな。駆け引きのこともよくわからぬ若造なのだろう。こちらの利益になるからと茶番につき合ってきたが、それも今日で終いだ。二度と話すことはあるまい」
返事はなかったが、それでいい。最後にひとつだけ、心からの言葉を送る。
「これまで少しは楽しませてもらった。礼を言うぞ」
ふと水盆からさざ波が消えた。これで完全に、湯白の国の事読みがいなくなったことになる。望長は目を伏せると、ひとり静かに暗い笑みを浮かべた。
(……さて。いよいよあとには引けぬ)
湯白の国のために彼ができることは、ただひとつしかない。
*
ある日を境に、小景はいよいよ誰の前にも姿を見せなくなった。
それまでも〈御伺い〉に熱中して引き籠もることは多かったが、今回は明らかに様子がおかしい。自室の戸をすべて締め切って、ほとんど外へ出てこないのだ。
食事を部屋の前に置いておいても、少し食べただけで残すという。そんなことではいつか倒れてしまうに違いない。じっとしていると悪い想像ばかり膨らんでいく。とうとうたまらなくなって、鈴音は小景のもとへ向かった。
同じように心配だったのだろう、部屋のそばには光繁と時継が立っていて、難しい顔で何かを話し合っていた。ふたりはこちらに気づくと、わずかにほっとした様子を見せた。
無言で道を譲られ、鈴音はゆっくりと進み出た。閉め切られた木戸を軽く叩いて、中にいるはずの小景に声をかける。
「ねえ小景、少し出てこない? おいしそうな果物を妙さんから分けてもらったの。一緒に食べよう」 返事の代わりに、衣擦れの音が聞こえた。そのことに安堵のため息をついてから、さらに続ける。
「そうだ。何日か前、館の敷地に猫が迷い込んできたんだ。綺麗な三毛猫でね、喜与丸さまがすごく気に入ってるから、このまま飼うことになるかもって」
ぐす、と鼻をすする音で鈴音は言葉を切った。小景が泣いている。とっさに中へ踏み込もうとするよりも一瞬早く、木戸がほんのわずかにひらいた。隙間から顔を覗かせた小景は、目の周りを泣き腫らしながらも、何かを決意したかのように表情を固くしていた。
「……鈴姉。ずっと心配かけててごめん。全部話すよ。光繁さまも、聞いてください。どうぞ中へ」
鈴音は目を見張ってから、うしろを振り返る。光繁が鷹揚にうなづき、時継は黙って数歩あとずさった。
小景に促されるままに板間へ上がり、部屋の真ん中で光繁とともに腰を降ろす。向かい合わせに正座した小景は、しばらく躊躇いがちに瞳を揺らしていたが、やがて深々と額を床につけた。
「ごめんなさい。わたし……、ずっと隠し事をしていました。ここ数ヶ月、湯白の事読みとして動いていたんです」
「えっ?」
思いがけない告白に、鈴音は頭が回らなかった。隣の光繁も驚いた様子だったが、それでも冷静に口をひらく。
「どういう意味だ。詳しく話せ」
「はい。お母さんが――母が亡くなる直前、わたしに遺言を残しました。数年後、湯白の事読みが自害する。その機に乗じて敵の懐に潜り込みなさいって。母はわたしよりもずっと力が強かったから、その分たくさん先の出来事を知っていました。予知を利用して、緋浦のために相手の動きを操りたかったみたいです」
ぽつぽつと語る小景の言葉を、鈴音は呆然としながら聞いていた。
小景の母親である千織が亡くなったのは、鈴音が緋浦に拾われる少し前のことだったという。だから彼女がどんな人物であったのかはわからない。ただ、千織が歴代の事読みの中でも特に有能で、正確な先見でもって国を支えていたのは知っていた。
そのせいで娘の小景は何かと母親と比べられ、日々劣等感に苛まれていることも。
「遺言通りに湯白の長に取り入って、しばらくはうまくいっていたと思います。だけど、だんだん母から聞かされていた予知だけでは足りなくなってきて、最近ではわたしが自分で〈御伺い〉をしないといけなくなって……少しずつ計画が綻び始めたんです」
声に涙が混ざり始めた。それでも小景は語ることをやめない。
「このあいだの戦で負けたのも、きっとわたしのせいです。とっくに湯白の長には見破られていて、うまく泳がされていただけなのに気づけなくて。わたしのせいで、光繁さまにひどい怪我を」
「私のことはよい。それより何故黙っていた」
きっぱりと話を切り替えた光繁に、小景は小さくうなずき返してから続ける。
「誰にも言ってはいけないって、母から言われていたんです。緋浦の中には敵と内通している者もいるから、うかつに口に出してはいけないって」
内通、と聞いて鈴音は心底驚いたが、光繁にはなんの反応も見られなかった。おそらくそういう可能性も十分あると考えていたのだろう。ひとりでどぎまぎしていた鈴音のほうへ、小景の青い瞳が向く。途端にその表情がみるみる崩れた。
「だけど……もうわからなくなっちゃった。ねえ鈴姉、わたし、どうしたらよかったのかな。緋浦のために始めたことなのに、どうしてこうなっちゃったんだろう。何が間違っていたんだろう」
ぽろぽろと涙を流す姿を見て、鈴音はとっさに身を乗り出した。両手を伸ばし、うな垂れている小景の身体をすがりつくように抱きしめる。
「ごめん、小景。ずっとそばにいたのに、気づいてあげられなくて、本当に、ごめん」
誰にも言えずにひとりで抱え込んで、つらかったに違いない。苦しかったに違いない。彼女の気持ちを思うと心が痛んで仕方がなくなって、鈴音の目からも涙があふれた。
ふたりで声を上げながら泣きじゃくり、どれほど経っただろう。疲れてすすり泣きに代わり始めた頃になって、光繁が静かに口をひらく。
「……落ち着いたか」
小景はやんわりと鈴音の身体を離すと、表情を引き締めてから床に頭をつけた。
「申し訳ありませんでした。どんな罰でも受ける覚悟です」
鈴音は慌てた。これ以上彼女が苦しむところは見たくない。急いで小景の隣に座り直し、一緒に頭を下げる。しかし、光繁はひとつ息を吐いただけで、咎めることはしなかった。
「千織もおまえも、緋浦のためを思って動いていたのだろう。これからも今まで同様、力を貸してくれればそれでいい。頼りにしている」
小景がぱっと視線を上げた。鈴音と顔を見合わせてから、彼女はしばらくぶりの明るい笑みを浮かべて返事をする。
「はい、もちろんです!」
それから三日後。小景は何者かに襲われ、意識を失った。〈降神祭〉が行われるまで、もう間もなくのことである。
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