捩れた運命の輪
「お前の出所って、そういや訊いたことなかったっけ」
施太后の言葉に、
「別に身辺洗ってる訳じゃねーぞ。お前もこの辺で故郷に錦を飾りに、いっぺんくらい里帰りしてもいーんじゃねーかと思ってな」
「奴才は常に陛下のお傍でお仕えしとうございますから」
微かな声で、普段と変わらぬそつのない言葉が呟かれる。彼の不思議なほどの忠誠心に苦笑し、施氏は首を竦めた。
「ま、宦官ってんでやな見方する奴もいるかもしれねーが、曲がりなりにも位人臣を窮めてんだ。誰にもオレが文句を言わせねーよ」
「ありがたいお申し出ではございますが」
そうは言うものの、少しも乗り気でないのは明らかだった。表に見せないだけで、彼は意外と感情の起伏が激しい。遠回しに話題を拒絶されていることを知りつつ、施氏は悪戯っぽく身を乗り出した。
「お前、マジで昔のこと話さねえよなあ。前から思ってたんだけど、お前もしかして夷狄の血が入ってたりしねえ?」
「まあ……」
言葉を濁して提琴を構える彼に、施氏は重ねて訊ねる。
「北方? 南方? 沙埜は暑さに弱いから北方か」
「いえ、南です」
ようやくまともな返答を得て、施氏はやや驚いたように目を瞠り、大袈裟に頷いてみせた。
「マジか。それじゃこっちの冬は辛いだろ」
国のほとんど北端にある京師の冬は厳しい。厚着を着込んだ施氏が閉口する寒さでも、沙埜はいつも顔色一つ変えずに平然としているから、てっきり北方出身だと思い込んでいた。
驚いた顔をする施氏に、沙埜は緩く首を振った。
「そんなことはありませんよ。故郷は寒さの厳しいところでしたから」
「あれ、でも南方なんだろ?」
「雪山の奥でしたから」
少し考えて、ようやく施氏は手を叩いた。
「ああ、
「ほとんどそう考えて頂いて結構です。奴才の出身は吐蕃の東の外れ、成都や昆明府にむしろ近い地方でしたけれど」
施氏は頭に地図を描いたが、今一つぴんとこなかったので素直に首を傾げ、それから思いついたように訊ねた。
「あの辺って何喰うんだ? ほら、北方は肉と麺をよく喰うけど南方は魚米喰うっていうじゃん。お前の郷、水田とかあんの?」
「貧しい土地ですから、炒った麦の粉をそのまま食べたり、蕎麦粉を練ったものが主食でした。水も少ないですし、植物が余り育たないので、山羊の乳で茶を淹れたり肉を血で茹でて食べたりするところでした」
嬉しそうに身を乗り出して、施氏はふうんと相槌を打つ。
「沙埜がおべんちゃら以外を喋るの珍しいな。おもしれー、もっと聞かせろ」
少し沙埜は苦笑した。そして自分よりも年上のはずの女性に、物柔らかい眼差しを向ける。
「余り面白いものでもありませんよ。貧しい土地の貧しい家に生まれましたから、売れるものが小童しかなかったのです」
「凄い親だな」
呆れたような施氏の相槌に、沙埜は首を傾けて微笑む。
「いえ、多くの大人は小童を数人儲けるとすぐ死ぬんです。奴才は下から三番目でしたが、弟妹とは年が詰まっているので、親の顔は覚えていません」
「それも凄まじい話だな」
「はい、貧しかったので」
沙埜は何度も口にした言葉を繰り返した。施氏は茶碗を卓上に置き、微かに細い眉をひそめる。確かに貧困地域の寿命は短い。だが子を残すためだけに生かされてゆくような状況は、さすがに尋常とは思えなかった。
「親がそんな早く死んだら、小童はどうするんだ」
「寺院に預けられるのです。そして僧になるか還俗するか売られるか――いずれかの身の振り方が与えられます」
「兄弟は?」
「兄と姉は早くに売られましたし、奴才も故郷を出てからは、連絡の術がありませんから」
その先を沙埜は敢えて口にしなかった。施氏は少し唇を噛んで、それから緩く首を振った。言わずもがなのことまで穿り出してしまったことが申し訳なかったが、陳謝の無責任さを知っている以上、詫びることもできなかった。
ふと、俯きかけた施氏の耳に提琴の音色がそっと差し込んだ。斐荼威の教えた西洋風の旋律ではない、単調だが牧歌的な音色だった。音色の合間に指先で弾かれる胴板が、素朴な拍子を刻む。何の根拠もないのだが、もしかしたら元々は笛で奏でられる旋律だったような気がした。風によく似た、奏者の掠れた息遣いが擦弦の間に聴こえてくるようだった。
施氏は、いつも音色に耳を傾けるときのように目を伏せる。なぜか瞼の裏に、抜けるような蒼穹が広がった。名に聞く京師の秋空よりもまだ深い群青の空を、白い筋が幾重にも刷いてゆく。雲かと思ったそれは、永遠の氷河で彩られた頂で天をも支えるような、峻険な山脈だった。見渡す限り四方を取り囲む山々に切り取られた世界は、狭さを感じさせないほど荒涼としていた。徐に仰いだ天上では、黒い翼の大きな鳥が悠々と円を描いていた。
「沙埜ぉ」
「はい」
旋律を途切れさせずに、彼は静かに返事をした。椅子の背凭れから転がり落ちそうなほど天井を仰ぎながら、施氏は呟く。
「遠くまでよく来たなァ」
「はい、故郷は世界の果てでございますから」
静かに呟いた少年を、施氏は背凭れから仰け反って逆さまに眺めた。そうではない、幼い頃の彼にとっては京師こそが世界の果てに違いなかったのだ。
「でもな、お前の故郷と京師は地続きだからな。だからお前はここにいるんだからな」
「勿論です、故郷から京師まで、他ならぬこの足で歩いてきたのですから」
いつものようにこともなげに沙埜は笑う。そして再び、遠い荒涼とした高原の音色を軽やかに奏ではじめる。
彼が故郷を敢えて忘れようとしている訳ではない、ということがなぜか施氏には救いのように感じられた。距離こそは比べようもないが、それでも過去を捨ててのし上がってきた彼女にとって、沙埜は頼もしい同志だった。数奇な運命に翻弄されて故郷の土地は離れざるを得なくとも、決して自分の魂の根源を失ったわけではないということを体現する彼が、ひどく好ましかった。
もう二度と届かなくとも、沙埜の音色は確かに遠い風景と繋がっていた。見たこともない風景なのに懐かしく思える、その感覚こそが自我を曝さない沙埜の望郷なのだと、施氏は再び瞼を閉じた。
「繋がっているのに届かない?」
「届かなくても、音色はいつでも届きますから」
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