金曜の夜だから・・・

雨宮妃里

第一回「七夕」

 今年も七夕がやって来た。


 短冊に願い事を書くことは毎年恒例、いや毎年の楽しみでもある。だが去年までの私はそんなことをする余裕もなく必死だった。絵に描いたような仕事人間で、毎日会社と自宅を往復しひたすらキーボードを叩き続けていた。それが今年はどうなのかというと、笹の葉を前に、未来へゆっくりと祈りを想いを込める時間が取れた。


 もっとも分かりやすい願いに「無病息災」がある。病気をせず、健康であることを何よりも重んじている。正確な語源こそ定かではないものの、こちらの「息災」というのは元々は仏教の概念で、仏の力によって災害・病気など災いを除くという意味である。日本では平安時代の歴史書“日本紀略”にて「息災」という単語が初めて登場する。現代と違い、医療技術がそれほど発達していなかった時代。祈りを込めることこそが何よりの良薬で、万病を防ぐ術だったのかもしれない。


 さて、そんな七夕の短冊であるが、笹の葉に吊るされた他の人の願いの数々を眺めることも醍醐味のひとつ。学業の大成や職場での栄達、恋愛成就に至るまで内容は十人十色、だが、すべてにおいて共通していることは、誰もが一年の平穏と明るい未来を願っているという事実だ。


 これまでに私はどんな願いを短冊に書いてきたか? ふと記憶を過去に巻き戻してみる。幼稚園の頃には既に七夕に願い事を書く習慣があったように思う。


『美人になりたい』


『大金持ちになりたい』


『弁護士になりたい』


 などなど。思い出すだけでも恥ずかしくなる、きわめて現実離れした勝手な願いである。いずれの願望も叶わなかった。正確に言えば、叶えるための努力が足りなかった。今よりもっと上の場所に行きたい、そう願うのであれば、それに向かって努力をするべきなのだと思う。あるいは、もう充分だと満足しているのならば、次のステップに進むための努力をしなければいけないのだ。それを繰り返し続けることでしか願いは叶わない。


 そんな途方もない努力を続ける虚しさを私が悟ったのは、高校生を終えて不本意にも大学に行かないまま社会に出てしまったとき。有り難くも学生バイトの身から社員として正式に入社させてもらったは良いが、急激に増えた責任の量に戸惑い、それまでとは何もかもが違う環境の中で翻弄され、心身をすり減らした。あらゆる場面で自分の限界値を思い知らされる機会が多くなり、気づけば夢を見ることを止めていた。夢を見て、努力をすることを避けるようになってしまったのだ。


 職場の行事で七夕の短冊を書く機会が存在するため、社会人になった2017年以降も7月7日の夜は未来に祈ってきた。だが、その内容は『左遷されませんように』だの『怖い上司に怒られませんように』だの『新しいオフィスでいじめに遭いませんように』だの、ひどく無難で夢のないことを書いてばかり。いつしか、私はつまらない人間になっていた。


 このままの立場でも構わないから、平穏無事に過ごせれば良い。出来ることなら、ずっと今の環境に居たい。その方が楽に過ごせるから――。


 そう思って短冊に『現状維持』と書いた翌年の春、会社の上層部に突如として二階級昇進を言い渡された。挙げ句、その一か月後には慣れない激務が災いして体調を崩し、暫しの通院生活をおくる羽目になった。そのため七夕の願い事の効力は如何ほどかと問われると、私はいささか複雑な気持ちになる。結局のところ、人は何かしらの不可抗力的なものに全てを握られていて、それがもたらす運命に従って生きてゆく他ないのだろう。私にとって、一昨年はそれを嫌というほど痛感させられる年になってしまった。


 私が詞を書かせてもらった楽曲の中にTESTOGOの『七夜月のラブソング』がある。これは東洋に古くから伝わる七夕の民話、織姫と彦星の物語をベースに、遠距離恋愛で引き離される恋人の苦悩と悲哀を描いたものだ。


 織姫と彦星は天の川によって強制的に距離を隔てられ、自らの意思で会うことが叶わない。この古代の伝説は、愛と切なさが交錯する物語としてだけでなく、自らの力や意思だけでは全てをコントロールできない、この世の虚しい摂理を私たちに教えてきた。


 だが、コントロールはできずとも、立ち向かうことはできる。織姫と彦星の物語において、二人は自らの力では天の川を超えることが叶わなかった。しかし、彼らの愛情と願いは星々に届き、七夕という一度だけの特別な日に再会を果たすことができた。


 不可抗力に立ち向かうために、諦めずに希望を持ち、努力を持ち続ける信念。それこそが重要なのだと七夕の物語は私たちに教えてくれる。


 現実世界に置き換えても然りだ。遠距離恋愛は、大陸にて織姫と彦星のストーリーが生まれた時代から千年以上の時が過ぎ、出会いや交流の手段が豊かになった現代でも依然として存在する。仕事の都合や留学、転勤など、さまざまな理由で恋人同士の距離が離れることはよくあること。けれども、そこで諦めてはいけない。物理的な距離が離れていても、心のつながりや愛情は変わらない。むしろ、それがさらなる絆を育み、深める機会ともなり得る。


 七夕の願い事が必ずしも現実になるとは限らない、もしくは最悪な形で外れてしまうことが常態化したこの世界で、私たちは生きている。それでも、諦めなければ願いは叶うと信じたい。


 今年、あなたはどんな願いを書いただろうか? その願いを実現するために不断の努力を続ける覚悟、そして「諦めない」覚悟が、あなたにはあるだろうか?


 ちなみに、私には無い。何故なら、もう既に叶っているのだから。


『現状維持』


 生きてさえいれば、この願いは叶ったも同然。いや、違うな。現状を維持するための努力が必要なのだった。


 やっぱり、この世界は難しいな。

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