第一章

観桜会のうさぎ

第1話 出逢い①

 よく手入れされた芝生が青く輝いている。広大な庭のどこかから弦楽四重奏の調べが耳にとどく。満開の花はわずかに散りはじめている。


 小さな何かが足もとに飛びこんできた。次の瞬間、それは敏捷にはね跳んで彦乃の膝に乗った。暴れるでもなく、急におとなしくなる。

 うさぎだった。

 まるまると太っている。牛乳入りのコーヒーみたいな色の被毛はつやつやしている。眼は黒い。欧州産の品種のようだ。


「ツキミちゃん!」

 幼い声がうさぎを追いかけてきた。息がはずんでいる。セーラー服姿の男の子だった。三歳くらいだろうか?


 男の子がぶつかるのと、うさぎが逃げだすのが同時だった。男の子は、勢いあまって彦乃の膝に上半身を投げ出すかっこうになった。

 小さなつむじ風のように現れた男の子より、俊敏さではうさぎのほうがはるかにうわてで、観桜会の着飾った招待客の足もとを器用にすりぬけていった。


「待って、待って、ツキミちゃん」

 男の子が、彦乃の膝についた両手に力をこめ、反動をつけて小さな体を転じようとしたとき、

「雪、いけない。待ちなさい」

 不思議な陰影を感じさせる中音域の声。

 彦乃は顔をあげた。


「ばたばた追いかけちゃいけない。うさぎを驚かせちゃいけないよ」

 着物姿の人だった。子供を制止しつつ、口調はやさしい。その眼差しも。


 この一瞬が彦乃をさらっていった。さらったまま二度と後戻りを許さなかった。


「息子がご迷惑をおかけしませんでしたか?」

 彦乃は、なぜか急に口のなかが乾き、喉の奥がしめつけられたように感じた。いいえ、と声に出して返事をしたつもりが、かぶりを小さく振っただけに終わった。


 相手は、男性にしてはやや華奢な骨格ながら、背が高い。六尺以上ありそうだった。籐のスツールに腰かけている彦乃に対して、背を折り曲げるようにした。


 まっすぐな鼻梁から口元にかけての印象が清潔で、そこだけは成人男性というより少年の面影が濃いのに、表情全体には少し疲れたようすがあった。美しく若々しい顔立ちの奥に、それを裏切る何か苦いものがほの見えている。相反する二つがぎりぎりのところでせめぎあっている。このきわどい均衡が彦乃には磁力としてはたらいた。そのことに彦乃が気づくのは、ずっと後になってからだったが。


「雪、きちんとごあいさつをしなさい。お詫びを申し上げなさい」

「お詫びなんて――」

 ようやく彦乃は呼吸を取り戻す。

「ごめん……なさい」


 あらためて男児の顔を観察する。ちょっと色白過ぎる気がしたが、頬にはほんのり赤みがさしている。二つの大きな瞳はよく動き、いきいきしている。両耳の上の髪だけ、少し癖があって、くるくると巻いている。男児の愛らしさが彦乃の緊張をほぐした。


「うさぎは坊やが飼っているの?」

「ううん。テルおにいちゃまの」

「そう。お兄さまの」

「いえ、従兄です。うさぎは私の甥が飼っていて。――申し遅れました。堂本穂波と申します。息子の雪です」


 ドウモト、ホナミ。

 ドウモト、ユキ。


 堂本伯爵家の庭が今日の観桜の会場だ。開会のとき招待客たちに挨拶をしたこの邸宅のあるじは別人だったから、眼前の男性は伯爵ではない。いずれにしても伯爵家の身内なのだろう。


 自分も名乗るべきか? そんなことはすべきではないのか? 自分はもうすぐ十八。けれど、この人から見たら子供のようなものだろう。子供が名乗るのはおかしくないだろうか? いや、十八ならもういい大人だ。大人であるべき。とはいえ、ここでも迷う。女の自己紹介というもの、世間一般ではあたりまえなのだろうか? 考えすぎて言葉が出てこない。


「お父さま、ボクもうさぎを飼いたい」

 男の子が、陽射しをちょっとまぶしそうにしながら、父親を見上げた。

「うん。じきに飼えるようになるよ」

「今すぐ飼いたいの」

「それはどうかな。生きものを飼うのは簡単じゃない」

 父親は屈んで、幼い息子と視線の高さを合わせた。


「ボク、飼えるよ。できるもん」

「毎日餌をやって、寝床もきれいにしてやって、病気にかかったりしていないか目配りしないといけない。まだ雪ひとりでは世話をしきれないよ。けっきょくお満佐まささんに面倒をかけることになる」


「でも……」

「一年待ってみよう」

「一年て、どれくらい?」

「今咲いてる桜が散って次にまた咲く。それでちょうど一年だ。待つことは大事なことなんだよ」

「待てないよ……ボク……」

「できるよ。雪は、待てる。うさぎも待っててくれる」


 男の子が彦乃を振り返った。

「待っててくれるかな?」

 出会ったばかりの子供から特別な信頼の情を示されたような気がして、自分自身をまだ子供っぽいと感じていた彦乃は、緊張した。きちんと答えなくては。父親と目が合った。――なぜか、永遠に近い時間が流れた、と思った。男の子のほうへ向きなおり、

「もちろん。もちろんですとも」


 納得したのか、男の子は「うふ~ん」とため息をついて、にっこりした。彦乃もつられて微笑んでいた。

 父親が息子の手を引き、会釈した。

「失礼します」

 彦乃も軽く頭を下げ、失礼いたします、とあいさつした――つもりが、またも声が喉の奥で引っかかってしまった。私、どうしたというのだろう?

 

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