7
忘れていた鼻緒の痛みも加わって足がもつれ、前のめりになる形で膝をつき、少年に覆いかぶさる。
払い除けるように出した腕がリウカの腕を打った――はずだったがその感触はない。
驚いてうしろに尻餅をついたリウカを抱きとめ、母親はハナを睨んだ。何も言わせまいとハナは声を張り上げる。
「わたしを食べるんでしょう、血が欲しいならあげます! でもこの人は関係ないはずです。これ以上傷つけないで、ひどいことをしないで、お願いです……」
最後のほうは息が切れた。ハナは鬼を振り返らず、少年を庇いながら白い項を差し出す。
少年を改めて近くで見ると、開けたしゃつの胸元や袖口など体中に包帯が巻かれており、それらには血の乾いた茶黒色い跡がうっすらと滲んでいた。
ここに来るまでになにがあったのかはわからないが、彼を巻き込んだのは自分だ。乱れた前髪で表情の隠れた少年に、ごめんなさいとハナは呟いた。
「退けというのに、どいつもこいつも癪にさわる餓鬼どもだねえ」
鬼女の呆れたような声が鼓膜から全身へと震えを伝播させる。
ハナは簪を胸に抱いて、ぎゅっと目をつぶった――“たすけて”、と、まっすぐに澄んだ少女の声が、内側から心臓を叩いた気がした。
「勿体ないなあ……」
実際に鼓膜を揺らしたのは別の声で、ハナは驚いて目を開けた。
少年の首はまだ明後日の方を向いている、しかしその目はたしかに瞬きをし、口元には歯を見せぬ笑みが宿っている。
血のような眼と視線が合うのは三度目だが、彼は初めてハナを見て苦く笑った。
ハナの非力と無策を見透かしたような、そしてそれに戸惑っているような、真っ直ぐとは言い難いまなざし。
そんな少年を見つめて、リウカと似ているという当初の所感をハナは思い直す。
――彼の瞳は少女と違い、真っ赤な
ハナは泣きそうになった。ずっと手に力を入れていたせいか左手首の傷口がひらき、握ったままの簪に赤い一筋が垂れていった。
少年は前屈みになるハナを押し戻しながら、自身もゆっくりと上体を起こす。
「ご存知ないかい。
登場したときと少しも変わらない口調だった。
少年はおもむろに首に手を添える。ごくり、ごくりと、今度は先程より幾分か軽い音がして、まるで脱臼を嵌め直したのように少年の顔が真正面を向く。
なぜ平然と動いて喋れるのか、なんの話をしているのか、ハナにはその疑問よりも安堵が勝った。
少年はゆっくりと頭を揺らし、首の骨が滑らかに動くことを確認しながら続けた。
「貴女のその枯れかけた体では彼女みたいな
リウカを離し、鬼女は表情に警戒の色を浮かべて少年に詰め寄る。少年もまたハナをゆるく遠ざけ、鬼女に対峙した。
「なにを考えてるんだい」
一段低い鬼の声に、少年は笑みを崩すどころか迎え入れるかのように両手を広げた。
「別になにも。呪いから逃れたいんだろう? 一分一秒でも長く生きるために貴女は自分のことだけ考えなくちゃあね。できることはなんでもやるべきだよ、リウカのためにね」
娘の名を嘲笑とともに吐き出された女は一瞬目を見開いて拳を握りしめる。
ハナには彼の言葉が偽りでないことがわかった。打算はもとより、喜び、かなしみ、怒り、しあわせ、そんな人の機微たる感情を超越してしまった、悟りにも似た空虚なまなざし。
それはやはりハナの手を引いた時のリウカと似ている。
ハナはリウカを見た。少女は立ち尽くして、その目は母だけを見ていた。
鬼女はすぐに拳を解いて破顔した。慰めるように少年の肩を軽く叩く。
少年はにやついたまま赤い目に鬼女を映した。
「そこまで言うならあんたから食ってやるよ、死にたがりの坊や」
言うが早いか鬼女はその手を横薙ぎに払い、爪の先で少年の頸部をあざやかに切り裂いた。
巻かれていた包帯が裂けるとともに鮮血が吹き出し、少年の頭がまた傾く。少年はわずかに眉を顰めたが口角は緩んだままだった。
その裂傷の隙間から見える骨めがけて女が食らいつく。その牙が肉に食い込むごとに少年の首はさらに傾き、全身が緊張して痙攣する。
数回喉を鳴らしただけで鬼女はすぐに少年を離した。
脱力して倒れ込む少年を支え、ハナは共によろめいて地面に座り込んだ。
ぱくりと裂かれた喉からは、少年が手で押さえようとも夥しい血が溢れ出て、ハナの水色の浴衣が赤茶色に滲む。
「ひどい味だねぇ。ええ、なんだいあんた、ひょっとして…」
鬼女は血塗れの顔を歪め、冷ややかにこちらを見下ろす。ハナは痙攣のおさまらない少年の肩をぎゅっと抱きしめた。
その時だった。
夜風が空気を切り裂く清冽な音がして、目の前の鬼の首が飛んだ。
間髪入れず右肩、左腕、臍下に飛来物が突き刺さり、さいごの一投が左胸を正確に貫いて、ぐらつく首無しの胴体は背中から地面に縫い留められる。
それは一瞬の出来事で、ハナは無意識に息を止めていた。
地面を転がった鬼の首は巨石に当たって止まった。何が起きたかを理解していないようで呆然と瞬きをし、ぱくぱくと口を動かしているが声は出ない。
りうか、ハナは女の唇がそう言った気がした。
やがて鬼の首は動かなくなった。
母の首を追ったリウカの目は見開かれたまま、呆然と立ち尽くしていた。
ぬるい夏の風と自分の乱れた呼吸が戻ってくる。鼻をつく生臭いにおいにハナはすこし噎せた。
ハナは首無しの胴体を恐る恐る眺める。鬼を仕留めたのは苦無、そして首を跳ねた勢いのまま地面につき刺さっているのは、蛇腹を広げた鉄扇だ。その武器にハナは見覚えがあった。
よほどさっぱり切れたのか胴体の断面からは血がほとんど流れ出はしなかったが、地面には巨石に至るみちすじを示すかのように、首の転がった赤い跡がてんてんとついていた。
扇に付着して黒光りする鮮血にハナは再び泣きそうになる。鬼の血もまた人と同じように赤く、生きていたのだ。
そして今、手の中の少年の体温がハナを猛烈に安堵させた。
「おハナちゃん! もう、探したのよぉ」
扇子をはたはたと扇ぎながら派手な着物のまま現れたのは蘭だった。
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