走れるあの子と、走れなくなった私
黒羽椿
それはとある晴れた日のこと
私の前を、セーラー服を着た女子生徒が駆けていった。目の前には信号があり、青信号がチカチカと点滅していた。恐らく、彼女は後6分ほどで発車する下りの電車に乗るのだろう。私もその一員だったから、よく分かる。
都会ならともかく、この先にある駅は地元民しか使わない様なローカル線のみしか運行していない。一本逃せば30~40分ほどの待機時間を発生させ、夏は茹であがるほどの暑さ、冬は凍える様な寒さを与えてくる。当然、冷房や暖房の類いなど有るはずも無い。
それは仕事終わりの私も同じ事だった。このまま徒歩を決め込めば、きっと無残にも電車は私を置いて行ってしまうだろう。けれど、私の足は依然として緩慢な動きを続けていた。
ふと、思う。私はいつから、点滅する青信号に向かって走れなくなったのだろうと。
もはや、遠い過去の様に思える華の学生時代では、私もさきほどの女子生徒の様に駅に向かって邁進していたはずだ。家に帰ったとて、何かある訳でも無いのに。それでも、私は確かに走っていた。そうすることが、最善だと思っていたから。
目の前で信号が赤に変わった。走っていた女子生徒は、信号を無事渡り切れていた。きっと、彼女は電車に間に合うだろう。私はため息一つついてから、ぼーっと目の前の風景を眺めた。
くたびれたスーツを片手に、疲れた顔をこれでもかと晒した男の人。雑草を永遠毟り続けているおばさん。スマホを片手に、楽しげに会話をする女の人。
「こんちゃーっす、りっちゃん。今帰るとこ?」
「…………」
「あれ? いくら疲れてるからって、無視は酷いっすよぉ。あたし、泣いちゃうかも」
「そう……なら、明日はきっと大雨ね。降水確率0パーだけど」
「あたしにそんな特殊能力ねぇっす。つうか、ナチュラルに酷いっすよ」
そして、私の横に現れた、開口一番騒がしいブレザーを着た少女。名を、
彼女の容姿は、知り合いの私から見ても整っている。170近い身長に、すらっとした長くて健康的な足。眼鏡を掛けているのに分かる大きな瞳に、長いまつげ。シャンプーの宣伝みたいに、綺麗で艶やかな薄茶色の髪。おまけにコミュ強と来た。まさに、誰もが羨む完璧な存在だろう。
にもかかわらず、私は五十鈴が少し苦手だ。苦手になった。昔はそんなこと一度も思わなかったけど、ここのところ彼女と顔を合わせると、つい素っ気ない態度を取ってしまう。その理由が、自分でもよく分からなかった。
「五十鈴。貴女は、点滅する青信号に向かって何も考えず、ただ走ることが出来る?」
「へ? 何のことっすか? 心理テストとか?」
「はぁ……もういいわ」
「すとっぷすとっぷ!!! よく分かんないっすけど、多分走るんじゃないっすか!」
「そう……羨ましいわね」
だと思った。五十鈴は走って間に合うかどうかとか、走ったことに意味があるのかとか、考える必要が無いのだ。それは多分、彼女の良いところであり、長所なのだと思う。
私は、行動する前に考えてしまう。走ったら何かが変わるのか、走ったことによって生じるメリットデメリットを天秤にかけてしまう。
それが良いことなのか悪いことなのか、私には分からない。どちらかと言えば、私はそうやって言い訳をして行動しないので、きっと良くないのだろう。
「羨ましがるくらいなら、りっちゃんも走れば良いんじゃないっすか?」
「そうね……そう出来たら、全部解決するのにね」
「???」
信号が青に変わった。私と五十鈴は、並んで駅に向かう。その道中、五十鈴は私の顔をじろじろと見ながら、うんうんと唸っていた。
「……転ぶわよ」
「りっちゃんの顔を見て転ぶなら、それはそれで本望っす」
「何馬鹿なこと言ってるの。綺麗な顔をしてるんだから、それをあえて傷つける様なことは辞めなさい。私、五十鈴の顔は好きなのだから」
「顔以外は好きじゃ無いんすか!?」
「好きよ。足とか胸とか」
「同じっすよ!? もっとこう……! 内面的な部分を好きになってほしいっす!」
そうは言いつつも、五十鈴の顔は不思議と嬉しそうだった。昔から彼女は、可愛いだとか好きだとか言ってあげると、それはもうニコニコする子だった。そんなありきたりな褒め言葉、言われ慣れているだろうに。
歩道橋を渡って、狭い通路を五十鈴と並ぶ。この子は昔から、横を並んで歩きたがる癖がある。それは良いのだが、道幅の広いとは言えない歩道橋の上では、それなりにくっついてしまう。というか、くっついてくる。周囲の目もあるし、女同士とはいえ少し気恥ずかしかった。
「あ!? なんで早歩きするんすか!?」
「電車に乗り遅れてしまうわ。早く行かないと」
「もう発車まで2分切ってるっすから、ゆっくり行きましょー! 急ぐ必要無いっす!」
「ちょ、何で手を繋ぐ必要があるの!? 恥ずかしいのだけど!」
「りっちゃんを逃がさない様にっす! 次の電車まで30分以上あるし、ちょっと買い物に付き合って欲しいんっすよ」
「そんなの、友達と行けば良いじゃ無いのよ……!」
「あたしはりっちゃんと行きたいんす! ほら、行きましょ!」
私はその後、五十鈴と共に駅ビル内の店を巡る事になった。結局、次の電車には乗れず、私たちが帰路についたのは、その二本後の電車だった。
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