第34話 当たった貧乏くじ

 ――『愚行を冒した者には必ずその報いが訪れます』


 マイと語らった夜に聞いた言葉が脳裏で反芻していた。もしかすると彼は、長い旅路のどこかで自らの死に場所を求めていたのかもしれない。


「クイップさん……」


 伝説と呼ばれるほどの生涯を終え、眠りについた剣士の顔はどこまでも穏やかだった。俺には及ぶべくもない達観した人生に敬慕の念ばかりが浮かび上がる。マイたちの家族とどんな関係があったかはわからないままになってしまったが、そうして誰かのことで悩み、想い続けられる人間でありたいと心から思う。


 大粒の涙をこぼしながら遺体に抱き着く女性は、もう嗄れた喉から細い空気さえ出さなくなっていた。破剣のクイップは孤高の開拓者――仲間どころか弟子を取っているなんて、殆どの人間が知る由もなかった事実だろう。だからこそ彼らの絆は強固で、次にアレスが顔を上げた時、彼女が憤激に染まっていることは容易に想像できていた。


「よくもッ」


 自らの剣を握り、今にもドゥーマに向かって走り出そうとする彼女を全身で抑える。


「待ってくれ、アレス!」


「離しなさい! あいつだけは……あいつだけはっ」


「違う、よく見てくれ! ドゥーマが復活してないんだ!」


 俺の言葉にアレスの動きが止まった。荒野に転がる紺青の肉体は、未だに小刻みに震えながら復活の予兆もなく倒れている。つまり致死の攻撃ではなかったということだ。あれだけ簡単にドゥーマの体を捌くことが可能だったクイップさんが仕損じるなんてことは考えられない。だからこそ答えはすぐに見つかっていた。


「クイップさんは最期まで俺たちの――いや、アレスの勝利のために戦ってくれたんだ。自分自身の犠牲も厭わずに」


 おそらくは正しいであろうドゥーマの蘇生条件。殺せば傷を癒してしまうからこそ、彼は夜闇に針の穴を通す不殺の一撃を放ってくれた。まるで家族のためにその身を危険に晒したマイみたいだ。歴史に押し潰されたというセアル家にも似た精神は、誰が見ても伝説の最期を飾るに相応しい剣筋だった。


「目的を見失ってあいつを殺せば、またドゥーマは再生する。そうなったら、クイップさんが遺してくれたチャンスが全て無駄になるんだぞ!」


 激情に駆られてしまう彼女の気持ちは計り知れない。もしも大切な人を失う時が訪れたとしたら、俺だって手のひらに血を滲ませるだけでは収まらないと思う。だからこそ、今ここで俺は彼女をせき止めることこそが役割だ。クイップさんが繋いでくれた勝利の芽を摘んでしまわないために。アレスは歯茎を露わにしながらも、横たわる師を見遣って冷静さを取り戻してくれた。


「やるしか……ないのね」


 俺は強く頷いた。託された勝利のためにすべきは、ただ戦い続けることだけだ。


「起き上がった瞬間に背中を狙う。悪いけど引き続き囮を頼む。あの術式は俺じゃないと完成できない」


「まどろっこしくてイヤになるわ、呪術なんて!」


 悪態を吐き捨てたアレスはもう一度立ち上がり、体の震えを止めた悪魔を睨んだ。片腕に加え腹部を損失したドゥーマが死ぬのは時間の問題だ。奴の命がもう一度尽きる前に決着をつけるしか勝ち筋はあり得ない。


「行くわよ。これ以上、何も奪わせないわ」


 アレスの言葉に強く頷いた。これはもうマイを助けるだけの戦いじゃない。今まで失われた命の全てに対する弔いだ。


 千鳥足のドゥーマと対峙する。アレスはもう一度正面に立って奴の気を引こうとしてくれていた。背中側に立って見えるのは刻時石と殆ど差異のなくなった複雑な紋様だ。呪術特有の読み解けない奇怪な字列に、それを覆うようにして描かれる数多の切り傷。


 ――ここまでのチャンスはもう二度と巡ってこない。絶対に決めてやる。


 未だ悪魔は息の切れかけたアレスに執着している。明らかによろよろと弱った攻撃とは言え、彼女も避けることで精一杯だ。無理を押していることは間違いなく、急がねば彼女まで失ってしまう。


 もう目はすっかり戦闘を追えていた。だから一人であっても、ドゥーマの振るう腕一本くらいならばもう避けられる。しかし俺の成長とは裏腹に、動きの鈍ったアレスがとうとうドゥーマの手に捕らわれた。


「くっ……ああっ!」


 太い五指にアレスの体ががっちりと握られている。藻掻く間にもドゥーマの腕は容赦なく彼女を締め付け、このままでは既に傷だらけのアレスの体は骨の髄まで壊されてしまいそうだった。俺は術式を記す手を止めて巨躯の横側に回る。


「離せ!」


 するとドゥーマは言葉に答えてやらんとばかりに、掴まれたアレスさんが助けに走った俺のもとへと放り投げた。受け止めようとしたが勢いに抗えず、重りをぶつけられたように地面へと倒れる。


「アレス……!」


 今の衝撃で彼女は意識を失い、ぐったりと全身にのしかかってしまう。彼女ごと起きようとするが、動けない間にドゥーマは俺たちへと接近していた。


 せめてもと体勢を変えてアレスに覆い被さる。人の肉壁程度では何も変わらないことは理解していても、体は勝手に動いてしまっていた。ギルドの伝説が命懸けで守った彼女ならば一縷の望みがあるのではないかと信じて、八つ裂きになる未来から目を背けた。


「――おい」


 その時、唐突に周囲の気温が下がった。肝が冷えたからなんて心理的な事象ではない。本当に身震いしてしまう程の冷気が前方から伝わってくるのだ。


「アタシのお気に入りに、何手ェ出してんだい」


 見上げた先には巨大な氷の壁。ドゥーマの鉤爪を阻むように発現したそれは、俺とアレスを守ってくれていた。そびえ立つ巨大な盾の前で、長身の女性が白い息を吐く。


「ハリエラさん!」


 紫紺の髪が流れるのを見た瞬間、俺は反射的にその名を呼んでいた。見慣れた獣皮の服を身に纏い、そこから覗く華奢な背中が頼もしさに溢れている。振り返った女性は険しい表情の中に少しだけ笑みを含めていた。


「ルミ坊。アンタ、また随分と無茶してるじゃないか!」


 彼女は氷で作り出した壁の後ろから俺たちを連れ、離脱する。直後にはバリバリと破砕音がして、氷壁は根元だけを残して木っ端微塵になっていた。


「逃げるよ!」


氷の欠片がキラキラと空気中に残る間に、俺はアレスを抱え上げ、ハリエラさんとともにドゥーマの目前から岩陰へと姿を隠す。瞬時の判断に驚かされつつも、口をついたのは一番の疑問だった。


「どうしてここに!?」


 ここしばらくの間、彼女とは連絡が取れなかった。どうやらギルドの任務とだけ聞いていたが、まさかこの遠征先で再会することになるなんて。


「アタシもギルドに頼まれて、独自にキッグ・セアルについて調査をしていたのさ。それで何日か前に【アメトランプ】へ寄ったら二人とも居ないもんだから……全く、探すのに苦労したよ」


「よ、よく追いつけましたね……」


「アンタらが迂回したであろう湖を氷漬けにして走って来たからね。当たりを引いたのがアタシで良かったさね」


 あの規模の湖を大地にしてしまったと言うのか。生態系すら破壊する彼女もまた、キッグ・セアルに引けを取らない魔術士である。加えて、何やら気になることも言っている。


「当たり?」


「いんや。こっちの話しさ」


 彼女は「今は良い」と言わんばかりにかぶりを振った。そしてある一点を見つめると、潜めた声をさらに小さく落とす。


「でも、間に合ったとは言い難いみたいだね……」


 視線の先にあったのはクイップさんの亡骸だった。その瞳の中にどんな思いがあったかはわからないが、彼女もまたギルドの中核を担う実力者なのだ。彼と何かしらの接点があったことは想像に難くない。


 俺は言葉を発することを躊躇いそうになったが、今は悲嘆している場合ではなかった。開拓者でもない俺でも彼への弔いができるとすれば、それは彼やアレスが繋いでくれたこの命でドゥーマを封印することだけだ。


「今の状況ですが……」


「わかってる。あの青いのが噂の“不死の悪魔”だろう? アンタはアイツを倒そうと奮起してる。これで良いかい?」


 はい、という言葉以外は要らなかった。不死という特性がありながらそれを倒そうなど無謀にも程があると言うのに、数年来の理解者はあまりに簡単に得心してしまっている。力の抜けたアレスを岩の傍に下ろし、陰から周囲を窺うドゥーマを見遣った。


「あの背中のやつがアンタのやろうとしてる呪術だね。完成するのにどれくらい時間が稼げれば良い?」


「もうすぐです。後少し、背中に回り込む隙を作ることができれば……!」


「後少し! 信じたよ」


 ハリエラさんは言うなり空中にいくつもの氷を生み出した。魔術の遠隔的な操作は難しいと聞いたことがあるが、薄く平たい氷はその形状を保って浮かんだまま。次々に生み出された氷塊は足場となり、ハリエラさんはあたかも空でも渡るようにしてドゥーマへと向かって行く。岩陰の反対側に辿り着くと挑発的な笑みを作っていた。


「こっち向きな、鈍いの!」


 ドゥーマが振り返るために上半身を回した刹那、その上空を取り囲むいくつもの氷が出現した。新たに生まれた塊には、彼女が乗っていたものにはない濃密な霜が降りている。


「凍てつけ――“氷天華こおりてんげ”!」


 空中に浮いた氷から、巨大な錐を象った氷柱が急襲した。両手の指の数ほどの輝きが次々にドゥーマの腕や足に突き刺さり、荒野と悪魔を串刺しにする。それだけではない。氷柱が刺さった箇所からは霜が広がっていき、やがて分厚い氷の層が奴の行動の一切を許さなくなった。


「さすが……!」


 “凍土の魔女”の異名は伊達じゃない。常人ではまず止められないドゥーマをいとも簡単に行動不能にしてしまった。しかしさらなる錐が頭に向かうのを見て咄嗟に叫ぶ。


「ハリエラさん、殺すのは避けてください! 傷が塞がってしまう!」


 直後に氷柱は僅かに軌道をずらした。一本の角を刈り取り、地面へと突き刺さる。


「ちっ。面倒な怪物さね」


 ハリエラさんの咄嗟の判断に胸を撫で下ろし、再びドゥーマの背中に術式を施していく。感じた寒さが火照る頭を冷静にしてくれる。そして記憶の限り、残り一画となったタイミングでハリエラさんの声が飛んだ。


「もう動くよ!」


 俺は声を聞いてすぐに踵を返す。ドゥーマは膨れ上がった筋肉を使って力ずくで霜を砕き割ると、体に氷柱を残しながら動き出した。太い腕が前方を振り払うが、ハリエラさんはそれをひらりと躱すと、俺の隣にやって来て憎たらしげにボヤいた。


「こりゃあ厄介だね。ルミ坊、後どのくらいだい?」


「さっきみたいな時間がもう一度あれば、発動まで事足ります。そうすればあいつは……」


「――危ない!」


 割り入ったハリエラさんの声に撥ねられて前を向き直した。ドゥーマはどこに残っていたのか、遺跡から地上に飛び出た時のような凄まじい脚力で俺たちに急接近したのだ。飛べる翼でもない癖に、地面に対して水平に飛翔しているようだった。


 巨体がぶつかる衝撃の前に、俺の体はハリエラさんによって虚空へと攫われていた。氷の足場を渡ろうとするが、飛び移る寸でのところで奴の鋭利な爪が彼女の晒された脚部を穿ってしまった。


「ハリエラさん!」


「安心しな。掠っただけさね」


 ドゥーマとの距離は離れていくも、言葉とは裏腹に太ももには看過できない擦り傷ができていた。乳白色の上には血が伝い、氷を渡る度に苦悶に歪められる表情が見える。しかしハリエラさんは唇を噛み締めて言った。


「心配そうな顔はこっちのもんさね! さっさとあいつを倒してすぐに説教だよ、このお人好し!」


 飛ばされた叱咤を受け取って、今は彼女の忍耐力を信じて頷いた。


「このまま突っ込むよ! 何があっても呪術を完成させな!」


「はい!」


 抉られた傷を諸共せず、ハリエラさんは俺を抱えたまま正面からドゥーマに挑んでいく。撃ち放たれた悪魔の拳を空中で身を捩ることで躱し、その足元に着地し、触れる。


 周囲には一気に霜が降りた。地を這うように冷気が広がり、立っていたドゥーマの全身にまで及ぶ。しかし表面を氷で覆ったにも関わらず、未だ内側からはバリバリと壊れる音が止まらない。


「じっとしてな!」


 ハリエラさんの気迫とともに魔術の勢いは増していく。砕けたそばから上乗せされていく結晶によって身動きを封じている。彼女の手を離れた俺は、その背にある完成しかけの術式に剣を突き立てた。線を描き足し、赤い血が水晶色を伝う。水滴が地に触れた頃、立っていた地面に異質な揺れを感じた。


「なんだ!?」


 突如として枯れた土が壊れた。その穴から現れたのは植物――森の大木の根に似た突起物。振動の正体に気づいた瞬間、俺はすぐにドゥーマの片足に目を向けていた。あの蔦の足が地面へと突き刺さって直立している。それを地下に通すことで、氷の影響外から反撃してきたのだ。


 蔦は触手のようにぐにゃりとうねったかと思うと、まるで意志を持ったかのように、否、確実な殺意を持って俺を打ち据えようとする。だが撓る鞭の先には、いつの間にか飛び込んでいた華奢な体があった。ハリエラさんは俺を庇って近くにあった岩へと衝突してしまう。


 名前を呼ぶ暇もない。彼女が命懸けで作り出してくれた数秒で、俺は俺の役割を果たすことを誓う。もしもハリエラさんの得意とする魔術が氷でなければ、この戦いの勝算はなかったのかもしれない。そう考えれば、全ての巡り合わせが一つの運命の中での出来事にさえ感じられた。


 ハリエラさんに守られた最後の一太刀で術式が完成する。ようやく訪れた、全員の刃が届く時。俺は握っていた刻時石を術式のある背中に押し当てた。


「消えろ、ドゥーマッ!」


 術式が励起する。傷跡から青白い光が溢れて、そして――



 ドゥーマに封印は訪れなかった。なんの変化も、変哲も。術式は光を失ったまま背中に残っており、起動しなかったことを告げている。


「なんで……」


 描いた術式に一切間違いはないはずだ。そして反応を示したにも関わらず、いくら眼球を転がしても十秒前との景色と相違ない。


 困惑で意識が固まっていた。見れば目の前には氷壁を破った倒木みたいな腕があって、馬車に轢かれるよりも強い衝撃が襲うことを予感する。しかし紫紺の影が間に入り込んだ。あまりにも鮮明に覚えている光景とともに宙を舞い、落ちた先で今度こそ名前を呼ぶ。


「ハリエラさん……ハリエラさん!」


 二度の強力な殴打で、どれだけ呼びかけても彼女に意識はなかった。俺を守るために負った傷は深く、不甲斐なさにふつふつと怒りが込み上げる。


 術式は完成している。一人であっても後ろに回り込むことさえできれば、何度だって封印術の起動に挑戦できるのだ。何が足りないのか、この命が尽きるまで探し続けてやる。


 ――そして自分の考えがいかに楽観的なものだったかを思い知る光景が広がっていた。



 ドゥーマの胸には大きな腕が突き立っていた。あの悪魔の真っ青な腕が。



「あ……」


 鉤爪は内にある心臓らしきものを抉り取り、大きな穴からバケツをひっくり返したみたいな血液がどばどばと溢れ出す。やがて寄り合わせていた糸繰りが解れたように筋を失い、その巨体を大地に伏した。


 生命機能を停止することが再生の発動条件だとするならば――自ら命を絶つことでも可能なのが道理。


 くり抜いた胸。切断された片腕。無数の刺し傷。伝説に空けられた風穴。その全てに細胞が寄り集まっていく。蠢いた血肉の上には青い皮膚が重なり、それは背中に描いた術式にさえ覆い被さる。


「やめてくれ……」


 懇願が渇いた口から漏れていた。これまでいくつもの命が繋いできた希望。それがこんな理不尽な力で無に帰していく。悪魔は何でもない朝を迎えるように、血に染まる無傷の体を起こした。


 現実が遠ざかっていく。いつの間にか俺の目の前には青い壁が立っていた。景色がぐわんと曲がり、さっきまで居た場所と足跡が見える。


 荒れ果てた大地の上空で、俺は徒花を散らした。

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