第三十話 ようやく見られた笑顔
いざ始まった朝食の時間。
こっそり緊張しながらもわたくしは固唾を飲んで見守っていたが、食堂は時折食器が音を立てる以外は驚くほどの静寂に包まれていた。
なぜなら、食事中、ずっとヒューパート様は無言でひたすらに食べ続けていたのだ。
彼は普段特に大食いというわけではないのに、どんどん肉料理もサラダもスープもパンもスコーンも何もかも食べていくものだから、わたくしは密かに仰天せずにはいられない。
「あの、ヒューパート様」
わたくしの呼びかけでようやく手を止め、ヒューパート様が顔を上げた。
「なんだ」
「お味の方はいかがでしょうか?」
「おかわりをもらいたい」
スッとこちらへ差し出される空のスープ皿。
つまりそれがわたくしへの答えということだろう。これだけでも、作った甲斐があったというものだった。
「お前は食べないのか?」
「……そうですわね、ではご一緒させていただきますわ。わたくしの分も用意して参りますので少々お待ちを」
試食の時に散々食べたとはいえ、ちょうど朝食が欲しかったところだったので都合がいい。
厨房から戻ったわたくしがヒューパート様の真向かいに腰を下ろし、共に食卓を囲んだ。
ちなみにそのあとスープは三回、肉料理二回、パンは五回もおかわりをご所望されることに。
それでようやく食べ終えた頃、彼は満足そうに口を開いた。
「充分腹が膨れた。それなり――いや、それなり以上に美味かったぞ」
ほんの少し言い淀んではいたものの、その食べっぷりを考えて少なくともわたくしを気遣ったための嘘ということはないだろう。
わたくしは微笑んだ。
「お褒めいただきありがとうございます。ご満足いただけたなら幸いですわ。……では、少し予定を変えて次に参りましょうかしら」
「次? もしかしてまだ何かあるのか」
「はい、もちろんですわ」
この日のために準備しまくったのだ。料理の腕を磨き、振る舞うだけでは終わらない。
今回はとにかく手作りにこだわった。何かを購入すれば帳簿に残ってしまいヒューパート様の目に触れるというのが最大の理由ではあるが、殿方が喜ぶような洒落た品がわからなかったということもある。
ナサニエル様との婚約期間中はあまり贈り物というのを互いに行わなかった。平穏で理想的ではあったものの、今思えばとても淡白な関係だった。
一方ヒューパート様とも今年が初めてなので、殿方への贈り物に関してはど素人なのだった。
しかし手作りというのはそれだけで価値があるものだから、贈り物にはもってこい。
ただあまり張り切り過ぎてはヒューパート様の負担となってしまいかねない。高級感がなく使い捨てになるようなものを……と考え、制作したのは。
「ヒューパート様、手を差し出して目を瞑ってくださいませんか?」
「何か妙なものじゃないだろうな」
妙なものだと言い切れる自信は全くと言っていいほどにない。
城の衣裳室にあった柔らかな綿生地を元とし、ハサミを入れて糸で縫い合わせ、そこに刺繍を施して作ったハンカチ。香水を振り撒いたおかげで甘ったるい香りを漂わせている。
しかし端はところどころほつれ、刺繍の紅の花は歪な形をしている。何度練習してもこれが限界で、「ジェシカ様は多才な方ですから、一年も続けていればきっと上達されると思いますよ」と慰められてしまったほど。
こんなものを渡されてどう思われるだろうという不安はある。
しかし、捨てられたならそれでいいと開き直っていた。
ハンカチを差し出された手の上に乗せる。
ちょんとわたくしの指先が触れたその掌は、ほんの少し熱を帯びて震えていた気がする。
「見るぞ」
そんな声と共に、ゆっくりと開かれるヒューパート様の瞼。
そしてハンカチを視認したと同時、彼は静かに息を呑み――。
「…………可愛い」
ぽつりと呟きを漏らした。
それは確かに聞き間違いではなかった。可愛い。可愛いと聞こえた。何が? 決まっている、わたくしが作った拙過ぎるハンカチに対して告げられた言葉だった。
「今、なんと?」
「あっ。ああ、ええと。あのそれだ、言い間違えた。変わっているなと、そう言うつもりだった」
思わず聞き返してしまうわたくしに、ほんの少し慌てた様子でヒューパート様が答える。
かと思えばハンカチを手に取り、まじまじと眺め始めた。
「本当に変わっているな。これはどうやって使えばいいんだ?」
「通常のハンカチと同様にご使用いただければと」
変わっているのはわたくしのハンカチよりヒューパート様なのでは。
喉元まで出かかったその言葉をグッと呑み込んだ。
「そんなのもったいないだろう! 生地が!」
「もったいないことはございません。あの、ありもので作らせていただきましたので……」
「しかしこれを汚すのは惜しい……」
本当に惜しそうな目でハンカチを見つめながら腕を組むヒューパート様。
そのあまりの真剣ぶりは、思わず噴き出しそうになってしまうほどだった。
「いえ、使い潰していただいた方がよろしいかと」
「そんなことできるわけがないだろう」
「ですがそのためのハンカチですし。所有者はヒューパート様ですからお好きなように使っていただいて構いませんけれど。もちろん捨てていただいても……」
「私をどれだけ非情な人間だと思っているんだ、お前は。使う。使うから捨てないでくれ」
そんなやりとりの末、無事にハンカチはヒューパート様の胸ポケットに仕舞われることになった。
彼が本当にハンカチを使うのか、言葉通り捨てないでいるつもりなのか本当のところはわからない。けれど受け取ってもらえただけで制作した甲斐があったというものだと思った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「これは果実酒を隠し味に使っておりますの。そしてこちらのスコーンには干し葡萄を」
「それでこんなにも味わい深いのか……」
茶会用の白いテーブルを囲むようにして腰を下ろしたヒューパート様とわたくしは真正面で向き合い、静かに語らっていた。
時刻は夕暮れ。茜色の陽光が庭園に差し込んでおり、とても美しい光景となっている。
――わたくしからヒューパート様への誕生日祝いは全部で三つ。
手作り朝食にハンカチ、そして最後は、これもやはりわたくし自らが作った茶菓子の数々だ。
実は朝食後のご馳走にする予定だったのだけれど、あまりにヒューパート様の食べっぷりが凄ましいので満腹になってしまい、後回しにしていた。
昼食は抜いておき、正午を過ぎてしばらく経ってから彼を誘ったのだ。
「ヒューパート様。せっかくのお祝いですし、ケーキをいただきながらお茶でもいたしませんこと?」
「いいぞ。ちょうど少し風に当たりたかったしな」
そういうことで、わたくしたちは庭園へ出たわけだった。
ゆっくりまったりとお茶を楽しみ、他愛もない言葉を交わして、気づけば数時間が経っていた。
「今日はあれだ、あの……意外だった。お前が私のことを祝おうと考えているとは思いもよらず」
「互いの誕生日を祝うのは今年が初めてですものね。当然ながらヒューパート様のお誕生日は存じ上げていたもののなかなかお祝いする機会がありませんでしたけれど、今年はこうしてお祝いできて良かったと思っておりますわ」
とても心地よい空気が流れている。いつまでもこうしてしたい気分になるほど、和やかな。
こんな風に思うのは疲れているからだろうか。それとも――。
「もうじきお前と暮らして二年になる。長いのだか短いのだかよくわからない日々だったな」
「その通りでございますわね」
ぽつりと呟かれたヒューパート様の言葉に、こくりと頷く。
一度は期間を待たずして離縁したいと思っていたはずだった。
けれど今は、こうして並んで座り、言葉を交わしていても何も思わない。以前なら間違いなく嫌悪感で胸が満たされていたのに。
歩み寄りは、できただろうか。
できていたらいいのだけれど、とわたくしは思った。
「美し過ぎるお前は目に毒だ。だがそれにも近頃慣れて……ではなく、許せるようになった」
庭園を吹き抜けるそよ風に銀の髪を揺らすヒューパート様。
隣に座るわたくしに目を向け、
「こ、このままそばに置いてやってもいいぞ。お前が……いいのならな」
一瞬、見間違いかと疑った。しかし瞬きしてもそれは変わることなく、確かな現実なのだとわかる。
わたくしは翠の目を見開き、固まってしまった。
それは非常に穏やかな笑みだった。
サラ様に向けていたのとは違う。それでも紛れない、わたくしに対する初めての笑みで。
あまりの美しさに目を奪われた。
――まさか本気で見られるなんて。サラ様のご助言のおかげですわね。
ヒューパート様は顔がいい。
わたくしには赤面したり怒鳴ることが多かった彼だけれど、やはり笑顔がよく似合う。
その笑顔を脳裏に焼き付け、深く息を吸い込みながら静かに瞼を閉じる。
ほんの一瞬。しかしこのためにわたくしの努力はあったのだと思うととても感慨深い。もはや悔いはなかった。
「ありがとう存じます。この身に余る光栄ですわ」
「嫌なら嫌と言えばいいんだぞ」
「いいえ、不満はございません」
首を振りながら、けれど、と考える。
わたくしをこの先も傍に置いておくなど不可能だ。二年子作りが果たせなければ離縁することになる……それくらいわかりきっているはずだろうに。
どうにも彼の質問の意図が掴めなかった。
まさか今更白い結婚をやめるなんていうことはあるわけがない。となると、わたくしのもてなしをお気に召したことを冗談めかして、この先も妃として置いておきたいほどだと評してくださったのかも知れなかった。
それとも何か別の理由なのだろうか。
わからない。わからないが、ヒューパート様の笑顔をようやく見ることができた達成感を前に、その疑問はとても小さいもののように思えた。
――これでやっと、悔いなく別れることができますわね。
ホッと安堵の息を漏らす。
今夜は久方ぶりに安眠できそうだ。
あとは速やかに離縁するだけ。
暮れゆく夕陽を見つめながら、静かに覚悟を決めた。
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