クマさんから逃げる話

 幼い頃聞いたことのある童謡に、森で偶然出会ったクマにしこたま追いかけられ、脅かされ、散々生命の危機を感じさせられた挙句、実は私の落とした貝殻のイヤリングを届けてくれていたんです、ハッピーエンド! という非常にディテールの甘い曲があった記憶がある。

 なぜ生死の境を彷徨っているこのような状況で場違いにもその穏やかな童歌を思い出したかといえば、現在の状況に符合する点が多いからだ。


 順を追って説明する。


 まず、現場となるここは木漏れ日注ぐ森である。完全なる一致。だがこれ一つでは大した問題にはならない。コンクリートジャングルで生まれ、コンビニとゲーセンとボウリングセンターを根城に育った俺がなぜわざわざ森に出向くに至ったのか、という点はとりあえず一定の質疑の必要を感じるところだが、まあそれは追々。


 次に、俺は猛然と駆けている。クマに追いかけられているためだ。明らかなる異常。現代社会に生きててどういう道を辿ればこんな目に遭う?

 ちなみに言えば、クマは野生のクマではなく、クマのマスコットのコスプレをして手に包丁を構えた変質者である。いっそ本物のクマであって欲しかった。野生のクマは実はさほど好戦的ではない。少なくとも相手を脅かさずに静かに後退したのち距離を取れば、相対した者の生存の可能性はかなり高いと言われている。

 しかしクマの着ぐるみを着て包丁を手に迫ってくる人間(?)相手となれば、もはや逃げる以外に対処のしようがない。


 で、最後のポイント。俺が追いかけられている理由は、イヤホンを落としたからである。ここ、微妙に違うんだよな。惜しいことに。しかしクマ(着ぐるみ)が包丁を持った右手と逆の手にイヤホンを掲げて追いかけてきていることから察するに、それを俺に突き返したいのは確かなのだろう。


 以上、説明終わり。


 結構な山奥にあるこの森は、常に地面を覆っている落ち葉とその腐った腐葉土、低木の茂みや倒れた木、散乱する木の枝や木の根などでかなり足場が悪かった。走るにもかなり路面状況の悪い場所だ。まあその条件はクマも同じであるし、むしろ向こうは厚手の着ぐるみを着ているせいでより荷重を強いられているだろうから、その点はこちらにとって好都合だ。

 なお俺の装備はこの時期に着るものとしては若干薄手のパーカーに、履き潰したスニーカー、頭部にはハンチング帽、という軽装ルックである。大概にせえよという気持ちになる。

 手荷物も途中まで抱えていたが自らの命と秤にかけて道々捨てた。今頃この森のどこかで腐葉土に沈んでいっていることであろう。グッバイ俺の手荷物、俺の命の身代わりに安らかに眠れ。


 ちなみに手荷物の中には武器になったり役立ちそうなアイテムは全くなく、大体がシャンプー・コンディショナーセットとタオルと明日の分の着替えくらいであったから、やはり捨てる選択は正しかった。そう、俺は温泉宿に向かうバスに揺られていたはずだったのである。つい十分ほど前まで!


 高速道路を早々に降りたシャトルバスが山奥の入り組んだ峠道に差し掛かったところで、運転手が叫び声を上げたと思ったら車体ごと乗り上げるように急停車したのだ。俺の他にも乗客が二、三人いたかと思うが、全員何が起こっているかわかっていなかった。

 比較的前の方の席に座っていた俺が青くなるバスの運転手の視線の方を見やると、どこかの球団のマスコットキャラクターだったと記憶にある丸っこくて黒い着ぐるみがバスの乗降口を無理やりこじ開けてステップを駆け上がってくるところだった。


 で、包丁を突きつけて脅され、なんとかバスから逃れて山中に傾れ込んだところ、クマの着ぐるみまであとをつけてきてーーこの有様である。


 クマは先ほどから言葉にならない声で何事かをひたすら叫び続けている。怖すぎる。俺を呼び止めようとしているのか、俺の何かに怒っているのか、ただただ興奮のあまり絶叫しているのかは定かではなかったが、どうもその剣幕を見聞きするに会話の余地もなさそうである。ひたすら逃げるしかない。

 クマの叫び声に混じって、俺の持っていた無線イヤホンから流れる流行りのミュージックスターのポップミュージックが明るくテンポを刻んでくる。やめてくれ。これ絶対クマさんの怒りを増長させてるやつだから。俺の命のためにイヤホンの充電よ今すぐ切れてくれ。


 しかしこのクマ、存外によくついてくる。先ほども述べたように路面の状態は俺に味方しており、そうでなくともあのシルエットのゴツい着ぐるみを着て走り回っているのだからそろそろ疲れが出てもいいはずだ。それなのに俺の方が先に息を切らし始めている。

 くそ。こんなことなら先月まで欠かさずやっていた朝のジョギングを継続しておけばよかった。運動なんて俺には必要ありませーん。コスパが悪いですー。などと考えた舐めプの自分を過去に戻って叩きのめしたい。お前は今コスパよりもずっと大切な岐路に立たされているぞ。聞いているか?


 もう十五分はそのまま走り続けていただろうか、流石に双方疲労が出始め、クマも叫び声が途切れがちになっているし、俺はもう肩を上下させて荒い息を吐いている。限界が近いのが見て取れた。

 嫌だ。死にたくない。まだ一度も履いてないおろし立てのハイブランド・スニーカーを買ったばかりなんだ。職場の角にあるラーメン屋、同僚たちが美味しい美味しいと口々にいうので近いうちに食べに行くつもりでいた。漫画雑誌の来週号の展開をもう一ヶ月も前から考察し尽くして心待ちにしてきたんだ。こんなところで、死ねない!


 死の間際で俺の頭はかつてないほど高速回転した。素早く辺りを見回すと、木の上から何本か蔦らしき植物のツルが垂れ下がっている。

 そのうちの一つを握りしめ、思いっきり引っ張りながら加速する。

 そうして、クマがツルのかかる木の下を通りがかるタイミングで、ツルを掴んでいた手を離した。


 ツルがバネのように跳ね返り、その周囲一体の木の腹を打ってばちばちという音を鳴らす。ただでさえ着ぐるみで視界の悪いクマはにわかに混乱したらしかった。狙い通り。

 その間に九十度進行方向をかえ、なるべく静かに歩みを進めたのち、木陰にうずくまった。


 案の定クマは俺を見失ったようで、怒りからか包丁を振り回しながらあちこち視線を泳がせている。

 やった。このまんまやり過ごせば…。

 心臓の音がやけに大きく響くかと思えた。呼吸音すらも煩わしい。口の上と胸の上をそれぞれ左右のてで覆い、なんとか気づかないで去ってくれよと祈りを捧げる。

 永遠にも近い時間が流れたかと思えた。


「あ、あの…」


 声に振り返ってみれば、クマの着ぐるみの顔が真横に迫っていた。



「いやー、何だか盛大に勘違いさせちゃったみたいで、すみません」


 半刻のち、俺は温泉宿のロビーで備え付けのマッサージチェアにぐったりと体を預けていた。

 目の前には頭の部分をとった例のクマが、ねじり鉢巻のおっちゃんの顔を晒してペコペコ頭を下げている。


 どうやら彼はこの宿屋の従業人らしく、宿から提供するレクリエーションという名目でクマの着ぐるみに身を包み、包丁を携えた姿でいわゆるドッキリを提供しようとしたとのことである。俺があまりにも本心から怖がって逃げるので興が乗ってしまい途中まで本気で追いかけてきたが、収まりがつかなくなり彼は彼でかなり焦っていたらしい。


 なお俺の耳から滑り落ちたイヤホンをわざわざ拾って追いかけてきた理由は、その時俺が聞いていたミュージシャンが彼の推しでもあったから、らしかった。

 そうして例の童謡通り、俺はクマのてからイヤホンを返され、手を取って踊り…はしなかったが、まあ一件落着したのだった。


 俺はもちろん他の客からもこのレクリエーションは大層不評で、仕掛け人らしき支配人の爺さんとバスの運転手はひたすら首を捻っていた。ジェネレーションギャップがこんな形で出てしまうとはな…。


「それはそうとー、TAKERU、好きな人リアルで初めて出会いました。連絡先交換しません?」


 キラキラと目を輝かせながらクマもとい従業員が件のミュージシャンの名を口にするので、俺は疲れから震える手で携帯を操作してグループチャットアプリへの友だち登録を済ませた。TAKERU好きに悪い人はいない…はず。

 いつも憧れを持って聞いているミュージシャン、TAKERUの歌が、その後しばらくトラウマと化したのはいうまでもない。


ーーー


 三題噺ガチャ

「木漏れ日注ぐ森」

「イヤホン」

「駆ける」

 のお題より

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