第6話

 本日二度目の医務室である。

 朝と違うのは、医務室でナッシュが大声で騒ぐものだから、授業棟から保険医が呼ばれて来たことだ。

 保険医を呼んで来たのだろう寮生が保健室の入り口からチラチラとこちらの様子を伺っている。

 しばらくはこの件で噂されることを覚悟しておかなくては。


「調べてみたけれど、身体には特に異常は見当たらないわ。記憶が飛んだのは、環境が変わったことによる緊張や不安のせいではないかしら。念のため回復魔法をかけておいたからこれで問題は無いはずよ」


 ナッシュは保険医の言葉を聞いて、やっと正気を取り戻したようだった。

 私はというと、ローズの中に『私』が入っていることを見破られるのではないかと内心冷や冷やしていたのだが、それが見抜かれなかったことにホッとしていた。


 この保険医は、エドアルド王子のために王宮が派遣した王宮専属の上級ヒーラーのため、この人に見抜かれないのなら今後も医療的な検査で『私』が見抜かれることは無いだろう。


 その点は安心なのだが、問題はナッシュだ。


 あの取り乱しようは異常だった。まるで過去にもローズの死を目撃しているかのようだった。


 ……いや、目撃しているかのようではなく、過去実際に目撃しているのだろう。


 その際には死なずに済んだからこそ今こうしてローズが生きているのだが、過去のローズが生死の境を彷徨った経験があることは、ナッシュの様子からして疑うべくもない。

 そしてその出来事がナッシュにトラウマを植え付けている。


「取り乱してしまい、申し訳ございませんでした」


 ナッシュが酷く落ち込んだ様子で頭を下げた。

 彼の何を言われても動じない性格は今やなりを潜めている。

 ウェンディルートでは毒舌紳士キャラなだけだったが、どうやら彼はそれだけではなさそうだ。


「もういいわ。髪もほどけたことだし、少し一人にさせてちょうだい」


 異世界転生して早々に考えることがありすぎて、正直言って頭がパンクしそうなのだ。


「あと、さっき聞きそびれたのだけれど。どうして私の部屋の鍵をあなたが持っているの?」


「いざというときにお嬢様を助けられるようにと、旦那様に持たされました」


 ローズの父親は、ナッシュがローズを襲う可能性は考慮しないのだろうか。

 ……考慮しないのだろう。

 先程の様子を見れば、ナッシュがローズを襲う可能性が万に一つも無いことは私でも分かる。

 ナッシュは世界中の全てからローズを守ろうとしている。

 そしてその世界中の一つにきっと、『自分』も含んでいる。

 『ローズ絶対守るマン』が、ローズを傷付けるわけがないのだ。


 乙女ゲームとして考えると、意外とローズルートでもナッシュの攻略は難しいのかもしれない。

 絶対に守りたい存在であるローズとナッシュが簡単に恋愛に発展するとはとても思えない。


 それはそれとして。


「その鍵、返してくれない?」


「いくらお嬢様のご命令でも出来かねます。お嬢様の命にかかわることですから」


「大袈裟よ」


「使用人は心配しすぎなくらいが丁度いいかと存じます」


「心配しすぎもどうかと思うけれど」


「いいえ。何かが起こってから後悔するよりも、心配が杞憂に終わる方が、数百倍は良いです」


「う、うーん……」


 そう言われてしまうと強くは出られない。

 なにせナッシュは『死』の単語を出しただけで暴走したのだ。

 渡してくれないからと無理やりに鍵を奪ったら、とんでもない行動を起こす気がする。

 例えば私の知らないうちに勝手に鍵を付け替えてしまったり……この程度で済めば可愛いものだが、もっと私には思いもつかないようなことをしでかす気がする。

 ……いや冷静になると、勝手に女子寮の鍵を付け替えることも厄介極まりない。


 まあ普通に暮らしていれば、ナッシュに合鍵を持たれていても困ることはないだろう。

 これについては私が諦めた方がよさそうだ。


 自室に戻る途中で食堂に寄ってルームサービスを頼んだ。

 原作ゲームでは、食堂で食事をしつつ情報収集をすることが定石だったが、もうそんな気力はない。


 やっとのことで自室に戻るとベッドに倒れ込んだ。

 保険医の回復魔法のおかげで身体は調子がいいが、脳は相変わらずパンクしそうだ。


 『私』が異世界転生をしたのが今朝のことだというのが信じられない。

 異世界転生の件でさえ整理がついていないのに、次から次へと考えるべきことが増えていく。

 まだウェンディはおろか、ナッシュ以外の攻略対象とも接触出来ていないのに。


 なおウェンディルートでは、入学式の日の夕方にローズがエドアルド王子と会っているところを目撃する。

 しかし、今はご遠慮したい。

 エドアルド王子は『私』の最推しであり、好感度を下げるような行動はしたくないのだが、今日会うのは無理だ。

 キャパオーバーが過ぎる。

 冷たい婚約者だと罵ってくれても構わない。

 それでも今日だけは勘弁してほしい。

 なにせこの後はジェーンを守るという一大任務が待っている。


「疲労的には、このまま寝てしまいたいわ。ふかふかのベッドの上に……ふらふらの身体を横たえて……ふわふわの眠りを…………ハッ!?」


 うっかり瞼が閉じそうになったため、私はベッドから再び起き上がる苦渋の決断をした。




「……さて。どうやって見張ろうか」


 ベッドから椅子に身体を移動させ、頭を切り替える。

 寝ぼけた脳みそで練った作戦のせいで取り返しのつかないことになったら、悔やんでも悔やみきれない。


 原作ゲームでは、ジェーンは夜のうちに女子寮の廊下で殺されていた。


 それなら夜に出歩かせないことが一番だ。

 ゆえにジェーンに部屋から出ないように頼むのが簡単な方法ではあるが……それだけではゲームのストーリーに合うように、ジェーンが部屋から出る何らかの出来事が起こる可能性がある。

 例えば部屋に大きな虫が出て自室にいられなくなったり、いきなり誰かに呼び出されたり。

 いかにもありがちだ。


 万が一ジェーンが廊下に出たところで、私はゲームのローズとは違って何もしないつもりだから、事件自体が起こらないはず。

 そのはず。


 しかし「廊下でジェーンが死ぬ」という事実がゲームに必要だった場合、廊下に出たジェーンが事件以外の要因で死んでしまう可能性がある。

 ジェーンは「第一の被害者」としてしかゲームに登場していなかったから平気だとは思うけれど……ナッシュではないが、後悔するくらいなら心配した結果が杞憂に終わる方が良い。


 ……まあそれを言い出したら、ジェーンが廊下に出なかったところで、転んだ拍子に机の角に頭をぶつけて死んでしまう可能性だってある。

 それでも、廊下に出るよりは部屋にいた方が死ぬ確率が低くなるはずだ。

 そして。


「見張るなら近場から見張るのが一番よね」


 私が結論を出すと同時にルームサービスの料理が届いた。料理を受け取ると、自室にあった小さなテーブルへと運ぶ。

 バタバタしていて、昼食には遅く夕食には早い時間帯の食事になってしまった。


「これは……美味しさが確約されているわ」


 作り立てなのだろう料理からは、食欲をそそるいい香りがしている。

 それに彩りも鮮やかで、目でも美味しい。


 絶対に他のメニューも食べたい。

 夜食も頼もう。


 上品な公爵令嬢であるローズが夜食を食べるとは思えなかったが、今にも折れそうなほどに細い身体だ。

 少しくらい体重が増えても問題はないだろう。


 私は運ばれてきた料理を口にする前に、夜食も頼むことを決めたのだった。





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