神ひらく物語ールミネスキ編ー

銀波蒼

第1話 メーザへ

 ヒラクを乗せた船は一路メーザをめざしていた。メーザは世界の中心とも呼ばれる大陸で、ヒラクが育った北の大陸ノルドからははるかに遠い。全長二十メートルほどの小さな帆船は見渡す限りの大海原に四方を囲まれている。


 殴りつけるような強い風が帆船の帆を叩き、船体は大きく揺れる。塩害や風雨に耐える頑強な木製の甲板の上で、ヒラクはしっかりと足を踏ん張り続けている。潮の匂いが鼻をつき、激しい風でヒラクの緑の髪が乱れる。海面は波立ち白い泡が水面を舞う。ヒラクの顔にも飛沫がかかり、冷たさを感じさせる。


 季節は秋の終わりを迎えようとしている。ヒラクは甲板の上で冷え込む外気に身をさらしながら、深まる海の青さと空に広がる雲の変化をいつまでも眺めていた。大陸の島影は一向に見える気配はないが、未知の世界への期待と興奮でヒラクの胸が高鳴った。


 船室からは時折、ユピの憂鬱な吐息や苦しそうな呻き声が聞こえる。ユピは船酔いに悩まされ、甲板に出ることができないでいる。ヒラクは彼のことユピを心配しながら、船室に様子を見に行っては、手早く湿った布でユピの額を拭いたりした。

 

 長い航海が続く中、ヒラクは過去は振り返ることはやめていた。今はもう目的地にたどり着くことだけを考えている。その先に何があるかもわからないが、それでももう進むしかないのだということを知っていた。


 そんなある日、前方に伸びる筋状の雲が灰色の雲と重なって広がってきたかと思うと、空と海の境ににじみ出るように、大陸の影が見えてきた。


 やがて海面をはうように広がる陸地を肉眼でとらえられるまでになったが、船はなかなか近づかない。長時間甲板に居続けたヒラクの体はすっかり冷えていた。それでも毛布にくるまりながら、ヒラクは行く手をじっとみつめている。


 水平線の向こうにかすむ大陸はゆっくりと夜の闇に紛れようとしている。夕闇が押し迫った頃、船はようやくメーザにたどり着こうとしていた。

 船員たちが甲板上であわただしく動き始める。

 遠くの港にともる灯がヒラクの目に飛び込んでくる。


「ジーク、あれは? おれたちはあそこに行くの?」


 ヒラクは船首に身を乗り出して、そばに控えるジークに尋ねた。


「あれはメーザの北西の半島に位置するエルオーロと呼ばれる国の港の一つです」


「エルオーロ? そこに行くの?」


「ええ、ひとまずは」


 しかし船は港にまっすぐ向かってはいない。灯は遠ざかり、険しい岸壁が迫る。

 ヒラクは切り立つ岩の高さに圧倒された。


「すごい……。こんなの初めて見た」


 ヒラクは急に不安になった。


「このままじゃぶつかっちゃうよ。あの灯がついているところに向かわなくていいの?」


 あわてふためくヒラクにジークは言う。


「神帝国の船が直接港に入ることはできません」


「じゃあ、どうするの?」


「接岸できる場所は他にもあります。もともとエルオーロは統治者などなきに等しく、商人たちの貿易の要の地として栄えた国です。今は規制されていますが、その目を盗んで出入りする船もあるのです」


「十五年前、俺たちはそこから神帝国に向かったんですよ」 


 ヒラクの代わりに船室で休むユピの様子を見てきたハンスが甲板に戻ってきた。


「ユピは?」


「ぐっすり眠ってまさぁ」


 ハンスの言葉にヒラクはほっとした。


 ハンスはジークの隣に立って行く手に迫る岸壁を感慨深げに眺める。


「あの岩壁の暗い影の縁取りもあの頃のままだな。暗い夜の海は俺の不安そのもので、飲み込まれそうで吐き気がしたぜ」


「船の中の連中は皆同じだっただろう。もう戻る場所はない。みつかれば即処刑だ」


 ジークはそのときのことを思い出して言った。老若男女入り混じり、押し込められた船の中で誰もが言葉もなく、縮めた体を寄せ合っていた。


「けど奴らは神帝国に一縷の望みを託すことができたからまだ幸せってもんだぜ。ノルドを目にした連中が歓喜に沸き立つ中、俺は任務遂行の緊張感で押しつぶされそうになっていたんだ」


 ハンスはその頃の自分に同情するような口調で言う。


「俺はまだ十五にも満たねぇガキだったんだよなぁ」


「だが、勾玉主まがたまぬしのための戦士だ」


 ジークはきっぱりそう言うと、ヒラクの顔をじっと見た。


「あなたを見つけ出し、この地に戻ることができるのがまさか自分とは思ってはいませんでした。仲間のうち誰かがやり遂げられればと願ってはいましたが……」


「その仲間って、十五年前に神帝国に入り込んだっていう希求兵ってやつ? そんなにたくさんいたの?」


 ヒラクはジークに尋ねた。


「はっきりとした数はわかりません。我々は全員が一緒に神帝国入りしたわけではありませんから」


「神帝国に向かうネコナータの民の集団渡航に紛れ込むんでさぁ。全員で一気に移動なんて無理ってもんですぜ」


 ハンスが付け加えた。


「ネコナータの民って神帝国人のこと?」


 ヒラクに聞かれてハンスはうなずく。


「東の果てからやってきた民族と言われています。かつてメーザを暗黒の時代へと導いた神王の一族ですよ」


「シンオウ?」


 初めて出てきた名前にヒラクは興味を示した。


「自らを神と名乗り、メーザに神の統治国家を築こうとした者だと聞いています」


ジークが言った。


「メーザにある数々の国が神王に侵略されて、ネコナータの民は神の選民として支配力を強めました。しかし、神王が暗殺されると、メーザの国々は決起して、ネコナータの民の支配を打ち破りました。神の統治国家が崩壊し、それぞれの国が自治力を取り戻すと、ネコナータの民は行き場を失い、流浪の民となりました。それ以来、彼らの子孫は、ある国では奴隷として扱われ、ある国では卑賤の者として差別に耐えねばならなくなりました」


 ジークの目が暗い影を落とす。

 ハンスが言葉を継ぐ。


「ネコナータの民は自分たちの国を取り戻したかったんでしょうねぇ。だからこそ神王の言葉を信じたんでさぁ」


「神王の言葉って?」


 ヒラクはハンスに聞いた。


「『私は再び訪れる。神の国は甦る』……それが、神王の最期の言葉と云われています。理由はわかりませんが、甦りの地が北にあると、いつからか言われるようになったんです。そして北の地であるノルドに神帝が現れた……」


「神帝が、その神王だっていうの?」


「さあ、それはどうだか……」


 ヒラクの問いに、ハンスは見当もつかないというように両手を広げ、首をすくめた。


「それを確かめられるのは、勾玉主であるあなただけです」  


 ジークは語気を強めて言った。


「神帝が神王の名を騙り、ネコナータの民たちの希望を利用したというのであれば、許すことはできません」


 ジークは暗い目を光らせた。


「ずいぶんとネコナータの民のことを気にかけるんだね」


 不思議そうに言うヒラクを見てジークは自嘲するように笑った。


「私もまたネコナータの民の血をひく者ですから」


「えっ……?」


 ヒラクはジークに聞き返そうとしたが、そのとき船は岸壁の裂け目に吸い込まれるように入っていった。


 ヒラクは行く手にあるものに目を奪われた。

 奥の入り江に数隻の小型の帆船がひっそりと寄り集まっている。

 荷を降ろす者も積み込む者も言葉もなく働いている。

 たいまつの灯が薄暗く辺りを照らしだす。

 岸壁の隙間の先に細い道が続く。

 人々は夜の闇に追われるように先を急いでいた。


「ヒラク……」


 ユピが不安そうな顔で甲板に上がってきた。


「ユピ、具合はどう?」


「もう大丈夫。それよりここは……?」


「えーと……何だっけ?」


 ヒラクは困ったようにジークを見た。


「ここはエルオーロに続く裏口の一つです。正式に出入りを許されていない商人や密入国者などが利用する場所です」


 ジークはヒラクに説明した。


「ここからは私とハンスが勾玉主であるあなたをメーザの中心部にある我が国ルミネスキまでご案内します。まずはそのための準備をエルオーロでしなければなりません」


「ユピももちろん一緒だよね?」


 ヒラクは尋ねるが、ジークは答えない。


「ユピを船に残して行くの? まさかこのまま神帝国に送り返すわけじゃないよね?」


 ヒラクは不安げにジークとハンスの顔を交互に見た。


「船は戻りません」ジークは言った。「乗組員十八名のうち、私たちの仲間は船長を含めて八名。残りの十名は強引にここまで船を動かす目的で連れてきた神帝国人です。船は壊します。仲間たちとはここで別れます。痕跡は残しません」


「痕跡を残さないってどういうこと?」


 ヒラクにはジークの言っていることはさっぱりわからない。


「気にかけることはありませんよ。俺たちが始末しておきまさぁ」


 ハンスが横でにやっと笑った。


「どういう意味……?」


 わけがわからないといった顔のヒラクを、ジークは表情一つ変えずじっと見る。


「もしも神帝が偽神ぎしんなら、偽神を信じた者たちはすべて私の敵となる。それを確かめられるのは勾玉主のあなただけ。真理を得るためには多少の犠牲は仕方ありません」


「俺たちは、そういうふうに教育されてきたんですよ。別に自分以外の命を軽く扱っているというわけじゃありません。むしろ自分の命でさえ、任務を果たすためならば、いつでも切り捨てられるんでさぁ」


 ハンスは明るく笑って言った。

 ヒラクはよけい混乱した。


「つまり……一緒に来た神帝国人は殺すってこと? 何で? おかしいよ。そんなの人を殺す理由にはならない」


「私も理解に苦しみます。あなたはご自分の生まれ故郷を滅ぼした国の者たちに情けをかけるおつもりですか」


 ジークはヒラクのかたわらのユピを見て言った。

 神帝国の皇子であるユピは傷ついた表情ですがるようにヒラクを見る。

 ヒラクは思わずユピから目をそらした。


 ヒラクの中に神帝を憎む気持ちはある。

 神帝国人に対しても決していい感情は持っていない。

 だが、一度知り合った以上、言葉も交わした船員たちを無情に見殺しにはできない。ましてやユピはそれ以上に特別な存在だ。


 ヒラクは胸によみがえる神帝国への憎しみを静めた。


「神帝国人のすべてが悪いってわけじゃない。何も知らない神帝国人たちは帰してあげてよ」


 ヒラクは一歩も引かない構えでジークとハンスをまっすぐに見た。

 そして不安げなユピを見て、安心させるように力強く言う。


「ユピはこの先もおれと一緒だよ」


 ユピはほっとしたようにヒラクを見た。

 ジークは険しい顔をして、鋭い目つきでユピを見る。

 ハンスはやれやれといった感じでその場の様子を見守った。


 そのとき、甲板に一人の男が姿を見せた。船長だった。口の周りからあご全体にかけて髭を生やし、だらしなく腹を突き出した船長は、年よりもずっと上に見え、ジークたちにはない生活くささがあった。


「神帝国人の様子は?」


ジークは船長に尋ねた。


「必死に命乞いしている。見ていて気の毒なぐらいさ」


「同情でもしたか。どのみち船は動かせまい」


 ジークの言葉に船長はゆったりとパイプをふかしながら言う。


「俺も神帝国に戻る」


「はあ? 何だって?」


 ハンスはすっとんきょうな声を上げ、あきれたように船長を見た。


「俺たちの仲間で戻りたい奴もいる。何とか船は戻せるだろう」


「おいおい、まさか本気で言ってるんじゃねぇよなぁ」


「任務を忘れたわけではないだろう」


 ハンスとジークは理解しかねるといった顔をする。


「勾玉主をここまで連れてきた。任務は果たした。あとはおまえらに任せる。俺には神帝国に残してきた家族がいる。それだけでも俺には戻るだけの理由がある」


 船長の目の奥には深い覚悟があった。


「そうか。では、私がすべきことは一つだ」


 ジークは腰に帯びた剣を抜いた。


「勾玉主を連れてきたことで任務を終えたというのなら、これ以上おまえが生き続ける意味はない」


 ジークは剣を構えた。


「待ってよ」


 ヒラクがジークの前に立ちはだかった。


「この人はジークの仲間じゃないか」


「勾玉主が新しい世界を開くということ以上に大事なことはありません。すべての命は神の前では塵に等しい。その中で、あなただけが選ばれた。あなただけが神の前に出ることが許されている」


「ちがう! そんなの何かいやだ!」


 ヒラクはすっきりとしない思いをうまく言葉にできず、苛立ちをぶつけるように声を荒げた。


「神さまが、おれだけが大事でおれだけを選んだっていうのなら、おれはその神さまを選ばない。そんなのおれが探している神さまなんかじゃない」


 癇癪をおこしたようなヒラクを困ったように見て、ジークは剣を収めた。


「……わかりました。行きましょう」


 ジークはヒラクを連れてさっさと船を下り、船長を振り返ることなく歩き出した。

 ヒラクの後にはユピが続く。

 ハンスだけがその場に残った。


「俺はこいつらを見送ってから行きまさぁ」


 ひらひらと手を振りながら、ハンスはジークの後ろ姿を見送った。



 しばらくしてヒラクたちに追いついてきたハンスは服を着替えていた。


「あれ? わざわざ服着替えたの?」


 ヒラクが尋ねると、ハンスはいつものおどけた口調で答える。


「いやぁ、行商人に捕まってたいへんでね。身ぐるみはがされた上にこの服を着ろなんて売りつけられて、ありゃぁ追いはぎも同然でさぁ」


 その言葉にヒラクは笑ったが、ジークは表情一つ変えず何も言わない。


 夜風に紛れて、ハンスから血の匂いがする。

 ジークはそれに気づかないふりをした。


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