天秤の上の正義

 「もし、そこのお嬢ちゃん」

 石畳の路面を行く電車の鉦に紛れ、しわがれた声が響いた。

 街頭に席を構える辻占に呼び止められたのが自分だと気付かず、咄嗟にきょろきょろと左右の雑踏を見渡していると、煕善きよしはもう一度声を掛けられた。

 「いやいや、あんただよ。そこの、ほれ花柄の」

 ぎょろりとした目に白髯と瓜皮帽といったいかにもな風体の老人に手招かれ、ふらふらと少女は足を向ける。孫でも見るかのように目を細め、老人は何度も頷いた。

 「お嬢ちゃん、日本の血が入ってるね。どちらかと言えば北国かね」

 「わかるの? お父様は東北の出なの。あ、日本の奥羽の東北ね」

 「ああ、ああ。わかるとも、長年こんな稼業をしているとね」

 煕善は普段、朝鮮風のチェ・ヒソンという名前を名乗っていた。ラジオや舞台で歌うときの芸名には専らそちらを使っているし、おまけに日頃から支那服を着ることが多いので、租界の日本人の大半は彼女を朝鮮人か支那人だと思っている。敢えて国籍を伏せようとしているわけではないのだが、少々素性が知れると厄介なので、それを隠そうとするとどうしてもそうなってしまう。

 別にそれが嫌な訳ではないが、それでも生まれを一目で看破されるのは滅多にある体験ではなく、煕善は興味深そうに瞬いて促されるままに椅子に就いた。

 どうやら人相見と思われる辻占は、まじまじと彼女の顔を眺めてふと呟いた。

 「おや、お嬢ちゃんはおひぃ様か。こりゃあ珍しい」

 母のことを言っているのか、と言い掛けたが、何となく照れ臭くて煕善は口をつぐんだ。確かに母は宮家の出だから、一応自分も曲がりなりにも皇族の血を引いていると言えないこともない。あまり自分でそれを声高に言うのも憚られ、それでも当たっていることへの意志は示したかったので、曖昧に彼女は頷いて見せた。

 ふとその様子をじっと眺めていた辻占は、何か考え込むような素振を一瞬だけ見せた後、不意ににっこりと笑った。

 「運の強い相をしているよ。波乱も多いが災いはあんたの脇を反れて通ってゆく。大体の願い事なら、願う前に叶ってきただろうあんた」

 「まあ、凄いそんなこともわかるのね」

 「キヨシさん、こんなところにいたのですか」

 辻占の託宣に目を輝かせていると、不意に背後から冷たい声が降ってきた。びくりと身構え、おずおずと振り向くとそこには、黒い三つ揃えを着込んだ青年が佇んでいた。はぐれたと思って引き返してきたのだろう、表情の読みにくい端整な面差しは冷ややかにこちらを見下ろしている。

 ばつが悪くて肩を竦め、煕善は席を立った。

 「ごめんなさい佐野」

 「危険な目に遭っていたのではなくて何よりです。胡乱なものに引っ掛からないようになさい」

 青年はむしろ、婦人のような優しげな声をしていたが、それでもある一定の距離を越えさせない厳しさが滲み出ていた。だがそれを忖度するでもなく、煕善は嬉しそうに青年にしがみ付いて報告する。

 「あのね、凄いのよおじいさん。あたしが日本人だって一目で見破ったし、お母様のこともわかったの。あたし、運が強いんですって」

 「キヨシさん」

 そっと彼女の肩に載せた細やかな手は、白い手袋に覆われている。素肌を見せないその人物にそれはやけに似つかわしかった。

 「同じ東洋人でも、日本人と朝鮮人と支那人は存外顔が違いますから、それはわたしですら見分けられますよ。それにあなたの言葉使いを見れば、育ちがよいことくらいすぐわかります。名家の令嬢がなぜここにいるのかはさて置いても、恵まれているのは事実なのですから、他の人より強運に見えるのは必然でしょう」

 辻占本人を前に、青年は辛辣な講評を行う。ぱちぱちと何度も瞬き、少女は肩を落とした。

 「なるほど。でも嫌だわ佐野、あなた夢がない」

 「夢ばかり見ていたら迷子になりますよ」

 少女を立ち上がらせ、それからふと青年は思い出したように背広の隠しから銀貨を取り出した。机の上に見料を置かれた辻占は、さすがに気分を害したように青年を見上げる。

 「おい、お若いの」

 青年は振り向きもしなかったが、ふと老人は思い直したように呟いた。

 「……じゃないな。あんた、あたしより年上か。失礼した」

 一瞬だけ青年の歩みが止まる。老人は、煕善に聴こえないように少し声を抑えた。

 「あんたみたいな相、一度だけ見たことあるよ。あんた、人間じゃあないだろう」

 青年は背中でくすりと笑う。人を小馬鹿にしたような仕草だが、彼だと妙に様になっていた。

 「どこでお会いになったのか知りませんが、人でなければ猴か魚禽とでもお思いで?」

 「まさしく人を喰った話だが、故宮の写真に写っていた宦官があんたとよく似ていたよ。と言うか、同じ顔だ。仕事柄、珍しい相の顔は忘れないんでな」

 青年は微かに笑みを浮かべたまま、物柔らかに振り向いた。少し離れたところで、少女が心配そうにこちらを見ているが、雑踏に紛れて囁き交わす会話の内容は聞こえていないらしい。

 「三十……いや四十年も前の写真だったか。親兄弟ならともかく宦官で他人の空似ってのもなかなかないだろうよ。宦官の相はまた変わってるが、あんたのはそれとも違う。あんた、水の匂いがするね」

 「水ですか。自分の身を焼いたことはありますがね」

 顔の半分を髪で隠した青年は、穏やかに微笑んだまま辻占を見下ろす。辻占は白髯を揺らして頷いた。

 「水剋火だね。本気で死にたければあんたの場合は土だ、鉄と火じゃあ死なんよ」

 一瞬表情を引き締め、それから緩く口元だけで青年は笑った。

 「覚えておきましょう」

 「それがいい。この先、混血のおひぃ様の御守はそれくらい頑丈でないと務まらんよ」

 おや、と青年は声を洩らし、隠しからもう一枚銀貨を取り出して老人の掌に落とした。

 「存外よく見分けるものですね」

 「人の顔ばかり街角で五十年も眺めてたら、嫌でもそのくらいはわかるものさ。朝鮮の貴人が片親かね?」

 青年は微笑みだけで返答をする。と、不意によく通る声が響いた。じれた煕善が歌うような声で青年を急かす。

 「佐野、早くいらっしゃい。いつまでも絡んではお気の毒よ」

 「はいはい今行きます」

 立ち去り際に、ふと辻占は腑に落ちたといった具合で声を上げた。

 「ああ何だ、あの子は歌姫チェ・ヒソンじゃないか」

 青年はまた微かに声を上げて笑う。言い訳がましく、老人は肩を竦めた。

 「あたしが歌に気を取られて顔を見逃すなんざ、よっぽどのことさ。おひぃ様の咽喉笛を食い潰すなよ」

 「吃人ひとくいとはいえ、そのくらいは心得ておりますよ、ご安心を」

 早口にそれだけ言い残し、青年は足早に立ち去る。

 水際立った容貌とは言え、さほど長身ではない二人はあっという間に雑踏に紛れて見えなくなった。




「あなたの覚悟は揺らがないか」

「揺らぎようのないわたしと共にあるものですから」

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