第1話 君を手に入れるためなら、俺は卑怯になる


 ……ぐすっ……ぐすっ……。


 もう、夜の10時だ。

 

 ――くそ、まだ泣いてやがる。


 俺の住むマンションは、注意深く聞き耳を立てなくても話し声が聞こえてくるほど、部屋を隔てる壁が薄い。

 俺が家に帰ってからずっとこの泣き声が聞こえてくるから、フツフツと怒りが湧き上がってくるんだ。


 ――単純に、隣人に苛立っているわけではない。


 俺の苛立ちの矛先は、いろいろな人間に対して向いている。

 そこには、もその一人に含まれている。

 ――イラつくんだ。

 俺の隣人であり同僚――星海若菜ほしうみわかなの心の支えになり得ない、俺自身に。

 

 若菜とは、入社してからずっと仲がいい腐れ縁のような関係だ。


 喧嘩するほど仲がいいってことわざはそのとおりだとよく思う。俺たちは、よく喧嘩もするし、その度に仲は深まっていって……今では気の置けない親友だと、はずだ。


 ちなみに、このマンションの隣の部屋に住んだのは偶然だ。決して俺が真似したわけではない。


 たまたま、一緒のマンションで

 たまたま、隣の部屋だった。


 それが俺たちの距離を更に縮めるきっかけになったんだ。


「はぁ……」


 俺はため息を一つついて、窓を開けベランダに出る。

 むわぁっとした夏の熱気に包まれながら、眼下に広がる街の明かりを見下ろしてまた深いため息をつく。


 車のテールランプ。

 コンビニの明かり、街灯……。

 足早に行き交う人々。

 寄り添う恋人。

 

 どんなに隣の部屋で若菜が泣いていようと、変わらない日常。それは明日も同じだろう。

 


 ――コンコン。


 隣のベランダの行き来を隔てる薄いパーテーションをノックし、様子を伺う。


「ぐすっ……、ぐすっ……。雅貴まさたか……?」


 話をする元気はあるようだ。


「若菜、泣いてるんだろ? 話聞いてやるよ。ベランダ、出てこないか?」


「…………。……でも、楽しい話じゃ……」


 少し間を置いて、若菜が言う。

 だから俺も少し間を置いて、言い聞かせるように返事をする。


「……俺たち、楽しい話だけする間柄じゃないだろ。……いいから、出てこいよ。話せばスッキリするかもしれないし」


「ありがとう……今、行く……」


 少し時間を置いて、ガラリ、と窓が開いた。

 若菜は、ベランダの柵に身体を預けたようだった。パーテーション越しに見える、若菜の腕と泣き腫らした横顔。……そして、会社の制服……。


「若菜、まだ着替えてなかったのか?」

「う、うん……。そうなの……。なんだか着替える気力もなくって……」


 俺たちは互いに、それぞれのベランダに用意してある屋外用の椅子に腰掛けた。

 缶ビール片手に『ベランダ呑み』なんていうこともする俺らにとっては、ベランダに腰掛けることは特別ではない。


 ……ただ今日は、いつもと状況が違うだけだ。


「……で、どうしたんだ? もしかして、吉野よしの先輩のことか?」


 ――吉野。

 俺にとっては、名前すら出したくない俺たちの先輩。俺より営業成績も良く、スラリと伸びた背に整った顔立ちは営業職に限らず女子社員の憧れの的だ。

 ……もちろん、事務職の若菜もその一人。


「……うん、吉野先輩に、告白……しようと思っていたの。近いうちにね」

「うん、知ってる。言ってたもんな」


 もちろん、知ってる。

 だって俺はそのせいでこのところ気が気ではなかったんだから。


「それで……?」


 俺は、複雑な気持ちで質問する。

 フラれたから泣いているっていうのは、俺の都合のいい勘違いで、嬉し涙かもしれないから。


「……フラれる前に、玉砕、しちゃった……。給湯室で、吉野先輩と同期の営業職の綺麗な女性と、デートの話してるところ、聞こえちゃったの」


「そっか……。でもそれって、吉野先輩が誘われた側であって、付き合ってるわけじゃないのかもしれないだろ?」


 言っていて虚しくなるが、若菜のためなら、的確な助言もやぶさかではない。

 ……本当、自分が嫌になる。


「……ううん。違うの。吉野先輩から誘ってたの、デートに。いつも堂々と営業活動してる先輩が、あんなふうに緊張して誘う姿……一目見てわかっちゃった。


 ……あ、この女の先輩のこと、好きなんだなぁって」


「……そうか」


 俺は、心の中でため息をつく。

 若菜には悪いと思うが、安堵のため息だ。

 俺としては、吉野先輩と付き合うことになった嬉し涙ではなくて、心底、ほっとしてるんだ。


「……ずるくて、ごめん」


 俺は、若菜に言う。


「……え? 何が?」


「俺が優しくていい男だったら……、『いい男』として、若菜の話をさ、ただ聞いてやって、慰めてやるんだろうなって思って」

「……? 雅貴は、優しく話聞いてくれてるよ?」


 ……やっぱり、遠回しに言ったんじゃ、伝わらないか。俺は大きく深呼吸して、決意を固める。



「……俺に、しとけよ……」


「……………………え? それって、どういう……」


「……だから、吉野先輩じゃなくて、俺にしとけよ」


「えぇ⁉︎ ど、どうしてそんな、急に……。からかって……るわけじゃないよね。雅貴、そんな人じゃないもん」


 俺は、若菜の言葉に思わずクスリと笑う。


 ――まったく、俺の気持ちにはちっとも気づかないくらい鈍いくせに、そういうところは、鋭いんだもんな。


「……今、若菜、落ち込んでるだろ。だから、俺にしとけよ。いくらでも慰めてやる。俺だったら若菜のこと、幸せにする。……お試しでもいい。


 付き合って、みないか?」


「そ、そんな……。雅貴のこと、利用するみたいなこと……」


 言うと思った。

 優しいヤツだから。


「……お試しでもいいから、俺にもチャンスくれないか? 合わないと思ったらフッてくれていい」

「……………………」


 若菜は、答えない。

 俺は、卑怯なヤツだから、若菜の優しさと、押しの弱さにこれでもかとつけこむんだ。


「いいだろ、若菜、それだったら。

 若菜は、気分転換だと思ってくれればいい。

 罪悪感だって抱かなくていい。

 職場のヤツらにも、内緒でいい。

 ……だから、俺のこと嫌いじゃなければ、お試しで。いいだろ?」


「……本当に、雅貴はそれで、いいの……?」


「……もちろん。利用されたっていいんだ」

「……うん……、でも……」

「いいんだ。若菜が俺が嫌いでなければ、俺が好きで言ってるんだから、そうしてくれ」

「うん……。わかった。……よろしくね、雅貴」

「ただ、一つだけ言っておく」

「何?」


 俺は、もったいぶって言う。




「若菜……、絶対俺のこと……好きにさせてみせるから……!」



「……! 雅貴って、そんなに……積極的なタイプだったの?」

「好きな子にはな」

「〜〜‼︎」


 俺は若菜の姿が想像できてしまって、クスリと笑う。絶対、赤面してるだろ。両手で顔、隠してるだろ。


 ……若菜……。

 つけ込むような卑怯なことして、ゴメン。

 でも……俺もずっと、ずっとずっと、好きだったんだ。誰よりも、君のことが。




 だから、卑怯になったって、たまにはいいだろ?

 俺は君を――手に入れたいんだ。


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