塔の願望

 雪の朝に唐突に現れたその人を、キヨシは最初、魔女かと思った。

 濡れた外套はカーキ色が滲んでほとんど黒に近く、その端々が白く雪で凍り付いていた。目深に被った帽子の庇でその目の色は窺えず、ただひび割れた口元に浮かぶ笑みから表情を読み取るしかなかったが、それはキヨシの多からぬ経験と照らし合わせても到底笑顔と呼べるものには思えなかった。昨夜からの雪で随分と冷え込んだためか外套は着膨れているが、襟元から覗く首筋が驚くほど細く白い。軍服を纏ってはいるが、紛れもなくそれは女性だった。

 彼女の現れた厨房の奥の裏口に目を走らせ、人を呼ぼうか躊躇ったものの、敢えてキヨシは声を抑えた。

 「どちら様かしら。そのなりは、何か事情がおありなの?」

 外は痛いほどに静まり返っている。未明から軍人がこの辺りを包囲しており、決して外を覗いてはならないと父に厳命されていた。険しい顔をした父は夜明け前から広間の電話につきっきりで、母は泣きそうな顔でその傍に従っている。さしものキヨシにも事態の非常は読み取れたので、心細さから一緒にいたいとごねたのだが、普段は甘い両親がそれを許さなかった。部屋から出てはならないとも言われたのだが、乳母の寿子としこが広間の様子を伺いに立った隙を見て、こっそり抜け出してきたところ、この女を見つけたのだった。

 廊下の半ばで居竦みながら、キヨシは女を凝視する。小柄な母と比べるとやや丈高い印象で、年のわかりにくい顔をしているが、よく見ると時折来訪する叔父の芳視よしみとよく似た顔をしていた。女の身で軍服とは面妖だが、非常の事態ともなれば何か理由があるのかもしれない、と思ったのだった。

 ふと女は軍手をはめたままの手で庇を取り、帽子を脱ぎ払って軽く首を振った。肩にようやく掛かるほどの断髪が顔の周りに落ちる。しっとりと湿った髪を耳に掻き揚げて、それから女は背中を丸めてキヨシと視線を揃えた。品のよい笑みは、いよいよ叔父とよく似ていた。

 「あなた、キヨちゃんね。お久し振りだわ、あたしあなたが赤ちゃんのときに会ったことあるのよ」

 キヨシは瞬く。それから少し考えて、不安そうに答えた。

 「もしかしてひで子叔母様かしら」

 「ええ、知っていてくれたの、嬉しいわ」

 寒さに染まった頬は温かそうで、ほっとキヨシは息を吐いた。会ったことは覚えていないが、父の妹で長く療養しているというひで子叔母の存在は、折々につけ母が教えてくれていた。なるほど、なれば叔父と似ていることにも合点がゆく。

 そこまで考えて、再びキヨシは首を傾げた。

 「叔母様、お外はお寒かったでしょう。それに軍人さんがおおぜいおられて危なくはなかった? ご病気は大丈夫でしたの?」

 叔母は目を細める。その物静かな物腰に、なぜかキヨシはぞくりと寒くなるものを感じた。薔薇のような頬の裡に、雪よりも冷たいものを含んでいるように見えたのだった。軍服の不自然さや、先触のない来訪など、不審な点はまだ何一つ解決していない。

 「あの、お父様をお呼びするわね。お疲れでしょう、誰ぞにお茶を用意させますわ」

 「いいえ、あたしはあなたに会いにきたの」

 柔らかく、しかし決然と言われてキヨシは身を竦ませた。三歩の距離とはいえ、人を呼べばすぐに誰か駆けつけるに違いない。それでも刃物よりもっと鋭い何かを突きつけられたように、キヨシはその場から動くことができなかった。

 叔母は帽子を胸に当てたまま、優しく首を傾げる。重く湿った髪の束が紅い頬に掛かり雫を落とした。

 「あたしね、キヨちゃんのことを迎えにきたの。ここはもう危ないから、キヨちゃんだけはどうしても助けようと思って」

 「……お父様とお母様は?」

 一瞬唇が戦慄いた。叔母は軽く目を伏せる。

 「わからないわ。でもきっと大丈夫、鏡子かがみこさんがいればお兄様も助かるわね。ただ、キヨちゃんは危ないの、だから迎えにきたのよ」

 キヨシは軽く眉をひそめる。叔母の言葉はふわふわと覚束なく、ともすれば正気すら危ぶまれるほどつかみがたい。ただ、なぜか嘘をついているようには見えなかった。

 「なぜかしら、お父様とお母様がご無事ならきっとあたしも守ってくださるわ」

 思ったままを素直に切り返すと、叔母は不意にくすくすと笑った。ひきつるような笑い方に、もう一度キヨシは眉をひそめる。軍装姿に身を固めた叔母は、ひび割れた唇を舌で舐めながら呟いた。

 「ええ、ええ、ええ。きっとそうでしょうね、お優しいお兄様と鏡子さんですもの、キヨちゃんのことをそれは大切にして下すっているのでしょうね」

 そして不意に、彼女は軍手で覆った手でキヨシの肩を掴んだ。

 「でもね、きっと無理。あの人すら救えなかったのだもの、お兄様にはあなたを守りきることなんかできっこないわ。ええ、キヨちゃん、あなたを守れるのはあたしだけなの」

 首筋に雪を投げ込まれたような気がした。間近に迫った叔母の目には、確かに吹雪よりも冷たく燃える狂気の炎が宿っていた。

 「お兄様には無理、この叛乱を切り抜けても、きっとこの次には守りきれない。あたしだってお兄様が死んだらそりゃあ悲しいでしょうけど、それでもあなたを失うのに比べたらずっとずっとましだわ。あの人を守れなかったのだもの、せめてキヨちゃんあなただけは守りたいわ、そうでないとどうしてあたしは生きているのかしら、ねえそうでしょう」

 立ち尽くしてキヨシは叔母を見遣り、それからふと背後に目を向ける。しんしんと冷え込む廊下の向こうは薄暗く、微かな話し声が洩れ聞こえるばかりだった。少し大きな声を上げればすぐに気付くだろう、そしてキヨシは父に叱られて部屋に戻らされ、今度こそ乳母がつきっきりで、もしかしたら母も傍にやってくるに違いない。

 ――そしてこの叔母はどうなるのだろう。ずっと顔も知らなかった、ずっとこの家に招かれることもなかったこの叔母は。

 ふとキヨシは目を閉じた。瞼の裏に、石造りの大きな塔が見えた気がした。その塔の頂上、階段も梯子もない部屋の中に今自分は佇んでいる。父と母と、それから時折訪れる叔父ばかりが、素知らぬ顔で部屋の中にいるキヨシを覗き込んではどこへともなく消えてゆく。真実は塔の裾野の闇の中、くらめく高さと石の壁に遮られて窺うことすら適わない。

 やはり目の前にいるのは魔女だ、とキヨシは思った。何か空を飛ぶ魔法を使って、今この真実の頂上へやって現れたに違いない。魔女は全てを知っている。もしかしたら塔そのものすら、魔女の作り上げたものかもしれない。

 そしてキヨシは目を開けた。叔母の強い瞳が自分を捉えており、そしてようやく叔父以上に自分の方が彼女によく似ていることに気付いた。なるほど、とキヨシはその目を凝視する。だとすればもしかしたら、自分も魔女なのかもしれない、などと取りとめもなく思う。

 「叔母様、お父様とお母様は平気なのね」

 「ええ、確実とは言えないけれどきっと大丈夫。鏡子さんさえその気になれば、こんな軍の暴走なんかあっという間に片付けてくださるわ」

 キヨシは躊躇いなく続ける。

 「それでも、あたしは危ないのね」

 「ええそう。あの人ですら殺されてしまったのだもの」

 唇を真一文字に引き結び、それからキヨシは粘る唇で声を出した。

 「叔母様は、絶対にあたしを守ってくださるのね」

 「ええ、必ず」

 キヨシは身を強張らせ、肩を掴んだ腕を一度振り払った。そして、虚空を掻く軍手を、小さな掌で強く引き掴んだ。

 「それならば付いて行くわ。あたしに何かあったならお父様とお母様が悲しむもの。あたしが傷ついて悲しむ人のために、あたしはあなたについていく」

 叔母の顔が輝いた。その表情を静かに見上げ、キヨシはもう一度だけ目を閉じた。

 石造りの塔は、瞼の裏に厳然と聳えている。激しい吹雪でその頂上はきちんと見分けることすら難しい。凍りついた石の塔は、春の日差しにもとけるかどうかわからない。

 ただ、魔女の手に引かれて、キヨシは塔を地面の上から見上げていた。



 キヨシの乳母の泣声が、悲鳴のように続いていた。彼女の肩を掻き抱いて顔を伏せたまま、鏡子は背中を震わせるばかりで声一つ上げない。洋風の広間の隅で切り終えた電話の受話器を握り締めたまま、竹中雅臣は俯いて呟いた。

 「ひで子も昨夜から姿を消しているそうだ。連絡をもっと早く寄越すつもりだったが、今まで電話が通じなかったらしい」

 そこまで言って雅臣は唇を噛む。未明に首相官邸が軍部の襲撃を受けたという報せを皮切りに、大臣や陸海軍大将が襲撃・殺害されたという連絡も続々と舞い込んでいた。この未曾有の叛乱で、大陸政策で軍部と対立し続けている外務部の雅臣にも身の危険が及びかねないと、やむを得ず屋敷に篭城しているところだった。

 暴動を起こした叛乱軍は、昼を迎えた今もなお永田町一帯を占拠している。自宅の近隣を包囲されて身動きも取れず、叛乱の目的すら十分に知ることもできないままじりじりと時を送っていた最中、ほんの僅か目を離した隙に娘のキヨシが姿を消してしまったのだった。異変に気づいた乳母が駆け込んできたのと時を置かずして、雅臣の弟の芳視から、妹のひで子が行方不明との連絡が飛び込んできた。もはや、事態の深刻さは明らかだった。

 泣き濡れた顔で、妻の鏡子がようやくこちらを見上げた。十三になるキヨシの母にしてはやや年のいった印象だが、眼差しは少女のように澄んでいた。

 「ひで子さんが……」

 「先日癲狂院から戻ってきたばかりだが、地下の同志との連絡を取っているのではと芳視が注意していた矢先らしい。最近では満洲パルチザンとの繋がりが疑われていたそうだ」

 「満洲というと、山佳やまよしさんのお知り合いですか?」

 縋るような妻の言葉に、雅臣は言葉を失う。

 ひで子の夫の山佳は、朝鮮人であるというそれだけの理由で、十三年前の震災の際に暴徒の手で殺された。彼自身は諍いを好まぬ穏やかな人柄だったが、彼を慕う在日の同胞たちには反政府運動に踏み込んだ者も少なくなく、他ならぬひで子もまた夫を失った悲しみと狂気をぶつけるように水面下の運動にのめりこんでいた。これまでも幾度となく検挙されては、常軌を逸した言動によって拘置所から癲狂院に送られることを繰り返し、つい先日芳視のところへ預けられたばかりだった。

 もっと注意を払うべきだった、と額を片手で抱えて悔やむ雅臣に、ようやく掠れた声で鏡子は呼びかけた。

 「それでも、ひで子さんでしたら本当によかった。ひで子さんなら、きっとキヨちゃんに悪いことはなさらないわ」

 やっとの思いで顔を向けた雅臣に、鏡子は濡れた顔で微笑んだ。実子のない、キヨシを実の娘のように慈しんでいる妻の苦しそうな微笑が、何より雅臣の胸を抉った。

 ――キヨシがひで子の娘であることは、雅臣と鏡子と芳視とひで子と、この四人だけの秘密である。乳母の寿子は何か察しているかもしれないが、少なくとも真実を表立っては告げていない。不祥事というだけの理由ではない、キヨシの身を案じてのことだった。

 ひで子の前触れのないこの暴走も、全く故のないことではあるまい。今回の擾乱は、雅臣にすらあの日を思い起こさせた。戒厳令下で武装した軍人が、無辜の人々を傷つけるために突き進んでいったあの日の景色は、陽炎揺らめく暑さを吹雪に、灰燼と化した廃墟を薄暗い雪景色に入れ替えれば、今日にそのまま重なる。目的こそ異なれど、先行きの見えない不安を暴力に摩り替えて押し付ける様には変わりなどあるまい。

 故なき暴力で夫を失ったひで子が、娘ばかりは守ろうとする気持ちもわからないわけではない。むしろ痛いほどわかるからこそ、妹への憤りは抑えきれなかった。キヨシがその血ゆえに傷を負うことのないようにこれまで守り抜いてきた秘密という砦を、易々と崩されるわけにはいかない。

 不意に、耳を貫くじりじりという音が部屋中に響いた。雅臣の掌の中で、けたたましく電話が呼び出し音を上げていた。脅えたように身を竦ませる妻に、雅臣は受話器を取ろうと手を掛けながら、重く呟いた。

 「必ず連れ戻す。ひで子ですら、キヨシを傷つけてよいという謂われはない」

 濡れた瞳を大きく見開く妻に一度大きく頷いて、それから雅臣は受話器を取った。




「壊したい? それとも壊されたい?」

「中にいたまま壊れたら、あたしは怪我をしてしまうわ」

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