幻によろしく / One Summer's Day
山川由行
冬と夏・プロローグ
科学者に 骨を組まれし恐竜は 仕方ないと いふがに立てり
山本登志枝
次の世も また次の世も 黒揚羽
今井豊
その部屋には八月の匂いを
初めて訪れる人々は、だから夏屋なのかと誤解する。
その日、
「いらっしゃいませ」
そう言って会川は無愛想に客を迎える。
今日初めての客は、会社帰りらしい身形の整った男だった。
撫で付けた髪ときっちりとした三揃え。臙脂のマフラーの下にはありふれた紺のネクタイを締めていて、年の頃は四十を幾つか下回るくらいだろうか、左手に黒い蝙蝠傘、右手に一枚の名刺を護身のお守りの様に捧げ持ち、所在無さげな顔で店の入り口に立ちつくしている。
「好きな席に座ってください。ここ、一応カフェなんでね。」
そう促されると、客は慎重な足取りで古い皮のソファーに腰掛けた。会川も席を立って彼のテーブルに氷と水道水の入ったグラスを置く。
「コーヒーに砂糖とミルク、要ります?」
客は、黙って首を横に振った。
会川はコーヒードリッパーのボタンを押して白いマグカップにコーヒーを落とし終わると、それと灰皿を持って客の向かいの席に座った。
「まず名前を伺いましょうか。なんなら偽名でも結構です」
「…シミズと申します。」
「それじゃシミズさん。ここに来たってことはあなたも多少は知っているでしょうけれど、私から詳しい説明要りますか?」
「いえ、結構です。出来れば早速やっていただきたい」
「わかりました。それと最初に一つだけ。
私の店は、ある一つのことを除いてすべて同じ料金です。名詞の裏をみていただければ分かる通り、それが安いと思うか高いと思うかはお任せします。どんな内容だろうと長さだろうと一律一定、<貼る>日、一日につきそれだけいただきます。明朗会計ってヤツですね。そしてもちろんこのことは一切合切口外いたしません。という訳で今後ともご贔屓に」
そういうと会川は立ち上がり、周りのテーブルに散らばっていた写真を拾い集める。それらをしばらく
「この中から気に入ったものを一枚、選んでみてください」
「これは……?」
「見て分かるとおりただの写真ですよ、初めてのお客さんにいつもやっていることでね、心配なさらず。これはお試しってことで無料ですから」
シミズは納得はしていないという手つきで言われたとおり写真の束を一枚ずつ捲っていった。その間に会川は灰皿を引き寄せ、燐寸を擦り、煙草に火を付ける。
丁度二本を灰にしたときにシミズがテーブルの上に置いた写真は、この店でもまあまあ人気の一枚だった。
抜けるような青の空を、大理石の質量を持った入道雲が半分ほど覆っている。それを見上げているのは、麦わら帽子をかぶって何輪かの向日葵を携えた少女だ。写真は少女の真後ろから緩い仰角に撮られていて、白いワンピースを着た上半身は通り雨を期待する様にも、空にある何かを探している様にも見える。その青と白で構成された色調のなかで、向日葵の黄金色と麦わら帽から伸びるリボンの赤が
会川はこれまでの経験から選んだ写真と掛かった時間で相手を大体見分けることが出来た。煙草二本と少女の写真が意味するのは、つまり、彼が平均以上の上客になるだろうということだ。
「それにします?いい趣味してますね、結構結構。それじゃ早速<貼って>みますので、まずその写真をじっくり見ていてください。では失礼して、お手を借ります」
そう言って会川は握手をするかのように、シミズに手を差し出した。シミズは恐る恐るといった体で彼の手を握る。
暫くの間。
うわぁ、という間の抜けた叫びがあがった。
無理もない。いまシミズの手の中にある写真の少女が、抱えた向日葵を上下に揺らし、楽しげな足取りで歩み去っていったのだから。
「おお、よかった、あなたも視える人でしたね。いや、たまにね、拒否反応というのか不感症というのか、一切私の力が及ばない方がおりまして」
言いながら会川は椅子から滑り落ちたシミズを助けるために片手を伸ばす。シミズは一度立ち上がるために手を伸ばしたが、即座に手を引っ込めると自力で立ち上がった。
「さて……それじゃ本題といきましょう。もう一度この写真を見ていただいて、何でもいいです、夏を想像してください」
会川は、ここで煙草を一本だけ吸うことにしてる。
甘ったるい紫煙を天井に向かって吹き出し終わると、三本目の煙草を灰皿に押し潰し、会川はもう一度、握手を求めるようにシミズに手を差し出した。
「それじゃ力を抜いて、深く椅子に腰掛けてください。だいたい五分ほどで終わります」
そうしてやはりおずおずと差し出されたシミズの手を、会川はやはりしっかりと握った。
彼は、薄いグレープフルーツ味の氷菓子を口に放り込みながら、半分溶けかけたアスファルトの上を歩いていた。電話で聞いた住所が彼の行動半径とは真逆だったせいで、小一時間は余裕を持って家をでてきたにもかかわらず到着はギリギリになりそうだ。真っ赤な夕日に照らされて、書き割りみたいに漂白された住宅街を、電柱の表示を頼りに進んでいく。
自分は優等生だと、入念にすり込んだ制汗剤の匂いを吸い込みつつ彼は自分に言い聞かせる。―――そうとも、夏休みの登校日前に宿題をすべて終わらせた優等生には、クラスのサボりがちな同級生にモル質量の基礎を教えに行く義務と権利がある。
それが偶然女の子で、偶然彼氏が居ないことを知っていて、偶然、彼が片思いしているだけだ。
彼は彼女と出会った日を思い出す。丁度一週間前の出来事が、遥か昔に起こったようにも、ついさっき起こったようにも思えるから不思議なものだ。今までこういうことは自分とは別の次元で起こるものだと考えていた彼にとって、それはまさに青天の霹靂だった。
つまり、自習室前の自販機でレモン水にするか缶コーヒーにするかで迷っている彼に話しかけて来たのは、彼女の方だった。
その一週間前の運命の日、暑さから逃れるために図書館へと立ち寄った彼は、借りていたゲーム雑誌を返却したあと、兄から頼まれていた小説の貸出手続きも終え、もうすこし太陽の勢力が弱まるまで時間を潰そうと考えていた。そうして、兄貴はなんでこんなのが好きなのかねと分厚い文庫本をパラパラとめくっている時、ずいぶんムツカシイ本読んでるんだねぇという声に驚いて振り向いたのだった。
2組のカミヤさん……?とおずおずと訪ね返した彼に、彼女は笑顔で頷き、あたし、図書館よく来るんだ、とやはり快活に答えた。
それに。と彼女は独り言のように続ける。ここだと、サボってても何にも言われないからさ。彼女の今までの笑顔に僅かな翳りが混ざったが、むしろ彼の心を射止めるには十分過ぎた。
彼は自分にお使いを頼んだ兄とどっかの神さまに深く深く感謝したあと、むかし級友にけしかけられてウサギ小屋の天井から飛び降りたとき以上の勇気を振り絞って彼女にジュースを奢り(それは100%オレンジのペットボトルだった)、となりの談話室に座って何気ない雑談という難関をくぐり抜け―――そして、今もって信じられないことに、彼はその会話のなかで家庭教師の真似事として、彼女に宿題を教えるという約束を取り付けたのである。
たぶん、あの子の家には家族がいるだろう。彼はほどけかけた靴ひもを見るとも無しに見ながら考える。わざわざ悪いわね、と笑いながら玄関を開ける母親と、値踏みする目で眺めてくる兄がいて、ケーキを振る舞ってくれるかもしれないし、アイスココアを入れてくれるかもしれない。でも、ひょっとしたら―――居ないかもしれない。玄関の向こうには、彼女だけがはにかんだ微笑みを浮かべていて、今日は親が旅行でさ、なんて言うかもしれない。彼の手は自然と財布の真ん中を撫でた。想像できることは、すべて起こりえる。なんたって今は真夏だ、そうだろう?
「……つまり2を2乗したら4、3乗したら8。じゃぁ2と3の間のどこかには、ナントカ乗したら5とか6とか7になる数字があるはずじゃん。で、昔のエラい数学のセンセイはそれをlog 2[n]、って定義したんだ。だからlog2[4]は、2をlog2[4]乗したら4になる数字って意味で=2。同じようにlog2[8]は3な訳。それでこれをさっきの拡張した指数ってヤツを使って一般化すると……」
彼は口から飛び出しそうになる心臓の代わりに、数学を途切れること無く吐き出し続けた。そうでもしないと、女の子の部屋という空間と匂いで頭がどうにかなりそうだったから。
結論から言えば、彼女は家に一人っきりだった。
―――おぉ、ホントに来てくれたんだ。ありがと、とりあえず上がってよ。
クラス全員の名前が印刷された鮮やかな黄色のTシャツに、褪せたジーンズのショートパンツ。緑の髪ゴムで一つに結わえた髪を揺らしながら、彼女は彼を自分の部屋まで連れて行き、すぐに丁度良い濃さのカルピスを持ってきた。
その気泡で濁った氷入りのカルピスをすすりながら、彼女はいつもの気怠そうな態度のまま彼に喋りだした。
―――もうそろそろ夏休みも半分切ったねぇ。え、もう宿題全部終わったの?信じらんない……。ホント、これ以上年なんてとりたくないよね、悲劇的だよ。
そうして、カルピスが無くなって間が持たなくなった彼が馬鹿正直に始めた宿題の解説を聞きながら、彼女はたまにふんふんと頷いている。
外からはもう、蜩の鳴く声がした。
ぼくは、なんでシャレた話の一つもできないんだ!
彼は、そう自問する。今日の天気だろうが最近読んだ本だろうが、ともかく何だろうと力のモーメントよりはマシだろう!もしくは手っ取り早く彼女に宿題を写させて、それで分かんないところあったら聞いてよ、とか言ってもいい。なんでこんな教師のできそこないみたいなことを喋り続けているんだ!優等生なんてクソくらえ!
<そろそろだな、と会川は呟く。その言葉は、丁度ピン留めされた写真のように浮かび上がった。>
「ねぇ、じゃぁどうしてこの二つの関数は決して交わらないって証明できるの?」
「それは…そうだな、f1(x)=a^x、f2(x)=log a[x]とおいたとき、f2(x)-f1(x)が常に正の値になることを証明できればいいから……xが0のとき、解はそれぞれ1と負の無限大。だから図に書くとこうなる。……これで分かった?」
「なるほどー。さすが優等生クン、教えてもらうのキミに頼んで正解だったね」
彼女の口調は、彼をバカにしている様にも、心から感謝しているようにも、どちらにでも聞こえた。
だから彼は、彼女の表情を確認しようと顔を向けたのだ。それまでは、その無防備な姿があまりに目に毒で、出来るだけ視界に入れないようにしていたから。
<ここだ。>
そして、ふわりと甘い薫りがした。次に、唇にやわらかい感触が訪れた。
驚愕でまん丸に見開かれた彼の目を、彼女の円な瞳が見つめ返す。
ばん、という強い音。シミズが彼の手を、握っていた会川の手もろともテーブルに叩き付けた音だった。
ゆっくりと、会川は手を離した。
シミズは立ち上がり、何か怒りを表す言葉を形作るように口をぱくぱくと動かした。が、しかしシミズが声を発することはついに無かった。シミズは財布から抜いた札を一枚カウンターに放り投げると、酷く酔った様な足取りでふらふらと店から立ち去った。
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