隠者の福音
「その人」は、それが最も正しいありかたであるかのように、月光の中に佇んでいた。
すらりとした肢体を包むのは変哲のないシャツとスラックスで、糊が利いており手入れが行き届いていることを窺わせたが、取り立てて目立った特徴はなかった。黒髪もさっぱりと短めに切り揃えているが、男性とも女性ともつかない髪形で、遠目では見分けがつかなかった。
だが、近付くと性差の境界がますます見極めにくくなる。華奢な身体の線と面差しは女性的な滑らかさを描き出しているが、性別で括るにはその容貌は余りにも優美にすぎた。強いて言えば、成長しきる前の少年や少女に似た未分化の状態に近かったが、こちらに向ける表情は若さに似合わない圧倒的な余裕に満ちていた。その姿はどことなく人工的な気配を纏っていて、例えば盆栽のように、もしくは纏足のように、わざと矯められて自然な成長と老化をやめたような、そんな不思議な印象があった。
「彼」はふと表情を曇らせる。月光に濡れた風の中に、ふと独特の臭いを利いたのだった。これまでに出会ったことのないそれは、多分他の誰も気付くことのないだろう、彼自身の臭いに似ていた。そして彼は得心する。そこに佇む人は、どことなく彼と似た面差しをしているのだった。
ふと彼は、傍らの「彼女」を引き寄せた。声を上げはしないが、抱え込んだ彼の胸元をぎゅっと指で握り締める感触がする。だが彼女の表情を確かめるいとまはなかった。自分よりも明らかに小柄な人物から、彼はどうしても目を離すことができなかった。血の奥に眠る野生が、脳裏で激しく警鐘を鳴らしていた。
不意に月明かりの中で、その人は仄かに微笑んだ。弱視の目にも明らかな、おぞましいほど艶やかな唇が緩やかな弧を割って言葉を発した。
「幸せな子。あなたは本当に幸せ者ですね」
その夜を震わせる微かな声すら、むしろ少年的とでも形容すべきような、軽やかな華やかさに満ちていた。
誰かはわからないが、それでも彼はその人が何者かを知っていた。これは彼の同類で、おそらく出会ってはならないはずの生物だ。そして、彼の経験したことがない年月を既に過ごした上で、今ここにこうして佇んでいる。
抱き込んだ女性の肩に食い込むほど、彼は指に力を篭めた。
「ええ、それはもう。ぼくには彼女がいますから」
弾けそうになる本能を押し殺し、彼は正面の人物を見据えた。彼女が傍にいなければ、今すぐ衝動のままに飛び出してしまっただろう。脳裏をじりじりと焼くその激情は、何の理由も持たない殺意だった。意味など何一つありはしない、ただ月光の中に佇む人物が生きているということに対する純粋な嫌悪感だった。
その殺意を汲み取ったのか、もしくは自分も同じ衝動に焼かれているところなのか、すらりとした人物は微笑みながら告げた。
「親しい人が傍にいることは、必ずしも幸せではありません。我々は必ず、どのような原因によっても必ず、その人を失うのですから」
「ぼくは彼女を失いません。永久に彼女は、この腕の届く限りにいます」
挑発された、とわかっていても食いつかずにはいられなかった。腕の中に息を詰める微かな声を聞き、慌てて彼女を両腕でそっと抱き直した。彼女に縋りつかなければ、獣のままの本能を堪えることができそうになかった。そして、余りにも不本意な予感が胸の奥で鎌首をもたげていた。
「幸せな子よ、あなたはそう信じているのですね」
「はい。ぼくは死なず、彼女も死なせません。永久に」
「ああ」
声を上げてその人は笑う。彼よりも、むしろ彼女よりも小柄なその人は、少年のような肢体をじりとも動かさずに彼と向き合っていた。その居住まいを眺め、彼は咽喉を鳴らす。
予感はもはや確信だった。彼は、ほぼ間違いなく、この人には勝てない。
「……信じないのであれば結構ですよ」
牽制するように彼は告げたが、その人は優雅に目元を細めるばかり。よく目を凝らすと前髪で隠した右目の縁が微かに引き攣れたようだが、それは不随意による動きだろう。この人物に瑕疵があることが、むしろ彼には不思議でならなかった。これまでに彼が出会ったあらゆる人物の中で、あくまである一つの意味においてにすぎないが、この人は最も強いだろう。
月光の中に佇むその人は、躊躇なく視線をずらして、彼の腕の中へと注いだ。腕の中からびくりと身体を竦める感触が伝わる。殺気ではないがそれに似た気配に、人一倍鋭い二人は抱き合ったままただ息を詰めて言葉を待った。
その人が首を振ると、前髪が白い額でひらりと揺れた。
「いいえ、あなたの信念を信じない訳ではありません。ただあなたの幸せが羨ましいのです」
「……」
言葉ほど不穏なものは、その声音からは感じ取れなかった。だが、きっとその人は声一つ荒げることなく、表情一つ変えることなく、正確に相対する人間の咽喉笛を喰いちぎることができるに違いない。
逃げることはできない。逃げようとすれば背中を向けざるをえないが、それは何より大きな隙を見せることに他ならない。どうしても敵わない相手であれば、それが立ち去るまで目を逸らしてはならない。それが戦いの原則だ。
優美に首を傾げ、その人は羨ましげに可憐な声で語った。
「あなたはいつか、その愛しい女性と共に死ぬことができるのです。それはあなたの身に余るほどの幸福で、わたしはそれが羨ましいのです」
生唾を飲み、それから彼は女性を抱き込んだ腕に再び力を篭めた。彼女もまた、縋るように彼の腕にしがみついた。その様子を微笑ましげに見守る人物に、彼は決死の覚悟で尋ねる。
「……あなたは?」
質問の意図を理解しかねたのか、その人は微かに首を捻り、それから思いついたというように明瞭に告げた。
「あなたです。あなたのような限界を持たず、それゆえに悠久に囚われた惨めなあなたの姿見です」
それは、ある意味で予想していた返答だった。自分の顔に掛かる白銀の髪を払い除けることもできないまま、まんじりともせず彼は目の前の人物を凝視した。
星明りの光沢を載せる漆黒の髪は、そして深淵のような黒檀の瞳は、いずれも彼とはまるで似つかない。月光に浮かぶ花弁のような白皙すら、病的なほど白い彼の肌と比べると華やかに色づいている。恐らくは、この種類の生物が湛えるべき正式な色彩を持っているのだろう。
白銀の髪と、絹より白い肌と、それから日光を見ることのできない碧眼は、少なくとも彼にとって致命的な弱点である。或いは、と思ったこともないわけではなかったが、やはり彼のこの特徴は種としての特徴ではないらしい。
「ぼくが、不完全だと」
目の前のその人は優美な弧を描く唇を結び、ゆるりと首を振った。彼よりももっと早い時期に成長を止めた自分の肉体を、やや恥じているような仕草にも見えた。
「それはあなたを決して貶めることではありません。人は寿命があるからこそ、その制限の中で何かを成し遂げようと本来以上の能力を発揮するのです。能力の限界を補うために設けられたのが寿命であるとすれば、あなたはわたしより遥かに優れた能力を有していると言えるでしょう」
彼は目を逸らさないまま唇を噛む。
この人はもしかしたら本当に自分を喰い殺すつもりなのだろうか、という疑問がふつりと脳裏から沸き立ってきた。冗談ではない、もしも自分を殺せるのならどうしてもっと早く目の前に現れてくれなかった、と詮無い憤激が胸に詰まる。
どうしても死ねないから、彼女の生命は必ず自分より先に尽き果ててしまうものだから、共に死ぬことすらできなかった。それゆえに彼女の生命を永遠にしようと、自分の手で微かな温もりを吹き込んで、もう二度と離すまいと抱え込んでいるのだ。それを今更引き離そうとするのであれば、逆説ではあるがもし殺されるとしても戦わないわけにはいかなかった。
彼の殺意を感じ取って、腕の中で女性が身じろぐ。ただの怯えではないだろう、彼女はそんなに手弱くはない。彼が戦うのであれば、彼女もまたそれに伴って武器を取るような女性だ。一人では無謀でも、二人で対峙すれば少なくとも活路は得られるかもしれない。
不意に月光の中で、細やかなその人は柔らかく微笑んだ。敵意の感じられないその表情に、二人は息を詰める。彼らを静かな眼差しで睥睨し、それからその人は静かに告げた。
「幸せな子、あなたの命はそれでも人より長い。もしかしたらどこかでもう一度、会うこともあるかもしれませんね」
腕の中の女性がほっと息を吐いた。それは二人にとっての本音だったが、彼は正面の人物が微笑ましげに睫毛を揺らすのを見て、衝動的な反感を覚える。咄嗟に投げ付けた言葉は、予想外に夜の空気によく響いた。
「世界は多分、あなたが思うよりもずっと広いですよ」
不意に正面に佇んだその人は彼の目をじっと見詰めた。彼の抱く女性に少し似た、しかしもっと鮮やかな光を帯びるその眼差しで、その人は彼を射竦める。
「けれど世界は限界のある空間ですから。宇宙の果てを目指さなければ、わたしの生命の方が世界の広さを凌ぎます」
身じろぎ一つできない彼を見据えたまま、その人は静かに靴を鳴らした。黒い革靴の爪先が音もなく翻り、それから視線の矢が外れたと思った瞬間にその人は躊躇いなく背中を向けていた。立ち尽くす二人を取り残し、足音一つ立てないままその人物は月光の中を辿ってゆく。
その小さな背中が夜闇に紛れて見えなくなるまで、その人は振り向かなかった。
その冴え冴えとした月光が西へ傾いても、その鮮やかな声音はもう聞こえなかった。
「探していたものを思い出した?」
「年を取ると、どうでもいいことばかり気に掛かるものですね」
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