第43話 無知なる子ども

「きみは……?」


 突然現れたボロ着の子ども――伸びきった髪のせいで性別さえはっきりとしないが、年齢は十にも満たないくらいだろう。服にある大きな穴から覗く肌には骨が浮かんでいて、子どもが貧しい暮らしをしているのは容易に想像できた。


 髪の毛はルディナでは比較的多い茶色。煤け汚れのようなもので濃く映っているが、ちゃんと洗えば胡桃色くらいの明るさになる気がする。前髪が表情に薄暗い影を落としていて、見れば見るほど寒々しい印象ばかりが目に付いた。


「……」


 俺たちを呼び止めた声は何かを言おうとするも、臆して戸惑ったまま閉口してしまう。するとその様子を見ていたマイが膝を折り、子どもの目の高さになって言った。


「どうしたの? 落ち着いて、お姉さんに話してみてくれる?」


 慣れを感じさせる対応で子どもの警戒心を解こうとしている。これまで自分よりも年齢の低い人との関わりが少なかったであろうマイだが、最近は一層社交性に富んでいるように思う。それは紛れもなく彼女自身の頑張りの賜物だ。


 マイは現在、昼間は【アメトランプ】で働き、朝と夜は住まわせてもらっている宿屋の手伝いをしているらしい。宿は元々、家を抜け出した彼女に提供した借り部屋だった。詳しい事情も説明できなかったのに、姉御肌の女将さんはマイを匿ってくれた上、今では彼女が働きやすいようにと一室を格安で貸し与えてくれている。その恩に少しでも報いたいと言って、マイは多忙な日々を送っているのだ。


 行き届いた丁寧さはすぐに女将さんのお気に入りになり、俺が挨拶に行った時なんかは「マイちゃんが居てくれると客も子どもの世話もうんと楽だよ!」と箔を押していた。もう一家の長女のようにでも思われているのだろう。


 しかしながら目の前に居るのは一人で旅行もできない子どもだ。いかに物腰の柔らかいマイ相手とは言え、きちんと状況を説明できるのか不安になった。しかし、次に発した言葉はぎこちないながらもしっかりと要旨を伝えてくれた。


「その……親とはぐれちゃって」


「迷子なんだね。お父さんやお母さんと一緒に居たの?」


 子どもはずっとおどおどしたまま頷く。返事はできているものの、年上に対する恐れのようなものが張り付いていた。必要以上に体を震わせていて、少しでも小柄なマイに任せた方が良いと思い、俺は浮きかけていた腰を下ろした。


「お父さんやお母さんとはぐれる前に、何か聞いてた?」


 子どもは再び首だけで返事を作る。しかし今度は横に振ってしまい、マイは心配げな顔を俺に向けるしかできなくなってしまった。


「困ったな。アテは無しか……」


「あ、あの」


 対応に迷う俺たちを見て、子どもはもう一度何かを言い出しそうとした。マイが覗き込むように顔を合わせようとすると、視線を斜め下に落としながら言葉を選ぶみたいにゆっくりと話し始める。


「い、イエ。イエならわかる……わかります。でも……」


「……スラム街ってことか」


 子どもの身なりを見れば一目瞭然だった。王都の中心にもほど近いのに、数日は湯浴みもできていない様子だ。煤がかった髪が物語るのは子どもの住む劣悪な環境――スラム街の住人であるということ。王都にほぼ隣接しているにもかかわらず、長らく貧困層の寝床として存在し続けているその場所では、子ども一人で歩くのは些か危険過ぎる。


「それなら、騎士の方に頼みに行きませんか? この子を護衛しながら家まで送り届けてもらえば……」


「それはだめ!」


 マイの提案を退けたのは子どもの叫ぶような声だった。灰色の目の中にある瞳孔をぎゅっと縮めて、感情を押し殺さんばかりに強い握り拳を作っていた。


「す、スラムの人たち、騎士、嫌い。だから連れて行ったら……」


「……いくら子どもとは言え、あまり良い顔はされない、か」


 俺は右手を顎下に伸ばして子どもの発言の先を考えた。


 スラム街は貧困層の住宅街であると同時に犯罪者の温床だ。王国が管理し切れない小さな犯罪をまとめておけるから今でも残されているのだ――とスラム出身のハリエラさんに教わったことがある。つまり隣にある繁華街の安全確保をするための合理的な手段ということだ。ルディナ王国がいかに他国と比べて強靭とは言え、内々の問題の尽くにまで手を伸ばすことはできていない。


 そんな所に王国騎士なんていう権威の塊のような存在を連れて行けば、この子の一家ごと目の敵にされかねないのである。一時的な安全と引き換えに住処ごと危険に晒すのは得策とは言えない。


「店主さん。私……」


 マイが何かを言いかける。おそらく考えている懸念は同じだろう。しかし彼女は家族と離れる寂しさを知っているから、困っている幼子を不安気なまま置くことなどできないのだ。それに俺としても、子どもなりの気遣いを無下にするのは快くない。


「家に届けるだけなら、気をつけてさえいれば大丈夫だと思う。この子を送ってすぐに戻ってこよう」


 俺の言葉を聞いたマイが微笑みながら頷いた。そうして子どもの方に向き直ると、困り顔を忘れて笑顔に努める。


「お姉さんたちが送ってあげるからね」


「……うん」


 マイの表情に反して、子どもは暗い顔を変えることはなかった。親とはぐれてしまったのだから気落ちするのも無理はない。むしろ幼いながらも助けを求めるという行動を起こせたことを褒めるべきだ。


 結論が出たら急ぐに越したことはない。明るい昼の間に帰すべく、三人並んで人通りの少ないスラム街方面へと歩き出す。


「はい。手、繋ごう?」


「……何で?」


「もちろん、また迷子にならないためだよ」


「……」


 子どもは無言だった。おどつく様子で差し出されたマイの白い手を警戒している。知らない人、いや、単純に自分より大きな手が怖いのかもしれない。


「スラム街は繁華街と比べて人通りは少ないと思うよ。無理にそうしなくても……」


「駄目ですよ店主さん。こういうのは習慣にするのが大事なんです。今度から親御さんと出掛ける時は、ちゃんと手を繋ぐようにしてもらわないといけません」


 マイは俺の言葉を遮ってきっぱりと言った。日常の当たり前を蔑ろにしない辺り、彼女に施された教育の水準は高かったのだろう。彼女が懐いていたという母親と、拷問を受けながらも娘を守り抜こうとした父親。どちらの両親の人格も窺えるというものだ。


 そうであるがために、なぜ兄のキッグのような怪物が生まれたのかわからない。聞けば昔のキッグは本当に優しい兄だったらしい。にわかに信じ難いが、あれだけの仕打ちを受けたマイが涙ながらに語ったのだから幻想の類ではないだろう。


「行きましょう」


 子どもの手を取ったマイが路地裏の奥へと歩を進めて行く。二人の後ろ姿がまるで兄弟のように見えてしまったのは、家族という言葉が頭に残っていたからだった。



 三人で繁華街から離れて行き、しばらくすると狭い道に汚れが目立ち始める。王都との明確な境界線はない。無秩序なバラ線と清掃の行き届かない砂埃が裕福な人々に発疹を出させるだけ。生活環境の隔たりの向こう側に広がるのは、静かな恐ろしさを孕んだおんぼろ家屋の数々だった。


「幸い、人は少ないみたいですね」


「王都でもスラム街でも、犯罪が横行するのは夜の場合が多い。今の内なら大丈夫かもね」


 元々夕方になる前には王宮へ帰ろうと考えていた日程だ。スラム街は閑散としたもので、マイの言う通り殆ど誰かと出会うことはなかった。時折すれ違う人の中には俺たちを物珍しそうに観察したり、生気の無さそうな顔をしている者も居たが、敢えて触れなければ関わり合うこともなかった。


 そのせいか思考はずっと先の一件に囚われている。ずっと消えない疑問――キッグ・セアルの変貌は、本当に“不死の悪魔”の伝説によるものかということ。いや、その言い方には語弊がある。正しくは不死の悪魔の伝説「だけ」で変わってしまったのかという疑問だ。


 ドゥーマは確かに強敵だった。俺一人では死んでいたし、あのまま野放しにすればどれだけの犠牲者が出たかわからない。しかしながら、ルディナという巨大な国を相手取るには超えるべき壁が多過ぎる。王国騎士団に開拓者ギルド、他国の紛争に顔を出しに行く傭兵すら居る。いくらクイップさんを引き込んだとは言え、それでどれだけの勝算があっただろうか。


 そして思いついた可能性は、何者かの介入だ。キッグを口車に乗せたか、あるいは協力していたのかもしれない。ドゥーマに纏わるあの一件は、完全に終わった気がしないでいるのだ。


「店主さん、どうかしましたか?」


「いや、何でもないよ」


 まさかマイにそんな不安は吐露できず、誤魔化すようにかぶりを振った。すると彼女は空いているもう片方の手で上がりかけの口角を軽く隠しながら言う。


「店主さんはわかりやすいですよね。考え事をしている時は、いつもそうやって指を顎に当ててますし」


「え、そうなの?」


「そうですよ。でも今はやめてください。スラム街なんですから」


 釘を刺されるように言われて、うっと言葉に詰まる。自分が気をつけろと言った直後のことであり、ぐうの音も出ない。マイからすれば軽い意趣返しのつもりなのだろう。わざとらしくキョロキョロと辺りを見回していたら再び指が上がってしまっていて、それを見た彼女は吹き出しながら言った。


「考えてしまうなら、店主さんも手を握ってあげると良いですよ」


「わかったよ」


 無意識的な癖を的にされては些か分が悪いと言うものだ。諦めて子どもの空いている左側に右手を差し出す。するとまじまじと手の甲を凝視された。


「……これ、何?」


「あー……何だろうね。俺にもわからないよ」


 この痣も、思考をあの一件に引き摺る要因である。最初はマイの施してくれた“呪術治療”の痕跡かと思ったが、消えることもなくあまりにくっきりと残っているものだから益々謎は深まるばかりだ。動物の角みたいな二本の黄色い湾曲線。綺麗な左右対称であるため、もはや誰かの悪戯で彫られたと言われた方が納得してしまう。


 子どもはその痣をじっと見ていた。何か気になるかと聞いてみたら「ううん」と首を振るだけで、単に珍しがっただけだったようである。俺は僅かに背中を丸めて子どもと手を握った。思えば【アメトランプ】のお客さんの中にも気にしてる人が居た。手袋でも付けた方が良いかと考えていると、無言で痣を見つめるマイが見えた。


「マイも気になる?」


「……はい。あれから一向に消えない跡ですし、何か我が家に……『呪術』にかかわるものだと思うと、やっぱり気になります」


 治療の痕跡でもなければ他に思い当たる節もない。自然現象的に付くものでないのなら何者かの意図が含まれている可能性だってある訳だ。決して楽観視してはいないが、実害が無い内は経過を見守るしかできない。


「少なくとも、こうして誰かと手を繋いでも問題はないよ」


 この痣が何を意味するのか。それは何かが起きてからでないとわからない。決して良い予感がするようなものではないが、あの伝説を忘れない勲章だと思えば名誉の傷だと思える自分がいた。


 埃っぽいくねくね道は帰りのために覚えるのが大変だった。子どもの話し相手は相変わらずマイに任せ、俺はいくつもの曲がり角の景色を記憶していく。思ったよりも出払っている人間がずっと少なかったお陰でそちらに集中できた。


「もうすぐ、イエ、だよ」


 三十分も歩いただろうか。しばらくマイから質問を受けていた子どもが言い出した。子どもの言葉に俺たちは揃って浅い息を吐きながら安堵する。


「そっか。良かったね、ちゃんと帰れて」


「……うん」


 マイの言葉に子どもは悲しそうに返事をした。王都の残り半分を巡るという目的は時間的に達成できなくなってしまったが、同じかそれ以上の価値があることができたと思う。ほんの少しの名残り惜しさが、俺に無理矢理な微笑みを作らせた。


「そこの道、曲がったところなんだ」


 言うなり子どもは両手を振り解くようにして駆け出した。マイと瞳を見合わせ、角に消えていく影を微笑ましく思いながら早足で追いかける。


 そして何の前触れもなく、後頭部に未知の衝撃が訪れた。

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