第10話 蒼天の露草色3
図書館までの短い道のりを歩きながら、つい先週まではあたりまえに見えていた青空の色を思い出す。今は、頭上の重々しい鉛色にすっかりと覆われてしまった。
こういう季節が来ることはちゃんとわかっていたはずなのに、こんなことすら失くしてから気づくものだ。色喰いの出現とか、蘇芳との攻防とか、なんやかんやでバタバタとしていたとはいえ、もう少しあの桜と青空のコントラスト、鮮やかな春の色合いを焼き付けておけば良かったなと思う。
足元で揺れる草からズボンの裾に飛び移る露が小さく弾けるのをなんとなく眺めながら歩いていると、図書館の手前にある藤棚の下のベンチに不揃いな人影がふたつ見えた。
「……なんだ、あの組み合わせ」
思わず、引きつった声が零れた。傘を差すほどではないが、断続的に降り続ける細かな霧の粒子のような小雨に濡れた木のベンチに腰かけているのは、小学校の低学年くらいに見える、可愛らしい女の子と、相変わらずの仏頂面をした
うちの大学の図書館はけっこう規模も大きく、建物自体が歴史ある豪族の邸宅かなんかを改修して作ったというような説もあり、地域住民にも一般開放されている。
教授や学生が主に利用する研究書や論文集の類が集められた書架の近辺で出会うことはほぼないが、一般図書や児童書もある程度は置かれているため、ときどき家族連れや地域のおじいちゃんおばあちゃんが訪れているのに出くわすことはあった。
しかしそれにしても、この異様な取り合わせはなんなのだろう。何はおいても、いたいけな少女があの男の異様な迫力に
蘇芳がひとりでいるなら迷わず気配を押し殺して見つからぬように通り過ぎたいところなのだが、子どもの安全と天秤にかけられてはどうしようもなく、おれは藤棚に近づいて声を掛けた。
「……蘇芳、なにしてんだ?」
蘇芳は、ベンチに座ったまま面倒そうに目線だけをこちらに向ける。こいつのことだから、おれがいることにはたぶんさっきから気づいていたのだろうが、どうも思った以上にご立腹な様子である。まぁ、普段からさほど心温まる関わりを持っているわけでもないので、おれの体感温度はそれほど変わりはしないのだが。
「どうも、彩さん。自分から声を掛けてくるなんて珍しいですね」
「あー……いや、なにしてんのかなって思って……」
おれの思考を見透かすように、蘇芳は切れ長の瞳をすっと細める。蘇芳の隣に腰掛けて、足をぶらぶらと揺らしていた女の子は、おれをじっと見上げると膝の上に載せていた赤いリュックサックの中からスケッチブックを取り出した。
「お兄ちゃんに、絵を教えてもらってたの」
「え……絵を?」
思いがけない一言に、奇妙に裏返った声が出た。蘇芳はそんなおれを眺めて、面白くなさそうに眉をひそめる。
「心底驚くのやめてもらっていいですか。おれは、一般人と子どもと動物に危害を加えたことはありません」
「……一応聞きたいんだけど、おれってその『一般人』に含まれてる?」
「含まれていると思うんですか?」
「……思わない」
「でしょうね。彩さんは、彩さんですから」
どういう意味なんだかわからないが、掘り下げるのも恐ろしいので諦めて女の子の正面にしゃがみ込んだ。身体に比べてずいぶん大きく見えるスケッチブックを大切そうに抱きしめた彼女は、楽しそうに目を輝かせておれを見返す。たしかに、蘇芳に怯えているような様子はなかった。
「絵を描くのが好きなの?」
そう尋ねると、女の子は元気よく頷く。
「うん。でも、あんまりうまく描けなくて。おばあちゃんに、ここの景色を描いてあげたいの」
「おばあちゃんに?」
「ここの図書館に、おばあちゃんと一緒によく来たの。でも、おばあちゃん入院しちゃって……。しばらく一緒に行けないねって、寂しそうにしてたから」
「そうだったんだね。それで、お兄ちゃんに教えてもらってたの?」
「最近、ときどきここで絵を描いてるの知ってたの。お兄ちゃん、すごく絵が上手でしょ?」
女の子が得意げに胸をはる様子が可愛らしくて、おれは頬を緩めた。それにしても、蘇芳がここで絵を描いていたことがあったとは、意外だ。
「うん。とっても上手だと、おれも思うよ」
そう言うと、女の子は嬉しそうに微笑んだ。おれたちの様子を黙って眺めていた蘇芳が小さくため息をつく。
「そろそろ帰らないと暗くなるぞ。今度は、天気がいい日に来るんだろ」
蘇芳はため息まじりにそう言って、ストールについた細かな水滴を簡単に払うとベンチから立ち上がった。それに続くようにして、女の子は軽やかにベンチから飛び降りる。
「うん、また教えてね。ばいばい、お兄ちゃん」
ぶんぶんと元気よく手を振りながら、赤いリュックを揺らして駆けていく小さな姿を見送って、蘇芳はふぅと息をついた。
「可愛いなぁ」
ほっこりとしながらそう呟くと、蘇芳は呆れたようにおれを眺めた。
「彩さんは子どもと動物に弱そうですよね」
「だって、可愛いじゃん」
「まぁ、彩さんの場合、大人にも別に強くはなさそうですけど」
「……それって、おれが何にも勝てないって言いたいのか?」
「別に、そこまでは言ってません。で、何しに来たんですか」
「何って、図書館に用事があっただけだよ。そしたら、たまたま蘇芳が子どもといるのが見えたから」
「おれが子どもを怖がらせてないか心配で、声を掛けたと」
「……別に、そういうわけでもないような、なくないような」
もごもごと口ごもると、蘇芳は探るような視線でおれを眺めた。たしかに失礼な心配だったことは認めるけど、おれにも多少の情状酌量の余地はあるはずだ。日頃のおれへの態度から鑑みて、まさかあの蘇芳が、通りすがりの子どもに絵を教えてあげているなんて状況、すぐには頭に浮かばない。
けど、そうは言ってもこの物言いさえ気にしなければ、たしかに蘇芳は面倒見のいい人間なのだろう。ひとりで途方に暮れていたおれに、呆れながらも手を貸してくれた先日の出来事を思い出すと、さすがに少し申し訳なくなった。
「……いや、おれも助けてもらったのに失礼だよな。ごめん」
顔を上げて、蘇芳の目を見返しながらそう言うと、蘇芳は不機嫌顔を返上し、意外そうに目を瞬いた。
「別に、そんなことに本気で怒ったわけじゃないです。それよりその様子じゃ、腹くくったわけでもないんでしょう。『声かけなきゃよかった』って、顔に書いてますよ」
「……う」
「人並みのポーカーフェイス習得への道のりは遠いですねぇ」
蘇芳はそう言って、黒のリュックを肩に掛け直すと可笑しそうに笑った。「にやり」という形容が当てはまらない蘇芳の笑顔はかなり新鮮だ。いつもの謎の迫力に惑わされずに向き合ってみれば、涼し気に整った表情は心なしか柔らかくなったようにも見えた。
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