第62話 ブラックサーズデイ(1)

1929年9月初頭


 NYダウは当時の最高値を記録する。アメリカは繁栄を謳歌しており、株価も景気も永遠に上昇して行くと、皆が信じていた。



「リチャード・インベストメントから、また売り注文だ。先月からリチャードは売り越してるな」


 ある証券会社のディーラールームで、社員達が会話する。


「細かく買いも入れてるが、8月からは明らかに売りが多い。そうとう警戒してるようだな」


 当時は、ごく一部に株式市場の過熱を警戒する意見もあったが、過去10年間上がり続けていた株が突然下落に転じるなど、ほとんどの人は予測できなかった。


 リチャード・インベストメントが売りを入れると、それにつられて売り注文が入るため一時的に株価が下がる。しかし、市場はそれを“買い時”と判断し“押し目買い”を入れるため、すぐに株価が戻るということを繰り返していた。


 リチャード・インベストメントからの売りは徐々に増えていく。そして、NYダウもまるでリチャードの売りと連動しているかのように徐々に下げていった。


1929年9月下旬


 イギリスが公定歩合の引き上げを実施する。


 これにより、アメリカからイギリスへの資本の移動が発生し、株価の下落に拍車がかかる。


1929年10月前半


 最高値を記録した9月初旬から一ヶ月ちょっとで、株価は17%下落していた。だれもが漠然とした不安を抱き始める。しかし、少しでも儲けたい、損失を減らしたい多くの投資家は損切りができず、リバウンドを信じてじっと耐えていた。


「リチャード・インベストメントから大量買い注文だ!ほとんどの銘柄に買いが入ってるぞ!」


 ウォール街は一気に活況を取り戻した。リチャード・インベストメントが全面買いを入れたと言うことは、まだまだ株は上昇するのだ。耐えていた我々が正しかった。皆がそう考え安堵した。


 NYダウは、一週間で9月3日からの下げ幅の半分を取り戻した。しかも、急激な上昇。この急上昇で、売りを仕込んでいたいくらかの投資家が破産した。


 市場が一応の安堵を取り戻したころ、ついに運命の日がやってくる。


1929年10月24日(木)


「リチャード・インベストメントから大量の売り注文だと?どういうことだ?現物のほとんどと、それに空売りだと?」


※「空売り」とは、実際には持っていない株を売ったことにして、後に買い戻したことにする取引のこと。株価の下降局面で利益を出すことが出来る。しかし、実際の経済状態以上に、株価を押し下げてしまうことがあるので、各国は規制をかけることがある。実際に、アメリカはこの大暴落の後に、「空売り」に関する規制を実施した。


 朝の取引開始から、リチャードは大量の売り注文を出した。売り注文によって株価は下落するが、買い時と判断した投資家達が買う。出来高はふくれあがっていたが、価格だけを見れば、表面的には均衡を保った取引のように思えた。


 しかし、10時25分、ついに買い注文に陰りが見える。


 大手では、ゼネラルモーターズの株価が大幅な下落を見せる。それにつられるように、次々に下落をはじめ、11時頃には売り一色となった。


「やばい、やばいぞ!ポジションを整理だ!全部売れ!」


 ウォール街は阿鼻叫喚のるつぼと化す。


 そして、十二賢者が動き出す。


「まずいな。ここまで売り一色になるとは」


 この日の大暴落は、人類が初めて経験する、資本主義の進化によってもたらされたカタストロフィだ。だれも、それに対応できるものなど居ない。


「ブルーチップ(優良株)を買い支えするぞ。身銭を切るのは口惜しいが、仕方あるまい。ロックフェラーとロスチャイルドにも協力させろ。今は内輪もめをしているときではない」


 そして昼過ぎに、USスチールをはじめ、いくつかの優良株が値上がりを見せる。それを見て、市場は少しの安堵を得た。


「そうだよな。そうするしか無いよなぁ、十二賢者達よ。身銭を切って悔しいだろう。しかし、これからが本当の勝負だ!」


 ウォール街にある雑居ビルの一室で、池田はほくそ笑む。証券取引所に忍ばせたエージェントから、主要銘柄のリアルタイム情報が届いている。


「USスチール株とゼネラルモーターズ株に売り注文だ!限界まで行け!怯むな!」


 そして池田は、少しでもリバウンドを見せた優良株に対し、集中的に売りを浴びせる。ここで引くわけにはいかない。十二賢者と池田の、まさに経済的な生死をかけた戦いが行われていた。


10月25日(金)


 朝から細かい値動きを繰り返しているが、誰もが一見落ち着きを見せたと思った。昨日のような暴落は起きていない。そして、この日は2ドル上昇して取引を終了した。


10月26日(土)


 この日の取引も、均衡を保ち、細かい値動きをしながら2ドル下げて終わった。


 市場は安定を取り戻したかに見えたが、水面下ではすさまじい攻防が繰り広げられていた。


 株価こそそれほど変化は無かったが、出来高はすさまじい値に達していた。全面的に売るリチャード・インベストメントと、全面的に買う十二賢者。ほんの1セントの値動きで、すさまじい損失か利益が発生する。お互い、どちらかが倒れるまで引くことは出来ない。もはや、後戻りは出来ないのだ。


 当時のフーヴァー大統領は「わが国の基本的事業、すなわち商品の生産と分配は、健全かつ繁栄した基礎の上にある」と発表し、投資家に慌てないように促した。また、アナリスト達は、「24日の暴落は落ち着きを見せた。企業活動に悪い影響を与えることはないだろう」と分析し、新聞もそのコラムを載せた。


 製造業界からも、懸念を払拭する声明が出される。


 USスチールのファレル社長は悲観論を批判して「稼働率、価格、在庫など、全ての面で鉄鋼業が健全であることは、疑いようが無い」と発表し、事態の沈静化を図った。


 ブラックサーズデイの事が全米の新聞に掲載されたのは、27日(日)の事だった。この当時ラジオはあったが、情報のほとんどは新聞によってもたらされていた。どうしても情報に時間差が発生してしまうのだ。


 そして、この時間差がさらなる悲劇を生む。

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