アンロック・ゲフュール
Ryng
プロローグ
ようこそ世界一賑やかな壮美の幽谷へ(1)
突然だが私は只々、困惑している。
今にも毒の雨が降り注ぎそうな禍々しい紫色の空。
岩肌の上にぽつぽつと並ぶ生気を抜かれ文字通り全身が真っ白に燃え尽きた枯れ木。
私のいた世界では天地がひっくり返ろうとも起こり得ない背景に囲まれているのも驚く要因の一つだが、もっと根本的でしかも命の危機にも繋がる出来事が目の前にある。
それはファンタジーでしか存在しないであろう全身が影の様に黒い怪物に襲われている事。
唯一、色彩を確認出来るぼんやりと明るい檸檬色の丸い目で獲物としての価値を見定め、現実世界で例えるなら万年筆の筆先に似た鉤爪を宿す手で私では確認出来ない口を拭う。
明らかに獲物としての価値を見定めている行為であるそれが告げる事実はただ一つ。
完全な弱者の立場にいる私を食べようとしているのである。
「はは・・・・・・ 不運過ぎて笑えるな」
そもそもなんでこんな事になったんだっけ?
俗に言う走馬灯の様に写し流れる私の
不運
運に恵まれないその様を表す言葉。
私、ごく普通の十六歳女子高生
赤ちゃんの頃は数秒、呼吸が無かったそうだし子供の頃はワックスが磨かれた床で滑り階段から落ちそうになった事もあったそうだ。(手を引いてくれたお姉ちゃんがいなければどうなっていたやら)
成長してからも小さな不運は毎日の様に発生するし不運のせいで命に関わる分岐点に立たされた事もあった。
その程度の逆境がなんだ。その程度で不貞腐ってたまるかと私は不運を払い除けるつもりでずっと努力を続けて来た。
頻繁にシャー芯が折れたり買ったばかりのマーカーのインクがすぐに薄かったりもしたが、定期試験では学年全体で最高十位以内に入った経験があるし第一志望校に難無く一発合格する程には勉強は頑張ったし、五つ上のお姉ちゃんの影響で始めたフィギュアスケートは毎日、練習に通い全国区でトップスリーに入賞した事もある。
まぁ、その反動で引退レベルの大きな怪我をしたから生き甲斐も情熱も何もかも失ったわけだけど
中学卒業後の一月をリハビリに費やし鳥の片翼をもがれた様にスケートへの挑戦権を失い高校に入学した私だが、アスリートの端くれとして体作りだけは怠りたく無かったから賄いで肉が食べられる家から近いチェーン店のステーキハウス「オーガスト」でバイトする事にし学業と両立した順風な新生活を送っていた。
それでも不運は私の幸せを奪い足りないのか幸せになっては駄目だと嘲笑う様に私が作り、掴んだ居場所を掠め取っていく。
『明日を以て、この店舗は閉店する事になりました』
高校二年目のゴールデンウィーク間近、非番の人達を含む全ての店員に告げられた突然の宣告。
盆休み、正月も働き第二の我が家とも呼べる程に過ごして来た場所が、無くなる。失う。
信じるにも受け入れるにも長い時間が必要だった。
数ヶ月前、SNSで投稿された数秒程度の動画。
その短い中で記録された不謹慎、人気を獲得するしか考えていない浅ましい行動、食材の尊厳をも踏み躙った至極下らない動画は瞬く間にネットを炎上させ多くのネット民によって素性を暴かれていった。
解雇された男達の末路など知りもしないし知りたいとも思わないけど、最悪なのは動画がこの店舗で撮影された事実が判明し真面目に働いていた私達にも影響を及ぼした事だ。
本社からの再教育を受けるならまだしも男の一人は批判した相手を煽っていたのでネット民の怒りは収まらず、納得いく処分として本社が提示したのがこの店舗の閉店であった。
『こんな事態になったのは彼らの教育を怠った私の責任です。本当に申し訳ございません』
・・・・・・なんで店長が謝ってるんだよ。悪いのは面白半分でふざけた動画を投稿したあいつらだろ。
責任を取らなきゃいけない立場だからって頭の中では分かっていても、それでも本心までは納得いかなかった。
普段は明るい店長から聞きたくなかった滅入った声と深々と頭を下げ続ける姿は私の心を強く締め付け、憂鬱な気分で満たした。
最後の仕事となった閉店作業から帰路の出来事は殆ど覚えていない。うわの空状態から現実に引き戻したのは短く鳴った会話アプリの通知音だった。
『翠、困ってる事無い?』
『働く場所無かったらうちで預かるから相談してって店長が言ってたから』
赤信号が切り替わるまでの短い時間の間、学校の親友から連続して送られた助け舟のメッセージをざっと見通すと友人関係にまで不運が及ばなくて本当に良かったと心の底から思う。
やっぱり持つべきものは友なんだな。
『ありがと』
『バイトアプリで色々比較してから考えるわ』
最低でも一つの働き口が保証された事に安堵し一言、礼を打ち込むと同時に模造のカッコウの鳴き声が対面から聞こえて来た。
とりあえず今日はいつもより多めにご飯を食べてゆっくりお風呂に浸かってたっぷり寝よう。
これくらいの不運で落ち込んでいたらこれから先、不運に付き纏われた人生なんてやっていけるかってんだ。
明日以降の事は明日に考えれば良いんだ。
失意から抜け出す様にスマホをしまってから顔を上げて青信号に変わった横断歩道に踏み込んだその直後
「へっ?」
エレキギターが響くヘビメタを爆音で流した派手な青色の車が赤信号を無視して猛スピードで突っ込んで来たのだ。
軽く吹き飛ばされ宙を舞う間、ゆっくり流れる時の中で私の直感が発揮した。
あ、これあれだ。地面に叩きつけられてそのまま死ぬ奴だ。
嫌な予感は的中し道路に倒れた私は頭から流れ出た血の海の上で素っ頓狂な
安否を呼びかける周りの人の声が囁き声に変わり、全身の熱が手足の先から徐々に冷たく蒸発していく。
あぁ、まだ死にたくは無かったな。
注目のフィギュア選手がオリンピックに出場するところも見たかったのに。
お姉ちゃんみたいに大学行って、充実したキャンパスライフを送るついでに彼氏とかも作りたかったのに。
もう、終わるんだ。
もう、想像すらも出来ないんだ。
不運に愛された私じゃ、幸せになる事も許されないのか。
もう叶う事の無い願望への後悔を抱えていても意識はどんどん薄れていく。そして視界が真っ白になると
さっきまで映っていた地面は灰色の交差点から乾いた砂漠へ一変した。
何を言ってるのかみんなも分からないと思うけど言ってる私ですら全く理解していない。
でもこのままその場に立ち尽くしていても変化は起きないし飢えて死ぬかもしれない(既に死んだけど)
何故か車にぶつかったはずの肉体は痛くも何ともなく、血塗れだったはずの薄ピンクのパーカーと黒の短パン、学校でも履いてるスニーカーを合わせたスポーティーな私服も何故か新品同様に戻っていたので現在地を確認しようと散策していたら怪物に襲われて今に至る、という訳だ。
運動経験はあっても正体不明の怪物に立ち向かえる格闘術は持ち合わせてないし何より見知らぬ場所に飛ばされて動揺していたから体が恐怖に縛られて動けない。
目の前のこいつにとっては俊敏に逃げ回る草食動物よりも捕まえやすい絶好の獲物だろう。
「はは・・・・・・ 不運過ぎて笑えるな」
こういう状況、確かライトノベルでよく見られる序盤だと思うからその手に詳しい人達ならそういう展開から推察して危機を脱するんだろうけど、悲しいかな、この手の小説は全く読んだ事無いんだよな。
読書はスポーツやファッション系の雑誌と恋愛小説しか見てなかったから。
きっとヒーロー物の如く絶体絶命の際には強い誰かが颯爽と助けてくれるんだろうけどここは御伽噺の世界ではなく現実。自分自身に守る術が無ければ無常に喰われるだけなんだ。
棒の様に硬くなった足を引き摺り手頃な石を見つけて爪先を振りかざす怪物に投げてもこそばゆく掻くだけで効果は全く無い。
無意味で泥臭い抵抗かもしれないが何もしないよりはマシだ。
不運に苛まれているからって何の努力もせずに言い訳だけして失敗した結果を受け入れるのは嫌いだしそんな自分自身を許す訳にはいかない。
どう足掻いても食われると言うなら怪物にも相応の苦労を負わせてやるんだから。
「おらどうした!? そんな小石程度で怯んでるようじゃ私は食えないぞ!!」
見栄っ張りな挑発で自分を奮い立たせようと試みるも恐怖は未だに
更に冷静に周囲を見ていなかった罰として地面に転がる何かに躓いた足はバランスを失い、体を転倒させた。
腹を空かせてるであろう怪物は私の完全再起を待ってくれる事は無く、ぶつけられた小石に見向きもせずに私のすぐ側まで迫って来た。
汚れを気にせずざらざらの砂の中に無造作に手を突っ込むも投擲に使えそうな石ころは見つからない。つまり私に反撃する手段は無くなった事を意味する。
悔しがる私と違いようやく獲物にありつける喜びを喉で表現した怪物は鋭い爪先を高く掲げ、振り下ろそうとした直後、何かに弾かれた大きな手は私に振り下ろされること無く後ろに仰け反った。
一体何が起きたのか確認しようと二発の銃声が放たれた背後を振り返ると一人の青年が二丁の銃を構えて溜め息を零していた。
「遊びが過ぎるぞ。エッセンゼーレ」
プロローグ ようこそ。世界一賑やかな壮美の幽谷へ(1) (終)
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