第20話 敵がいなかったのは

「駄目だ」

 僕は唐突に立ち止まる。

 頭の中は混乱しているものの、これだけははっきり解る。


 逃げたら終わる。


 向き合わなきゃ駄目だ。


 僕はそこで地面に視線を落とし、唇を噛んで呼吸を整えた。すると少しだけ頭の中がはっきりして、僕がどうしてこんなにも気持ちを持て余しているのか気づくことができる。


 僕は誰かを好きになることが怖いのだ。

 母から聞いたように、僕が殿下を好きになって魔物になるという未来があると聞いてからずっと、黒い不安が胸の中に渦巻いている。だから母以外の人間を必要以上に好きになってはいけないと思っていた。いや、思おうとしていたんだ。


 でも今は違うだろう?

 僕は努力してきた。魔物にならない道を進もうとしてきた。

 だから、少しだけ激情のまま動いたとしても大丈夫じゃないのか? 闇の欠片に呑み込まれることもなく、自分のままでいられるのでは――。


 僕はそこでもう一度踵を返し、ガブリエルとエリカがいるところに一直線に向かっていった。こういうのは勢いが重要だ。後で恥ずかしさで死にそうになったとしても、本当の意味で悔やむことにはならないと……思う。思うのだ!


「ガブリエル!」

 僕は彼らのすぐ横に立って、思い切り声をかけた。すると、困り切った表情のガブリエルがくるりと僕に顔を向け、まるで救世主でもきたかのように両腕を開いて見せた。

「エヴァン! こいつ、おかしいぞ!?」

「ああっ! 悪役令嬢さんじゃないですかあぁぁぁ!」

 エリカも凄い勢いで僕に顔を向け、目尻を吊り上げて睨みつけてくる。まあ、全く迫力はないが。

「大体、おかしいんじゃないですか!? 何であたしに戦いを挑んでこないの!? 大体、ガブちゃんだって何で満月堂でアイテム買ってんの!? アイテムだけじゃなくて魔道具の職人さんを引き抜いたんでしょ!? あたし、欲しいアイテムがあるのよぉぉ!」

 ふわふわの薄紅色の髪の毛をぶんぶんと振りながら、小動物みたいな動きで怒りを示しているようだ。まあ、全く怖くもないが。


 というか。


「……逢引きなのかと思った」

「何が!?」

「はあ!?」

 僕がぼんやりと呟いた声は、意外と二人にはっきり伝わったようで、素っ頓狂な叫びが辺りに響くことになった。しかしすぐに二人はまた言い合いを始めてしまう。

「っていうかガブちゃんって何だよ!? 俺とお前、面識ないよな!?」

「あるわよ!」

「どこで!?」

「前世で!」

「駄目だこいつすげえ怖い」

 ガブリエルがエリカと叫び合った後、僕の背後に回りこんできた。でかい図体をしているわりにこういうところは可愛い。可愛い? あれ、僕は何を考えている?


「エヴァンに話を聞いてたとしても、すげえ怖いぜこいつ」

 僕の背後から彼の囁く声がかかる。それが振り向かなくても解るくらい、凄い近い位置からの声で。

 別の意味で僕は慌ててしまった。

 思わず僕は自分の顔を両手で覆い、また呼吸を整えようとしていると。


「いいわ! だったらこっちから決闘を申し込むまでよ!」

 そう、ヒロインが叫んで辺りにざわめきが走る。

 僕が顔をそっと上げると、そこには胸を張って立つ彼女が決死の覚悟を決めたように僕を睨みつけていた。

 そしてこっそりと辺りを見回すと、いつの間にか中庭には野次馬が集まってきていたようで、僕ら三人のやりとりを興味津々で見つめている瞳の多いことに気づかされる。

「ちょっとベスベス、この世界の決闘の申し込みってどうやるの!? 手袋とか軍手とか投げればいいの!? よく解んないけど何でもいいから持ってきてー!」

 エリカが何もない空間に向かってそう叫んでいる姿は、さすがの僕も『怖い』と思ってしまった。だから、つい背後にいたガブリエルに向き直り、その手を掴んでしまった。

「え」

 ガブリエルが一瞬、困惑したように僕を見下ろした後、すぐにハッとしたように目を見開いて頷いた。「解った、俺がこの変な女からお前を守ってやるから!」


 ――う、うん?


 そしていつの間にかガブリエルが僕の手を握り直していて、それに気づいた僕の頬が急激に熱を持った。


 その時。


「エヴェリーナ」

 地を這うような低い声が響く。そちらに目をやれば、この騒ぎに気付いたのかアルフレート殿下が中庭に姿を見せていた。彼は先ほどとは違って一人きりで、ミハルの姿は近くにはなかったし護衛もいない。

 そして殿下の血の気が失せた顔はまるで人形のようで、どこか不気味でもあった。何の感情も映っていない双眸が僕を見つめ、その唇が笑みらしき形を作る。

「君はどうして。私が君の婚約者であるのに、君は」

 そこで、僕はハッとしてガブリエルの手を振り払った。

 確かに今はまだ僕は殿下の婚約者で――。


「私が姫を守る立場であるはずだったのに」

 殿下がそう昏い笑みを浮かべた瞬間だった。


「え?」

「嘘ぉ」

 僕とヒロインの声が重なった。

 目の前にいたアルフレート殿下の方へミハルが駆け寄ってくるのを視界の隅に捉えながら、僕は咄嗟に後ずさっていた。

 殿下の足元に渦巻き始めた黒い影。それには厭と言うほど見覚えがある。一瞬遅れて僕は手首につけた魔道具から魔剣を取り出したが、その時点で手遅れだったとも言えた。何故なら、もうその黒い影は殿下を足元から身体全体を這い上がり、あっという間に彼の体内に潜り込んでしまったからだ。

 その途端、彼の体内に巡っている魔力の流れが乱れたのが解った。

 殿下の魔力は膨大だ。きっと、僕だけじゃなくて他の生徒たちも解っているだろう。だから、この変化は劇的なまでに伝わった。


 空気が震える。

 だが、地面が揺れたように感じたのは錯覚だろう。

 近くにいた生徒たちが怯えたようにその場から逃げ始めたものの、状況を呑み込めない生徒たちが立ち尽くしている。

 でも、そんな僕らの目の前で殿下の『輪郭』がぼやけた。


「これは……?」

 ミハルが茫然と『殿下』を見つめたまま震える声を漏らした。

 僕は魔剣を握り直しながら、声を張り上げる。

「動けるものは逃げろ!」

「何だこりゃ……何が起きてる?」

 ガブリエルは茫然とした様子で髪の毛を右手で掻き上げていたが、すぐにその顔をミハルに向けて叫ぶ。「おい! 誰か先生を呼んでこい!」

「え? ああ、はい」

 ミハルはそこで我に返ったように表情を引き締め、すぐに校舎へ向かって走り出した。でもおそらく、彼より先に先生を呼びに行った生徒もいただろう。それほどまでにこの状況は異様だった。


「ど、どうしてえええ?」

 そう言いながら、エリカが泣きそうな表情で膝を地面についている。そしてすぐに、僅かに身体を硬直させた後に続けた。

「そういえば女神アイ様が言ってた! アル様に気を付けろって! すっかり忘れてたけど!」

「……何?」

 僕が眉根を寄せて彼女を見やると、エリカは何もない宙を見上げながら泣き言を漏らすのだ。

「だってしょーがないじゃない! こんな状況、誰が予想できるっての!? これってあれでしょ、ラストで悪役令嬢が魔物化するイベント! どーしてアル様がそうなっちゃったのよぅ! 勝てるわけないじゃん、あたしのレベルを知ってるでしょー!?」

「ちょっと待て。勝てないってどういうことだ」

 僕はエリカの傍に膝をついて、その細い肩に左手を置いた。エリカはびくりとして僕を見つめたが、素直に応えてくれる。

「あたしはまだ弱いの。ラスボスどころか中ボスにも勝てないくらいのレベルなの。本当なら、悪役令嬢……エヴェリーナとか、学校内にいる闇の欠片と戦って強くなっていくはずだったのに、どこにもいないし! 悪役、つまりあなたはあたしを無視してるし! だから、今のあたしは魔物と戦っても間違いなく負けるのよ!」

 とうとう目尻に涙を浮かべ始めたエリカは、すっかりその場にへたり込んで頭を抱えてしまっている。

 そして僕はといえば。


「解った。とにかく君がアレと戦えばいいのか」

 僕は新しく持ち込んだ魔道具から、中に収納していた闇の欠片の小さな檻を取り出して地面の上に放り出していく。次々に積まれていく檻を目にしたエリカは、檻と僕の顔を交互に見て叫ぶ。

「敵がいなかったの、あんたのせいじゃん!」

「悪かった」

 僕は短く謝罪の言葉を投げた後、エリカの肩をもう一度叩いた。「とにかく、君が言うところのレベルを何とかしてくれ。そして、殿下を助けてくれないか」

「無茶だよ。っていうか何なのあんた、どうしてこんなことになったのよ!」

「僕の母親が君が言うところの『転生者』なんだ。僕を助けるために色々動いた結果が今だ」

「母親……」

 エリカが僅かに息をとめた。

 そしてその直後。

「責任者出てこーい! 納得いかんでしょ、こんなん! うわああああん!」

「泣くな」

 僕はそこで彼女をその場に残したまま立ち上がり、魔剣を構えるガブリエルの隣に駆け寄った。

「こりゃー、まずいぜぇ」

 ガブリエルが気の抜けるような声音で言ったものの、その裏には緊張の糸がぴんと張っているのが解った。

「だろうね」

 僕もできるだけ軽く聞こえるように返しながら、殿下――いや、『殿下だったもの』を見上げている。


 誰もあれがアルフレート殿下だとは気づかないだろう。

 さっきまで美しい完璧な容姿を持つ王子様であったはずの彼。だが、その肉体は黒いものに覆われていて、もうすでに原型をとどめてはいない。黒く輝く鱗のようなもの、棘のようなもの、金属のようにも見える地肌。巨大化したその体躯は元の十倍以上はあるだろうと思えるほどに膨れ上がり、こうしている今もじわじわと体積を増やしていくように見えた。

 気が付けば殿下は――四つ足の魔物、よく絵本で見られるようなドラゴンのような姿になっていた。メリメリと音を立ててその背中が割れていき、巨大な羽根が広がっていく。


 恐ろしいながらも美しいと思えるような、そんな魔物。

 それが僕らの前に立ちふさがっていたのだ。

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