君を救世主にはさせない

藍ねず

前編

「いつも何を見てるわけ?」


「え、」


 クラスに変わった子がいる。


 いや、いい子がいる。


 いい子で、変わっている子がいる。


「いや、なんかいつも目が合わないからさ」


「あぁ、ごめん。人と目を合わせるのは緊張してさ、いつも頭の向こうを見てるんだよ」


 微笑んだ彼女は今期の風紀委員長。制服の左襟に〈風紀〉のバッチをつけて、黒いポニーテールが印象的だと思う。かく言う俺は副委員長を仰せつかった身だ。俺も彼女も部活に入っていないという理由で委員会時に推薦された口である。他の部活をしている同級生が押し付けたと言ってもいいだろう。


 部活をしている奴らはそれを理由に活動をサボり気味である。それでも就職や進学の面接時には「委員会活動では――」と付け焼刃で喋ることもあるんだろうな。クソが。


 毎週決まった曜日の下校時刻に校門に立ち、制服を着崩したりピアスをつけて街に繰り出そうとする生徒を注意する。別にこっちもしたくてやってるわけではないのだが、これが活動なのだ。クラスで風紀委員を決める時だって押し付け合いのようなものだったから、俺は活動中にいつもクラスメイトと担任を呪っていた。


 嫌われ役を終えた俺と委員長は並んで教室へ向かう。荷物を持てば俺達も一般生徒として帰宅可能になるんだ。


 それがルーティーン化し、委員長ともそこそこ話ができるようになった今日この頃。俺は気になっていたことを聞いてみたのだが、回答はしっくりこなかった。いや、普通の会話ならいいんだろうけど、普段の委員長を見ているとしっくりこないのだ。


 夕焼けが射しこむ教室はエアコンが切れて蒸し暑い。俺が立っていた出入口とは別の方から委員長が出たので、俺は彼女のポニーテールを追った。


「歩いてる奴をジッと見てる時もあるよな」


「そうかな、気のせいだと思うよ」


「それで、元気ない奴を見つけては声かけてる」


 部活の休憩なのか、グランドを歩いている陸上部がいた。その中には最近まで休み気味だったクラスメイトも混ざって笑っている。


「水野さん、元気になったよな」


「この間まで疲れてるみたいだったもんね」


「委員長、放課後にプリント届けに行ってたけど何かしたの」


「何もしてないよ」


 委員長は「元気になって良かったね」と他人事のよう口元を緩める。本当に他人事なんだろうけど、俺はやはり腑に落ちなかった。


「なぁ委員長、お前には何が見えてるんだよ」


「副委員長と同じものしか見えてないよ」


「俺と同じだったら、あれだけ人の変化に目ざとくねぇって」


 嫌味にすら聞こえた委員長の言葉に軽く反論する。彼女の黒目はついっと俺の後頭部の辺りに向かい、すぐに視線は逸らされた。俺は見逃がさなかったけど。


「今なにを確認したわけ」


 吹奏楽部の音色が木霊する廊下で、俺と委員長は並んで歩く。


 風紀委員にやる気ある者が数名しかいないのだから、この学校の風紀なんて知れたもの。それでも委員会を無くすことは出来ないし、活動をやめる訳にもいかない。委員会活動など無くしてしまえば教員の仕事が減るのではないかと俺は思うんだけどな。既に生徒任せになりつつあるんだから、あってもなくても同じなのか。


「私、尋問されてるのかな」


「気になったから聞いてるだけだけど」


「何も見てないって言っても信じてくれないんだろう?」


「何か見てるのは知ってるからな」


 委員長は諦めたように鼻で笑った。


 彼女はクラスで体調が悪い奴に一番に気づく。

 彼女はよく人から相談事を持ち込まれている。

 彼女は、弱っている生徒に手を伸ばし、元気になれば笑って一歩引く大人びた子。


「何も見てないと言う私を信じない君は、私が何を見ているか答えても信じないさ」


「俺は何を見てるのか教えて欲しいだけなんだけど」


「ほら、私が何か見ていることを前提で話すんだから」


「だって何か見えてるだろ」


「君にはそう見えているんだね」


 少しだけ委員長の一歩が大きくなった。俺との歩幅をずらした彼女はポニーテールの毛先を揺らし、夕焼けが影を濃く伸ばす。


「私の視界が君に理解できるわけないよ」


 振り返って目を細めた委員長は、どことなく怒っている気がした。誰かを怒らせることなどそうない俺は足が止まり、しつこすぎたかと今になって気づく。


 委員長も足を止めた。風紀のバッチが眩しく夕日を反射する。


「見えないんだもん」


 笑った委員長はまた、俺の頭より後ろへ視線を向けた。だから何を見てるんだよって俺が繰り返す前に、委員長は仕方なさそうに肩から力を抜くのだ。


「信じるか信じないかは君に任せるけど、他言無用で頼むよ」


 自然と唾を飲み込ませる雰囲気が委員長にはあった。長い睫毛が彼女の目に影を落とし、女子特有の細い人差し指を向けられる。


 指しているのは、やっぱり俺の後ろだった。


「私は、人の気力が風船で見えるんだよ」


 ***


 風船って繊細だと思わないかい。


 空気を入れすぎると破裂してしまうし、空気が無さすぎると萎んで地面に落ちてしまうし。


 空気が少なくなってきた時の風船は見ていると寂しくなるよ。前まであんなに張り切って膨らんでいたのに、頭を下げるように少しずつ浮かぶ場所が低くなって、色まで悪く見えるんだから。


 それはまるで人みたいだろ。元気だった人が徐々に気力を無くしていく様に似ているだろ。


 人も風船も、同じなんだよ。


 元気な時は前を向くことができる。自然と周りを良くする空気を大なり小なり纏っている。


 でも元気が抜ければ萎んでしまう。頭は下を向いて、肩は下がって猫背気味。


 気力が抜け切って地面に落ちれば、ベッドから起き上がることすら難しくなってしまう。四肢は鉛のように重たくなるだろう。体の内側から生えた無気力の根は、布団に深く根付いてしまうだろう。目の奥が痛いかもしれないし、何を食べても美味しくないかもしれない。


 元気が欲しい。でも自分ではその元気を作ることが難しいから、誰かの支えや応援が欲しくなる。


 しかし、誰かに支えや応援を貰える人なんて限られているだろ。だから、どうにか自分で気力を注入できるようにネットへ潜るし、眠るし、無理にでも食べるんだ。


 空気が無くなった風船にもう一度空気を。もう一度、艶やかに浮かんでいられるように。


「ふうせん」


「そ、風船」


「俺にもある?」


「あるよ。鮮やかな緑色」


「俺、緑かぁ~」


 廊下での委員長の告白が気になりすぎて、カフェで何でも奢るから詳しく教えて欲しいと俺は頼んだ。


 彼女は「別に何もいらないから帰りたい」と苦笑したが、拝んだら折れてくれた。彼女の人の好さにつけ込んだ俺は、期間限定のフラッペが飲めるカフェに行き、淡々とした説明を受けたのだ。


 彼女は桃のフラッペをストローで慣らし、俺は混ざっていた果肉を奥歯で噛む。ここの新作が飲みたかったのだが、一人で来る勇気が無かったので丁度良かったというのは内緒にしておこう。


「この飲み物が好きなのか、ここのカフェが好きなのか、どっちなの?」


「え、」


「新作のこれを注文した頃から、君の風船は元気になってるから」


「……そういうの分かるの?」


「想像するだけだよ。私には風船にどのくらい気力や元気が入っているのかってことしか見えないから。浮かぶ位置が高くなったら元気になったんだろうなって思うし、低くなったら疲れてるんだなって感じる。そこから、その気力の源はなんだろうって想像するんだ」


 同級生とは思えないほど落ち着いた雰囲気の彼女は、ストローに口をつけて「美味しいね、これ」と目元を和らげた。俺は「よかった」と音を立ててフラッペを吸い込み、添えられた桃を口に突っ込んだ。


「じゃあ、この店にいる全員にも見えてるわけ? 風船」


「見えてるよ。とてもカラフルだ」


 委員長の黒目が店内を流れ、俺の背後で止まる。微笑む彼女は「風船はね、」とストローを遊ばせた。


「みんな、背中から浮いてるんだよ。肩甲骨の間くらいかな。一本の紐で繋がった風船が、それぞれに」


「それ見て、クラスで元気ない奴とかに気づいてるって?」


「あぁ、まぁ、うん。見えちゃうから。気になってね」


 瞼を伏せた委員長は掬った桃を齧る。俺は口の中を冷やす飲み物を吸い込み、軽く残った氷を噛み砕いた。


「元気いっぱいの風船の人なんて、いないんだ」


 ふと委員長が店の外を見る。俺もつられて硝子越しの往来を眺めたが、そこには多種多様な人が歩いている姿しかなかった。


「みんなちょっとずつ疲れてる。勿論その度合いは人によって違うよ。どんな言葉や態度で気力が入るのか、逆に抜けるのかも分からない。きっかけなんて些細なものなんだろうけどさ」


 委員長が笑う。


 眉を下げて笑った彼女は、やはり変わった、いい子なんだ。


「萎んだ風船を引きずってたら、見過ごせないよ」


 同じ飲み物を飲んで、同じ高校の制服を着て、同じ指定鞄を持って向かい合っている俺達。けれども俺には風船なんて見えないし、彼女と同じ景色を想像することも叶わなかった。


「あぁ、あの人も」


 委員長はまた店の外を見る。俺は彼女が誰に焦点を当てているのかすら分からないまま、凪いだ言葉を聞いていた。


「……しんどそうだな」


 ***


 風船が見えなくても相手が元気かどうかくらい、なんとなく察せられるものだと思う。


 声に覇気がない奴。返事や対応が雑な奴。なんかよく分からないけどイライラしている奴。言葉の節々に棘がある奴。溜息が多い奴。切羽詰まっている空気の奴。


 元気が無いという状況は同じでも、その人々によって態度は違った。元気がないから暗くなる奴もいれば、元気がないからこそ空回りしている奴もいる。委員長曰く、空元気からげんきは読んで字の如くらしい。


 俺は委員長の話を誰にも言わなかった。約束を守るって意味もあったが、俺もまだ半信半疑だったのだ。


 俺にはやっぱり風船なんて見えない。風船が背中から生えて浮いてるなんて文字にしたら信じられることではないけど、委員長は元々信じないだろうっていう前置きの元、教えてくれた。


『私の視界が君に理解できるわけないよ』


 言われた通り、理解はできなかった。だって俺には見えないし。


 でも、委員長には何かが見えてて、それが風船だって言われたら納得できる部分もある。


「大丈夫じゃないね」


 今日もまた、委員長はクラスの奴に話しかけている。ここ最近、課題をよく忘れて注意されている奴だ。周りはやる気がないだのサボり癖があるだの言ってるし、俺にもそう見える。でも委員長には違ったように見えるんだろう。


「課題、一緒にしようか」


 委員長はそう言って、クラスで置いていかれそうな奴をよくフォローしていた。


 前は授業を一切聞かずに眠ってばっかの奴。その前は部活で何かやらかしたと噂立ってた奴。またその前は違うクラスの奴だった。たしか、先輩と付き合ってたけどイザコザした、みたいな話は小耳に挟んだっけ。


 委員長はそういう奴らを見放さない。自分から近づいて、もしくは相手から頼られる。学年中にある噂だ。今期の風紀委員長は誰のことも見捨てないって。


 面倒見がいい風紀委員長。後期からは風紀委員と兼務で生徒会に入らないかって勧誘もきているらしい。高校二年は進路を考えるよりも先に、校内での役職や代替わりを押し付けられて忙しい学年なのだ。


 委員長は、たぶん断らないと思う。今も嫌われ役の服装点検を休んだこと無いし、彼女が何かを断る姿は見たことがない。


「委員長は自分の風船も見えるわけ?」


「唐突だね」


 今週の嫌われ役も終えた放課後。窓に薄っすらと映った自分を見て、俺は聞かずにはいられなかった。俺と一緒に窓に映る委員長は、自分の姿を見ようともしていない。


「見えるけど、それが何?」


「委員長の風船はどんな感じなのかなって」


「別に、どうともないよ。適当に浮いてる」


「嘘だな」


「君って私の言葉を信じない主義なのかな」


 苦笑した委員長に鳩尾の辺りが苦くなる。空気が肺に溜まって、鋭い言葉を作る為に固まっていくような、嫌な感じ。鋭い言葉は重たいから俺の体も自然と重くなって、吐き出さないとやってられないって、感じ。


「なぁ、委員長。生徒会はやめとけよ。過重労働で疲れるって」


「私も遠慮したい所なんだけど、他に適任者がいないと言われてしまってね。生徒会担当の先生からもお願いされてしまったし、気づいたら推薦弁論者まで決まってたよ」


「流されすぎだろ」


「風船が見えるなんて言う奴が、周りの空気に抵抗できる力を持ってると思うのかい?」


 黒い目が弧を描く。大人っぽい目元は学生らしくない。そんな目、俺達はまだしなくてもいいって思うんだけど。


「風船は、風にたゆたう船なんだ。流されてなんぼだよ」


 一学期の終わりが近い。


 肌が毎日ジリジリと焦がされて、委員長と話している俺の舌の根も、イジイジとひり付いた。


 俺には見えないものを見て、拾わなくていいものを拾って歩く委員長。その姿は終業式まで変わることなく、夏休みの補習期間や登校日には委員長と話したがる奴が多かった。


 彼女はいつも誰かと一緒にいて、穏やかに話を聞いてる。だがその相手は特定ではない。彼女が見た、萎んだ風船の奴なんだろう。当初は雰囲気の暗かった相手も、何日かすれば元気になって委員長ではない他の奴の輪に混ざっていた。


 沢山の無気力を吸い込んで、沢山の棘を拾い集めて、委員長は一人で歩く。それが彼女だ。


「委員長、痩せたな」


「ダイエットはしてないんだけどね」


「疲れてるだろ」


「夏バテってやつだよ」


「下駄箱あっちだけど」


「生徒会に呼ばれてるんだ」


 午前の補習を終えた時、みんなが帰る方向とは逆へ委員長は爪先を向ける。


 俺の肺では再び重たい言葉が生まれ、喉が狭まった。この鋭い言葉に勢いをつけて吐き出す為に、威力を溜めるみたいな感じで。


「俺、やめとけって言ったけど」


「生徒会のみんな、疲れてるからさ」


「なぁ、」


「生徒の代表って大変だよね。風船、凄く萎んでるんだよ」


「それ委員長と関係ないって」


 飛び出しかけた酷い言葉を何とか押し込めて、それでも耐えきれなかった欠片が委員長に向いてしまう。


 振り返った彼女は俺の頭の奥を見た。その表情は変わることなく、ゆっくり眉を下げて笑うんだ。


 あぁ、その態度、癇に障る。


 俺がなんとか奥歯で言葉を噛み砕いていれば、先に喋ったのは委員長だった。


「フラッペ」


「は?」


「差し入れたら、みんなちょっとは元気になるかな」


 あ、


 コイツ、


 マジで、


 言葉が噛み切れなくなった俺には、やっぱり風船なんて見えないんだ。


「勝手にやってろ八方美人」


 態と上履きの音を立てて下駄箱に向かう。


 俺が吐き出した言葉の棘で、委員長の風船なんて割れればいいと願って。


 割れて、落ちて、周りを気にかける元気なんて無くなっちまえばいいのにって、口の中に残った毒を呟いて。


 学校を出てスマホを見ると、今日はカフェで新作のフラッペが出る日だった。

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