産声

波と海を見たな

再生

 気付いたら知らない場所にいた。大草原の真ん中で仰向けに寝転んで空を見上げていた。自分が何者で、何故ここにいるのか皆目検討がつかない。

「しかしいい天気だなぁ」

 空は快晴で、抜けるような青空は吸い込まれそうな程に綺麗で、いつまでも見ていたくなる。柔らかい太陽の光が大地に燦々と降り注ぎ、その眩しさと暖かさが心地よい。

「いけないいけない」

 危うくどことも知れぬ場所で二度寝するところだった。危機意識のない自分に苦笑しつつ、立ち上がってゆっくりと辺りを見回した。

 どうやら自分は森の中に居るようだ。周囲はぐるりと木で囲まれており、自分がいる場所だけぽっかりとくり抜かれている感じ。まるで宇宙人が開けた穴だ。穴の概算は直径20メートルはあるだろうか。

「ん?あれはなんだ」

 正面にある木々の間に、黒い穴のようなものがあった。まさか本当に宇宙人の基地が?

「…そんな訳ないか。洞窟でもあったりして」

 特にやる事もないし、男は穴を目指してあたりを散策する事にした。

 ひょおおおおお。

 風が吹く度に背の高い草が揺れる。

「ああ、春の匂いだ」

 不意に幼い頃、友人達と野原を駆け回って遊んでいた記憶が甦るが、残念ながらそこに自分が何者かを知る答えはなかった。

 頭の中に浮かんだ旋律を鼻歌に乗せて歩いていると、背中や額にじんわりと汗がにじんできた。一瞬歩みを止めて自分の格好を見てみると、上下ともにスーツ姿で何となくこの場所にはそぐわない気がしたが、男は気にせずに歩き出した。

 近くまで来ると、黒い穴に見えたものはコンクリートで出来たトンネルのようだった。長閑な雰囲気のこの場所には似つかわしくない程に深い闇がそこにはあった。周囲に出口らしきものはこのトンネルしかなかったが、間近に覗きこんでも全く光が見えない。一度入るともう二度と出てこれないかもしれない。暗闇をじっと見ていると、何故だか言いようのない不安に襲われて、とめどなく汗が流れてくる。外は暑い。自分の格好は明らかに場違いだ。それでも、この闇は体の芯から男を冷やす。この闇に自分という存在が少しずつ溶け出していくような…。

「こんにちは」

 不意に後ろから声をかけられ、男は驚いて振り返った。

「おお、びっくりした。こんにちは」

 目の前に居たのは高校生くらいの男の子だった。切長の目に、尖った鼻。面長の顔に小さく細い口。どことなく神経質そうなその顔を、男は何処かで見たことがある気がした。

「ええと…君はここが何処か知ってる?あ、それより君の名前は」

「すみません、僕もわからないんです。おじさんは先に進むんですか?」

 男の子は細い唇を更に窄ませながら、不安げな顔でそう答えた。トンネルを指差す手は、微かに震えているように見えた。暑いのかニキビのせいなのか、男の子の頬はほんのりと赤い。

「どうかなぁ。ま、ここはおじさんに任せてよ」

 そう虚勢を張ってトンネルに足を踏み入れてみたが、中は想像以上に暗くて入った事を直ぐに後悔した。

「あはは、これは…ちょっと怖いね」

 言い訳がましく呟きながら振り返ると、男の子はもう何処にも居なかった。

「おぉーい!おぉーい。おぉーい…」

 大声で周囲に呼びかけてみたが、どこからも反応はない。ただ、自分の声がトンネル内に反響しただけだった。

 このまま戻るべきか、それとも進むべきか。妙なことに、悩んでる間にも足は前へ前へと進んでいく。

 トンネルの中はいつまで経っても真っ暗で、壁伝いに進んでいく他なかった。

 入る前は不安に押しつぶされそうだったが、いざ入ってみるとなんて事はなく、寧ろ絶対的な安心感があった。

 内壁はひんやりとしたコンクリートの感触を想像していたが、触ってみると思いの外暖かい。それに加えて壁全体が波打つような奇妙な感覚もあった。

 不思議な空間だ。奥に進むに連れて自分が何者なのか考える事自体が無意味に思えてくる。

 まだまだ先は見えない。

 男はやがて壁から手を離し、真っ暗闇をかけていった。


「申し訳ございません。以後気をつけます」

 橋岡拓真は片付けが苦手だった。

「気をつけます気をつけますって馬鹿の一つ覚えによお。ええっ?ホントに直す気あんのかお前ええ」

 自分より一回りも年下の上司に肩を思い切り小突かれながら、彼は自席へと追いやられた。

 橋岡のデスクは書類の山で埋もれ、何度注意されても整理することが出来なかった。デスクの状態が示すとおり、大切な書類を紛失する事は日常茶飯事で、せっかく契約を交わすことが出来ても、必ずといっていい程、契約書の押印漏れや記載漏れといったケアレスミスを犯す。

 余計な仕事を自分で増やすせいで橋岡は毎日残業ばかりしていた。

「すみませ、やめ…やめて、下さい」 

「あ?なんか文句あるの?え?口答えすんの?なら、辞めて、貰う、けど!」

「いえ、すみません、気を…つけます」

 さっきまで痛いほど感じていた視線も、橋岡が席に戻る頃には一切なくなっていた。

 ミスを繰り返し、契約者に何度も頭を下げた。僅かだが会社の損失になることもあった。

「ふざけんな!何回言やわかんだよこの無能!なのに大卒だから俺より給料良いだと?有り得ねえよくそっ!お前、事務所にいんなよ。この間渡したチラシ配り終わるまで帰ってくんな!」

 これまでに幾度となく上司から叱責を受けた。

 この会社はいわゆるブラック企業だ。毎朝掃除のために8時半始業のところ7時に出社していなければいけない。終業後も上司が帰るまでは他の社員も帰ることを許されない。勿論、社員は#仕事が遅いだけ__・__#なので残業代は出なかった。

 怒られるのは彼だけではない。

 若手や中堅社員は次々に辞めていき、残された若い社員は精神的支柱が居ない中で、かつて彼らもされたであろう度を越した#おしおき__・__#を新人達にも施すのだ。資材部や農政部といった現場では、間違えたら殴る蹴るは当たり前。水をかけられ、フォークリフトで吊るされ、夜は肝試しを強要させられる。

 何故首にならないかはわからないが、周りから聞こえてくる失笑は彼がストレスの捌け口になっている事を表していた。

 橋岡が挨拶をしても誰も返さない。仕事中も「おい」とか「ほら」とか名前すら呼ばれない。

 橋岡は散乱したデスクを掻き分けて、見つかるはずのない書類を探す旅に出る。


 目を開けると見たことのない建物にいた。

 腐り落ちた床板の下に仰向けのまま埋まっていた。

 何かを思い出そうとして、それが何なのかを忘れてしまう。

「雨が降りそうだなあ」

 天井が一部崩落し、剥き出しになっている。隙間から覗く空はどんよりと曇っていて、目を凝らすと少し離れた場所は雨が降り始めているようだった。

 曇り空でも紫外線は容赦なく男へ降り注ぎ、耐えられなくなった男は自分が埋まっていた床下にうつ伏せで隠れてしまう。

「……ぶはぁ!…苦しい」

 危うくどことも知れぬ場所で窒息死しそうになった自分に苦笑しつつ、男は立ち上がって辺りを見回した。

 どうやら廃墟に居るようだ。崩落した壁や天井の瓦礫を乗り越えながら廃墟の中を探索するが、窓という窓に鉄の板が打ち付けられており、外の様子はよくわからない。

「ん?あれはなんだ」

 書斎の様な部屋で、倒れて折り重なった本棚の後ろに黒いものが見えた。

「隠し部屋があったりして」

 特にやる事もないし、男は無造作に散らばって進路を塞いでいる本や本棚の破片を次々と除けていく。

 ひゅうううう。

 時折天井から吹き付ける風が本のページをパラパラとめくる。

「ああ、カビた紙の匂いだ」

 不意に学生時代、大学図書館の書庫で本を配架するアルバイトをしていた記憶が甦るが、男には特に意味があることには思えなかった。

 木の破片はもとより、落ちている本も分厚いものが多く、疲労で体が重くなる。

 改めて自分の格好を見てみると、上下ともに擦り切れたジャージ姿だったが、意外と廃墟に合っている気がした。

 ようやく人1人が通れるくらいに破片を避け終わると、出てきたのは地下へと続く隠し部屋への入り口だった。

「気になるなあ」

 目の前には階段をすっぽりと飲み込む深い闇。

 近づいて覗き込んでも終わりは見えてこない。試しに落ちていた拳台の木の破片を落としてみると、ガランッ、ガガンッという音が永遠とも思える程に長く続いた。

 階段の先の闇をじっと見ていると、段々と自分と言う存在がそこに吸い込まれそうになってくる。

 流石に一歩踏み出すのを躊躇っていると、「こんにちは」と不意に後ろから声をかけられ、男は慌てて振り返った。

「おお、こんにちは」

 目の前に居たのは、中学生くらいの男の子だった。目と耳が二つに鼻と口が一つだけの、至って普通の子だ。

「君、1人かい?名前は?」

「名前なんてどうでもいいよ。僕が1人かどうかも。そんな事よりさ、下に行くの?」

 男の子は少し不機嫌そうにそう答えた。

「気になるよね、いざ入ろうと思うとちょっと怖いけど」

 男は闇の中を覗き込みながら、務めて明るくそう言った。

「おじさん、ダサいよ。怖い時は見栄を張らずに言わないと」

「あはは、それは…随分と手厳しいね」

 男が頭を掻きながら振り返ろうとすると、突然身体が押され、男は仰向けに宙を舞う。

 自分の身に何が起きたか理解した時にはもう男の子は居なくなっていた。

 最初にどんっ!と背中に鈍い衝撃があり、

そこからは真っ暗な闇の中をただひたすら転がり落ちて行った。

「うっ!ぐっ、げえっ、おっ!」

 長い長い階段を、ただひたすらに転がり落ちていく。

 既に男の意識は途切れかけており、ただ反射的に声がで続けているだけだった。

 朦朧とした意識の中で、男は不思議と幸福感で満たされていた。

 それに、ひんやりとした階段や壁を想像していたが、ここは思いの外暖かい。

 不思議な空間だ。これだけ落ち続ければとっくに死んでいるか、少なくとも階下に着いてもいいはずなのに、そのどちらでもなく只々落ち続けている。

 回転に伴う強烈な揺れで平衡感覚はすっかり失われ、落ちているのか昇っているのかもわからない。

 ばしゃああああんと激しい音がして、男は水面に叩きつけられ遂に意識を失った。

 階下に溜まった水の底に、男は体を丸めながらゆっくりと沈んでいく。


 橋岡拓真が外勤から戻ると、先輩達がこっちを見てにやにやと笑っている。

「おい、どうせ今日も残業だろ?みんなで飯行くぞ飯」

「わかりました」

 断ると言う選択肢は存在しない。この会社では、名前も、自分の意志というものすら必要とされないのだ。

 それぞれの車で近くにあるファミレスへ向かう。

 高卒で叩き上げの先輩達3人と、大卒の橋岡。みんな橋岡よりも年下だった。

「おーしじゃあお前、これ飲めよ」

 夕飯を一通り食べ終わると、メニューの横に置いてあったタバスコを飲むことを強要される。

「勘弁してくださいよ…」

「逆らうんじゃねーよお前如きがさあ。なに、仕事増やされたいの?」

 黒縁メガネのリーダー格が、半笑いでそう言った。眼鏡の奥は、虫を見るように無であった。

「いえ、すみません。…やります」

 橋岡は下唇を噛みながら声を絞り出す。

「お、いいぞ大卒ー。俺らより頭いいんだから、飲みながらなんか面白い事言えよー」

「ちょい待って、動画撮らんと!後でYouTubeに上げようぜ!」

 残りの2人も黒縁メガネに同調しはしゃぎ立てる。

 ここで道化を演じれば、果たして彼らは満足するのだろうか?

「はい飲んでー飲んでー飲んじゃってー」

「おいもっと一気にいけよ!」

 黒縁メガネがタバスコの瓶の角度を無理やり上げた。

「ぶっ!おぇっ、げえええええ」

「はははははは、その顔最高!抑えとけ抑えとけ、水飲ませんなよ」

 飲み干したタバスコが胃の中で暴れ、口やら食道やら何もかもが焼ける様に熱い。

 店員の死角でガッチリと頭を抑えられた橋岡は、彼らの手から解放されようと必死でもがく。

 大人しい性格だった橋岡は、学生の時も多少の虐めや教室の空気になった時期もあったが、学校には休まずに通った。優しかった母は幼い頃に病気で亡くなり、父子家庭だった。厳格な父に育てられた橋岡には、そもそもどんな事があって休むという選択肢がなかった。

 この会社に入社したての頃、生まれて初めて辞めたいと思って父親に相談した。

 答えは勿論ノーだった。

「3年は我慢しなさい。次に繋げるために」

 父はその3年を待たずに病気で他界した。橋岡は結局3年経った今も会社を辞められないでいる。

「いやーいい顔撮れたわー。今日も仕事頑張れそう」

「あの、お金…」

「じゃあ俺ら先帰るからさ、後はよろしく!」

「俺たちより金貰ってるんだから払ってくれよなー」

 三人はいいだけ橋岡を玩具にすると、飽きたらすぐに会社に戻って行った。

 やっとの思いで散らかったゴミの後片付けと全員分の支払いを終えた橋岡は、憂鬱な気持ちで会社へと戻る。今日もまだまだやる事が山積みだった。

「おかえりー」

 にやにやと笑いながら出迎える先輩たち。今会社に残っているのは若い社員だけだ。きっと自分はまた彼らのおもちゃにされるのだろう。

「なあ、ちょっとこれ食べてみろよ」

 笑いを堪え切れていない下品なその顔に気づかないふりをして、橋岡は正体不明の固形物を受けとった。

 仕事に早く取り掛かるためには、自由意志や人間の尊厳なんてあるだけ邪魔だった。会社という組織は、人間をどんどん機械にしていく。

 空っぽの器に幾つかの固形物を入れ、出てこないように蓋をする。ミキサーを器の奥まで捩じ込んで、そのままSwitch on!

 果たして回転しているのは固形物なのか器なのか。段々と器から精神が引き剥がされていき、ああ、これは遠心分離の装置だったかと考えているうちに、いつの間にか自分が空っぽの器を上から眺めていることに気づく。自転する地球の上でぐるぐると不恰好に回る器を余所に、吐き出された橋岡は人間とは何か、自分とは何かを考える。


 男は暗がりをふらふらと歩いていた。いつからそうしているのかはわからない。

 気づいた時にはもう歩いていた。

 明かりを探すために思い立ったようにあたりを見渡し、ようやく自分が裸でいる事を自覚する。

 とはいえ、真っ暗というわけではない。

 足元は何処からか流れてくる水で濡れていた。

 男は気持ちよくなってその場に寝転がる。

「落ち着くなあ」

 しばらくして夜目がきくようになると、自分が古いトンネルのような場所に居ることがわかった。

 よく見ると天井や壁の其処彼処がてらてらと濡れている。遠くがぼんやりと明るいので、きっとこのまま進んでいけば外に出られるのだろう。

 ど、どうっ。ど、どうっ。

 目を瞑ってじっとしていると地面が微かに揺れているのが感じ取れた。

「地震か!?」

 男は身を守るために身体を丸めてその場に蹲るが、何処にも逃げ場がない事に気付いて笑った。

「進むしかないかあ」

 男はゆらりと起き上がると明かりを目指して不恰好に歩き出した。

 先に進むごとに少しずつ道幅が狭くなっていく。最初は歩くとぱしゃぱしゃする程度だった地面を流れる水が、今はもう踝程までになっていた。

「うわっ!」

 壁伝いに歩いていた男は身体を投げ出すような形でいきなり倒れ込んだ。

 そこに壁はなく、代わりに先へ進める脇道があった。

 現れた道の先に明かりは見えなかったが、耳を澄ますとひょおおおおという風の音が聞こえてきた。

「迷うなあ」

 好きな人へのプレゼントをどちらにするか迷った挙句、結局買えなかった苦い記憶が唐突に思い出されたが、今度はきちんと迷った末に風が吹く方の道を選択した。

 道は緩やかな登りになっていて、道幅も広く歩きやすかった。

 ところが、登るにつれて勾配がどんどん急になっていき、遂には四つん這いでなければ登れなくなった。

 そうまでして登らなければいけない理由はなかったが、かといって戻る理由もない。

 男は地面に爪を立てて一心不乱に進み続ける。何度となくずり落ちそうになりながらも、少しずつ登っていく。

 どれくらい登っただろうか。

 男の手は長時間硬い地面を蹴ったせいで血だらけだった。

 身体中のあちらこちらが擦りむけ、側から見れば満身創痍だったが、ずっと抱えてきた違和感の正体がわかって男はこの上ない悦びに満ちていた。

 何せ、自分の本来の歩き方は四足歩行だったのだから!

 男がどういう訳かふらふらと歩いていたのも、そう考えれば納得だった。

 男は水を得た魚のようにぐんぐんと坂を登っていたが、ある地点で急に減速すると、その場で動きを止めた。

 再び別れ道だ。しかも今度は十字路だった。どの道の先も真っ暗で、全ての道から風が吹き込んでいた。

 男が再び頭を悩ませていると、後ろから突然「こんにちは!」と元気な男の子の声が聞こえてきた。

「こんにちは」と反射的に挨拶を返しつつ振り返ると、小学生くらいの男の子がにこにこしながら立っていた。

「ぼく、こんな所でどうしたの。お父さんやお母さんは?」

「よかったね。もうすぐかえるよ」

 男の子は男の質問には答えずにそう言った。

「帰るって誰がだい?」

「おじさんの小さいころってさ、今よりも楽しかった?」

 男の子は相変わらず満面の笑みを浮かべているが、こちらの質問には答えてくれないようだった。

「覚えてないなぁ。おじさんはさ、昔の事は忘れちゃったんだ」

 男は記憶を失っていた。

「今度は楽しめるといいね」

 そう言って男の子は左の道を指し示した。

「この道が正解なのかな?」

 男が道の先を覗きこんでいる間に、男の子は忽然といなくなっていた。

「とりあえずこの道を進んでみるか」

 男は何も考えずに示された道へ一歩踏み出すと、忽ち四つ這いになって再び勢いよく走り出した。

 しばらく走っている内に段々と四つ足にも慣れ、足元の感覚が研ぎ澄まされていくのがわかる。

 そうすると地面を蠢く何かを身近に感じられるようになった。

 どっどう、どっどう。

 地面の下の脈動が勢いを増す。不思議と嫌な気持ちはしてこない。

 どっどっどっどっどっ。

 音が更に激しさを増す。

 男もそれに合わせて速度を上げる。

 どっどど。どっどど。

 地面を這う音の勢いが僅かに落ちる。

 男もそれに倣って減速する。

 規則正しく繰り返されるその波は、男に何かを訴えかける。

 波の感覚が狭まってきていた。

 どどどどどどどどどどど。

 もしかすると出口が近いのかもしれない。

 男は再び速度を上げると、猛然と暗闇の中を突き進んで行った。


 朝。

 憂鬱な朝だ。

 今日もまた会社に行かなければいけない。

 明日も、明後日も、5年後も、ともすれば死ぬまで。

 味のしないパンを胃に無理やり捩じ込むと、橋岡は死んだような顔で身支度を始めた。

 「おぇっ。っかっ。えええええ」

 歯ブラシを入れるだけでストレスと過去の思い出から自然とえずいてしまう。明らかな会社への拒否反応だ。

「肉体はただの器、肉体はただの器…」

 橋岡はおまじないのように魔法の言葉を繰り返す。

 毎日毎日会社が火事になって跡形もなく焼け落ちている事を本気で願っては、それを嘲笑うように変わらず存在し続ける会社を呪う。今日も、明日も、明後日もそうするだろう。

 ため息を吐きながら橋岡がカーテンを開けると、外はまだ真っ暗だった。

「おかしいな」

 部屋の時計を確認したが、時計の針は午前6時半を指し示している。

 今は初夏だ。日の出の時間はとっくに過ぎている。曇り空で何となく暗いのとは訳が違う。真夜中のように真っ暗なのだ。

「時計が狂ってるのか、遂に俺がトチ狂ったのか」

 スマホや朝のテレビ番組の時間表示を確認してみたが、やはり時刻に間違いはないようだった。

「まあ、どうでもいいか」

 橋岡はすぐに興味を失い、いつもと同じ時間に家を出た。

 天変地異が起きようがテロが起きようが、会社に直接関係なければ仕事に行かねばならない。ただ空が真っ暗なだけでは何の意味も救いもないのだ。

 橋岡のアパートは会社から歩いて15分ほどの所にあり、いつも夏は自転車で通勤している。

 通勤路は至って単純だ。アパートの前の道路を直進する。少し行くと右手に緑のフェンスに囲まれた小学校が見えてくる。住宅街の中にある年季の入った小学校だ。雪が降るまではグランドを走り回る元気な声が聞こえているはずだ。

 そのままフェンスに沿って進み、フェンスの切れ目を右に曲がり、更にそこからしばらく道なりに進むと、今度は信号のある大きな通りへと出る。目印はとある産婦人科の看板だ。その十字路を左に曲がれば、すぐに忌々しきあの会社にたどり着く。

「おぉはぁよぉぅぅぅござござござ」

 部屋を出ると、丁度同じタイミングで部屋を出てきた隣の若い会社員の男が橋岡を見て元気よく挨拶してきた。

 通勤時間が似通っているのか、毎朝玄関前でよく遭遇するのだが、死んだような目をしているから勝手に同類だと思ってシンパシーを感じていた男だ。

いや、男の筈だ。何せ目の前にいるそれは、顔が真っ黒く塗りつぶされて表情すらわからなくなっていた。

「おはようございます」

 やたらとゆっくり動いているお隣さんを脇に退かしつつ、橋岡は階下に置いてある自転車に跨った。昨日まで自転車だったそれは、真っ黒いモザイクの塊になっていて、じじっ、じじっとブルーライトに焼かれる蛾のような音を立てて明滅を繰り返している。

 橋岡はとりあえずハンドルと思しき出っ張りを掴んでペダルをイメージしながら漕いでみる。乗り心地は意外にも自転車だった時より快適だった。

 空は相変わらず真っ暗で、其処彼処で赤黒い箱に似た何かが雷鳴の如き光を纏いながら空中に現れては消えていく。

 辺りの建造物は比較的まともなように見えたが、よく見ると建物の輪郭が曖昧で、数秒ごとに家だったものが形を変え、コンビニになったり崩壊したりを繰り返していた。

 まるでデバッグルームの世界に迷い込んだ8ビットの主人公になった気分だった。

 橋岡はこの機会に会社も無くなってしまえと念じながらすっかり様変わりした通勤路をいつも通りに風を切って進む。

 社会人になってから受けた様々な耐え難い苦痛から逃れる為に、橋岡は死ではなく生を選んだ。器から精神を切り離し、そこから新たな橋岡を生んだのだ。

 今黒い塊を漕いでいる器としての橋岡はただの抜け殻だった。

 すれ違う人々は皆一様に顔が黒く塗りたくられていて、全ての動作が緩慢だった。

 空と建物が一定の周期で明滅する。それに合わせて黒い顔をした人々も一瞬だけ動き出す。不自然にコマ送りをしたように早められたその動きは、出来の悪い人形劇を見ているようで、何とも滑稽に思えた。

 刻一刻と変化する潰れた家電量販店のような場末のボーリング場のような近未来の立方体のような小学校を横目に、フェンスらしき緑の境界線を右に折れた。

 本来であれば十字路に出るまでしばらく代わり映えのしない住宅街が続くはずだったが、今日は打って変わって随分と賑やかだった。

 高床式倉庫の隣にはスカイツリーが聳え立ち、そうかと思えば瞬きの間にエッフェル塔に姿を変えている。流石の橋岡もバロック式の教会の荘厳さに感嘆し、生で目にする原爆ドームの凄惨さに酷く心を痛めるのだった。

 時代も国もバラバラだったが、どれも橋岡が何かで見たり読んだりしたものだった。

 大通り出ると、辺りは更に混沌としていた。

 道路には真っ黒の大きな塊が溢れ、不自然な姿勢で静止している信号待ちの操り人形達は、思い思いの動きを繰り返している。

 見晴らしが良い十字路だと、情報量が多すぎて何が何だかよくわからなかった。建物の変化が早すぎて脳がその光景についていけないのだ。

 橋岡は十字路を左折すると、ただひたすら前だけ向いて黒い塊を走らせる。


 男は小さな男の子の手を引きながら、うす暗いトンネルの中を歩いていた。

 壁には申し訳程度に蝋燭が灯されていて、暗闇の中でも最低限の視界は確保できた。

「ねえー。まだつかないのー?はやくかえりたいよー」

「もうちょっとだから、頑張ろうね」

 男の子は何度も駄々をこねた。

 年の端は5才くらいだろうか。男は気づいた時にはもうその子を連れていた。

 名前を聞いても答えてくれないし、口を開けば「かえりたい」の繰り返しだった。自分の子供なのか、違うのか。それすらもわからない。

「次はどっちかな?」

「んー…あっち!」

 トンネルの中には所々分かれ道があり、その度に男を悩ませた。中を除いても道の先に答えはなく、等しく闇が広がっていた。

 時間をかけて結論を導き出しても、何故か毎回男の子が自信たっぷりに道を選ぶので、男は仕方なくそれに従った。

 この子を見ていると、子どもは欲望に忠実で羨ましいと心から思う。

「つかれたー!もう歩けないよー。おんぶ、おんぶして!」

 男は仕方なく男の子をおんぶする。背中に感じる男の子は、思ったよりも重く感じた。

 純粋に自分の事だけを考えていて、そこに恥も外聞も存在しない。

 大人になるに連れて、自分というものが削ぎ落とされてしまう気がしてらならなかった。

「かっえっろぉー、かっえっろぉー!ぼーくはぁー元気ぃーっ!」

 男には過去の記憶の一切が抜け落ちていたが、天真爛漫な男の子を見ていると、自分もあの頃に戻りたいという気持ちが強くなった。

ーおい、出来損ない。これくらいちゃんとやれよ。

 男は突如フラッシュバックした記憶の断片を強引に頭の奥底に押し込んだ。

 人生は、やり直しなんて出来ないのだ。

「あーかえりたいー。かえりたいよー」

 この時男はふと違和感を覚えた。

 この子にはさっきからかえりたいという欲求しかない。

 普通このくらいの年齢なら、お父さんお母さんに会いたいとか、お腹すいたとか疲れたとか、そういう駄々をこねるものだろう。

「かえる」とは勿論「おうちに帰る」だと思っていたが、もしかしたら違う意味のかもしれない。とはいえ、こんな奇妙な空間で普通も何もないかもしれないが。

 そうこうしている内に、また分かれ道だ。

「次はどっち?」

「うーんと…あ!」

 男の背から穴を覗き込んでいた男の子が、不意に動きを止めた。

「どうしたの?」

「こっち!こっちだよ!やったあ、これでかえれるよ!」

 男の子は男の背中から勢いよく飛び降りると、駄々をこねていたのが嘘のように猛スピードでトンネルの先へとかけ出した。

「おーい、先に行ったら危ないよ」

 男は慌てて後を追ったが、男の子はもう何処にもいなかった。

「おーい、戻っておいでー!」

「…いいいいい」

 呼びかけに返事がない代わりに、遠くで奇妙な声が聞こえる。トンネルの中で反響しているのか、声が重なって上手く聞き取る事が出来ない。

「この先に誰かいるのかな」

 既に男の子はトンネルの先に行ってしまった。男には前に進むしか選択肢はなかった。

「れぇぇぇぇぇ」

 先に進むにつれて声のような音が大きくなってくる。近づいているはずなのに、音の意味を理解する事ができない。

「えしなぁぁぁぁぁぁ」

「おーい、誰かいるのかー?」

 男の呼びかけに、続いていた叫び声がピタリと止む。

「…ぼうや?」

 すぐそこの暗がりで何かが蠢いている。黒い影のようなものが、視界の端に見え隠れする。くすくすと押し殺したような笑い声があたりに響く。

「こらこら、隠れてるなら出てきなさい」

 男は務めて優しく影に声をかけた。

 近づいてみると、影はこちらに背を向けて蹲っていた。

「はは、みーつけた」

 男が笑顔で男の子の背中にタッチする。

 ひんやりとした、ゼリーのような感触が男な手に広がった。

「ぼうや…?」

 揺らめいていた影が動きを止め、ゆっくりとこちらを振り返る。手を離そうにも、べったりと張り付いて離れない。

「ねえ」

 男の子は何も答えない。振り返るまでのその動きが、やけにゆっくりとして見えた。

 長い長い予備動作の後にようやくこちらを振り向いた男の子の顔は、マジックで塗りつぶされたように真っ黒だった。

 その尋常ならざる容貌に男が声を失っていると男の子はゆっくりと立ち上がった。男の手はそのままずぶりと男の子の体にめり込んだ。

 男の目線が下から上へと急激に上がっていく。遅れに遅れてきた成長期なのか、男の子の胴体だけがぐんぐんと伸びていき、遂にはトンネルの天井にぶつかって、ようやく止まった。

 男の子だと思ったものは、大男だった。いや、もはや人間ですらないだろう。

 大男に似た何かは腰をかがめながら男の方へぐいいと顔を近づけた。

「あ…ええと…。ひ、人違い…でした」

 男はぬぷりと手を抜くと、そのままゆっくりと後ずさった。

「お」

 異形の者の顔に真一文字の亀裂が走る。

「お?」

 ばりばりと大男の顔が縦に裂け、男の目の前に突如大きな口が現れた。口の中には深い闇が広がっていて、こっちこっちと口の中を指さす男の子の姿が目に浮かんだ。

「おかえりぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」

 あまりの声量に空気が振動し、世界が歪む。唾液なのかどろどろとした液体を浴びながら、男はあまりの勢いに押され、尻餅をついてしまった。

「………!!」

 人ならざる者は間髪入れずに再び咆哮するが、男の鼓膜はもうそれを捉える事が出来なかった。

不快な液体が男の全身に上塗りされる。

 大男は放心状態の男にゆっくりと近づくと三度大口を開けた。男はもう体が脱力し目の焦点が合っていない。

 しばらく口を開けたまま動きをとめていた大男だったが、不意に思い出したように男の上半身をバクンと丸呑みしてその場から走り去って行った。

 残された下半身は、しばらく噴き出した血潮の噴水で踊っていたが、まるで何事もなかったかのように歩き出すと、暗闇の奥へと消えていった。


「おはようございます」

 人間の腕になった箒で会社の前の歩道や花壇の清掃を終わらせた橋岡は、自席に戻るとすぐに課長から呼び出しを受けた。

 会社崩壊への少なくない期待はあっけなく裏切られた。周りの建物がおかしくなっている中で、今日も会社はいつもと変わらぬ出立で堂々とそこにあった。ただ申し訳程度に用具や備品がなんだかよくわからないものに変化しただけで、社員達も至って普通の顔をしていた。

「おい、なんで呼ばれたかわかってるな?」

「はい、申し訳ございません」

 もちろん橋岡の扱いもいつも通りだ。

「いいか、次にや…るまぞっ!」

「え?」

 キュルキュルと耳障りな音が聞こえたかと思うと、いつの間にか課長の話が先へ進んでいた。

「聞いてるのかお前!」

「はっ…申し訳ございません」

 何気なく窓の外に目がいくと、窓ガラスの直ぐ横に例の帯電した黒い箱が現れていた。

「まったく、お前みたいなくっ…ろよ!」

「ああ、なるほど」

 どうやら箱の出現に合わせて会話がコマ送りになっているようだ。見た目は変わらなくても、彼らも外にいる黒塗りの操り人形と一緒だった。

「あははは」

 いつも怒鳴り散らす上司も、ストレスの捌け口に虐めを繰り返す先輩も、見て見ぬ振りをするその他の社員達も、自分以外はみんな操り人形なんだとわかって橋岡は思わず笑ってしまった。

 こいつらは、世界の崩壊も自分が操られていることも知らずにただ仕事をすることしかできない。そう思うと心が急に軽くなり、抑えきれない感情が溢れ出る。

 突然笑い出したので、その場にいた全員が一斉に橋岡を見た。

 会社で声を出して笑ったのなんて、何年振りだろう。

「お前、こんな時に何…ねえのか!」

 キュルキュルッ。

「何言ってるのかわからねえよ」

 あれだけ怖かった課長が、酷く小さな生き物に感じられた。

「ん?」

 怒鳴っている課長にばかり気を取られていたが、いつの間にか他の社員達が橋岡を取り囲むように立っていた。

「お前らまで何だよ」

 社員たちは橋岡の呼びかけには答えない。

「大体なあ、大そ…んだよ」

 キュルキュルキュルッ。

 ザッザッ。

 社員達はコマ送りになる度に橋岡に近づいてくる。

「…ったか?おい。おい!聞いてんのかっ!?」

 キュル…。

 ザザザザザザザ。

 課長は顔を真っ赤にして大口開けて叫んでいるが、肝心な部分は上手く聞き取れない。

 気がついた時にはもう社員達は橋岡の直ぐ横にいた。社員たちは全員が橋岡よりも数段大きい事に気づく。

「こんなに大きかったか?」

 見上げるといつの間にか彼らの顔も黒塗りになっている。

 ギュルンッ!

「ううき!?てぐぬむせすちりけぶぬせれきりに!」

 ああ、テープが焼き切れた。

 課長の言葉は俄かに意味を失い、橋岡の頭上には腰をかがめて覆い被さるように覗き込む社員たちのトンネルが出来上がる。

「おかえりいぃぃぃぃぃ」

「かえりなぁぁぁぁぁぁ」

「かえせええええええええ」

 顔にぽっかりと空いた穴のような闇から一斉に口が現れ、橋岡に向かって同時に叫び出す。

 あまりの音量と飛び散る唾液に橋岡が顔を顰めると、今度は課長が叫びながら橋岡に掴みかかってきた。

「ふをざわされ!ふをざわされ!!」

 怒りが頂点に達し顎が外れんばかりに怒鳴り散らしている課長は、遂には怒りの臨界点を超え、顔全体が一つの口になってしまった。

 思い切り開かれたその口は地面まで届くほどで、橋岡は前後左右から責め立てられる。

「かえろおぉぉぉぉぉぉぉ」

 目と耳を塞ぎながら何とか薄目を開けると、目の前にあったのは課長のトンネルだった。

 社員達の圧力から逃れるため、橋岡は縋る思いで目の前の闇に勢いよく飛び込んだ。


 暗闇の中で、男が2人向い合って立っていた。

 彼等の持つ蝋燭が、周囲の闇をぼんやりと照らしている。

 一方は現世からの逃避を願い、もう一方は過去への回帰を願った。

「あなたは…」

「君は…」

 2人は目の前の男を見て直感的にこう思った。

「#俺__私__#?」

 ここは、不条理な世界。

 時間と空間はこの場所で幾重にも交差する。

 耳を澄ますと風の音に紛れて声が聞こえて来る。

 「かえれぇぇぇぇぇぇ」

「#どちらへ?__何処へ?__#」

 2人は同時に喋り出す。口調は違えど、話し出すタイミングも喋る間も全く一緒だった。

「#向こうへ__向こうへ__#」

 2人の指し示す方はやはり同じだった。

「同じですね」

「同じだね」

 男たちは顔を見合わせて頷きあう。2人のすぐ横を下半身だけの男が通り過ぎて行った。

「なぜだか安心するんですよね」

「わかるなぁ。暖かいよね」

「かえろおぉぉぉぉぉ」

「じゃあ、一緒に行きませんか?」

「うん、丁度私もそう思っていたよ。行こうか」

 2人はまるで旧友との再会を懐かしむように世間話をしながらゆったりと歩き出した。

「あああああああああ」

 猛スピードで四足歩行の何かが2人を追い抜いていく。

「あそこには何があるんですかね」

「何だろうなあ」

「あの…」

 若い男が少し言い淀む。

 沈黙の静寂の中で、遠くで階段から落ちてきた男が湖に着水する音が聞こえる。姿は見えていなくても、2人の目にはその映像がありありと浮かんで見えた。

「ん、どうしたの?」

 年配の男が優しく尋ねる。初めて会ったはずのに、彼らには親子のような関係性が出来上がっていた。

「その、今までの人生、振り返ってどうでした?」

 今度は年配の男が少し口籠もる。

「あー、私には過去の記憶がないからなあ」

「あ、それは失礼しました」

「いや、いや、いいんだよ。多分、ろくでもないものだったんだと思う。だから、子どもの時のような純粋な自分に戻りたくて、こんな所に来たんだと思うんだ」

 いつの間にか彼らの周りを取り囲むように、沢山の子どもたちが思い思いに遊んでいた。

「おい、俺今タッチしたぞ!」

「よっしゃータクマが鬼な!」

「どのタクマだよー」

「おにさんこちら、手のなる方へ!」

「かーごめかごめ。かーごのなーかのとーりいはあ」

「ちょっとじゃまだよおじさん達!」

「うおっと、ごめんごめん」

 男達は苦笑いしながら子どもたちに場所を譲る。

「羨ましいですね」

「ああ、本当にね」

 ー拓真。

「思い出しますね、なんだか」

「ああ、不思議とね」

 2人はいつの間にか涙を流していた。

 繰り返される生の中で、唯一変わらないものがあった。

 ーおいで、拓真。

 それはかつての記憶。

「優しい声でした」

「よく頭を撫でてくれたんだよなあ」

 顔はもう思い出せなくとも、その存在は彼等の細胞の奥底にまで刻み込まれている。

「また、会えますかね」

「会えるさ。おっと、そろそろだね」

 トンネルの出口は光で満ち溢れていた。もう、手に持った蝋燭も、後ろを振り返る必要もない。

「次は最高の…いや、せめて普通の人生を送りたいです」

「はは。橋岡の業は深いぞー」

「やってやりますよ!」

 若い男はそう意気込むと勢いよく光の中に飛び込んでいった。

「お、言ったなー。そこまで言われたらおじさんも頑張らないと…」

 後を追うようにもう1人の男も光に足を踏み入れる。

 その途端に彼らの存在が揺らいで薄くなっていく。

 羞恥心、虚栄心、自己中心的で厭世的な思考。

 無駄なものが削ぎ落とされ、彼らは無垢な球体に形を変えていく。

 やがて何もかも光に包まれて見えなくなった。

 2人を飲み込んだ光は輝きを増し、トンネルを端から飲み込んでいった。

 光の中では全てが曖昧に溶けていき、トンネルがあったことすら忘れ去られる。


 夜ないしは朝。「それ」は起きがけにまた眠る。

 ぷかぷかと海に川に湖に池に或いはその何れにも浮いている。

「厳格な」「四足歩行」「年下」「トンネル」「権利」「子ども」「ぐるぐる」「かごめかごめ」「人間の尊厳」「羞恥心」「空気」「厭世的」「病気」「自由意志」「死」「ミス」「器」「心象世界」「デバッグ」「大卒」「コマ送り」「おかえり」「おい」「箱」「虚栄心」「叫び」

 記憶の断片から無作為に言葉が抽出されては端から溢れ落ちていく。

「雪…降…う…わ」

 くぐもった音の振動で海は時化て川が氾濫し、ダムが決壊する。

 潮が引いた後に大地が再び干涸びるように、「それ」に届く頃に音の意味はすっかり失われてしまう。

 水の中は暗闇に包まれていて、飲んでは吐き出しているのは過去の記憶か来世の夢か。

 やがて警報システムが鳴り響き、俄かに世界が色めき立つ。

 寄せては返す波のように昇っては落ちて、進んでは戻ってを繰り返しながら少しずつ世界は剥がれ落ちていく。

 永遠に思える程の崩壊の先に、突如目の前に光が差し込んだ。

「                    」

 そこに言語は存在しない。ただ剥き出しの感情があるだけだ。

「ぎゃああああああああああ」

 その慟哭は繰り返される生への終わりなき苦痛によるものか、はたまた消えていった過去の己に向けたものなのか。

 掴み取ろうと懸命にもがく目の前に、誰かが居た。

 慈愛に満ちた表情で誰かは「それ」を抱き寄せる。

 それは、懐かしい感覚。

 或いは存在する喜び。

 それは、憂わしい想念。

 或いは世界への諦観。

「お還りなさい、拓真」

 かつて通り過ぎた道を戻り、幾つもの時代を交差し、「私」は再び「私」として目覚める。

 ああ、その顔はこんなにも…。

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