お兄ちゃんは今日からいもうと!

沼米 さくら

第1話 今日から僕は女子小学生

 ゴールデンウィークが明け、日常へと戻った世間。

 僕、大倉 京介(十八歳、高卒ニート、男性)は、小学校の制服のスカートをはいた。

「せーふく、着方わかる?」

「大丈夫だよ、蘭……じゃなかった、お姉ちゃん」

 この前まで妹だったはずの年下の姉に心配そうに見られ、僕は赤面した。上は女児キャミソール一枚で……。

 ……この状況がおかしいことくらい、僕が一番わかっている。

 なんで成人男性が女子小学生の格好をしているのか。僕が一番知りたい。無論、そういう性癖では決してないのだが。

「おにっ……りんちゃん、着替えれた?」

 妹、じゃなかった。お姉ちゃんの言葉に、僕は「もうちょっと」と答え。

 ……「これ」に袖を通すことになるとは、人生何が起こるかわかったもんじゃないな。

 とんでもない羞恥心にさらされながら、僕はセーラー服に袖を通した。

 ……どーしよ、心臓がバクバクする。いまにも失神しそうだ。

 はあはあと荒く息をつく僕。……いくら「」からって、中身が成人男性であることは変わりやしない。

 女児女装を強いられている。そんな状況に不可思議な胸の高鳴りを押さえきれはしなかった。


「いってきまーす!」

「行って……きま、す」

 少女の元気な掛け声と、成人男性の弱々しい裏声。

 泣きそうになりながら思った。

 どうしてこうなった。

 僕はこれまでにあったことを振り返ることにした。


    *


 まず、四月。全ての発端となる事件があった。

 母が再婚したのだ。

 再婚。それ自体はめでたいことだと思う。実際に母さんも喜んでいたようだった。が、しかし。

 相手の男……つまり新たな父さんにも連れ子がいた。

 大倉 蘭。十一歳。今年で小学六年生。

 女子大の付属小学校にかよっているお嬢様で、若干あたりが強めの女の子。

 たぶんお母さん似なのであろう整った容姿を持つ彼女は、僕に会うなり目を逸らした。

 いま思えば、これが最初のターニングポイントだったのだ。あそこで少しでも話しかけておけば、こうはならなかったのではないか。

 後悔しても仕方がない。

 僕とあたらしい妹は、特に家族らしい会話などのひとつもなく過ごすことになった。

 もちろん、それが本意だったわけではない。けれど、彼女には彼女のプライバシーというものがある。そもそも、急に家族になったからといって、会って間もない他人であることに変わりはない。

 彼女も彼女で「それでいいのだ」とでもいわんばかりに……これもいま思えばシャイで話しかけられなかっただけだったのだろうとも考察できるが、全く話しかけてこなかった。なので、これでいいと思っていたのである。


 さて、先日にまで話は飛ぶことになる。

 先日。五月五日、こどもの日。

「……お、にい、ちゃん。ちょっと……私の部屋に、きて」

 もじもじしながら、蘭は僕を部屋に呼んだ。

 ……女の子の部屋にはいるのは始めてだった。

 童貞臭い興奮というか高揚に身を任せて開けたドアの先は……一言で言えば、怪奇だった。

 怪奇というか奇妙というか、とにかくヤバイ気配だけはすさまじく感じた。

 まず目を惹いたのは、床に描かれた魔法陣。

 散乱するオカルトグッズ。例えば神社の鳥居のようなものや十字架、藁人形に五寸釘に魔道書じみた古い本。

 そして、見回したなかにひとつ、別の意味で目を惹いたものがあった。

「年上のお兄さんと仲良くなるおまじない」と書かれた、少女漫画っぽい絵が表紙になってる本だ。

 その表紙の絵は、頬を赤く染めたかわいい小さな女の子が、いかにも年上って感じのお兄さんと対面するというもの。恐らく小学校でも低学年向けなのだろうと容易に想像がつく。

 ……もしかして、蘭は僕と仲良くなろうとしていたのだろうか。

 その気持ちに、僕は己の選択の間違いを心のどこかで悟っていた……が、時は既に遅かった。

 パタン、と背後のドアが閉まる。

 振り向くと、少女が笑っていた。

「蘭、これって」

「お兄ちゃんが全然話しかけてこないのが悪いんだから……大人しく、私の妹になってね、『凛ちゃん』」

 意味のわからない言葉。見知らぬ名前。

「は? 何を言って……」

 困惑する僕をよそに、蘭は呪文を唱え始める。

「……我、ここに崇め奉る。偉大なるこっくりクトゥルフ大納言ハスター様、目覚め、我が願い叶えたまえ……」

 混ざってる混ざってる。色々とやばげなものが。

 しかし、そのこっくりクトゥルフなんとかかんとかとやらの力を、いまに思い知ることとなる。


「……お兄ちゃんを、私の妹にして!」


 その願いにぎょっとする僕。瞬間、怪しく光り輝いた魔法陣。

 急激に重くなる頭。

「蘭っ!」

 真っ先に心配した妹。その目の先にいたのは……まさしく、怪物。

 狐耳が生え十二単を着た緑のタコのような名状しがたき影。能面のような顔をなにかに向け、触手をニュルニュルと伸ばし、もはや言語として聞き取ることさえできない呪文を唱えていて。


 その触手の先に、妹がいた。


「……僕の、妹に……なにを」

 軋む頭をおさえ、僕は立ち上がる。

 立ち上がり、その怪生物を睨む。

 ……あの生物の眼球――そんなものがあるかどうかは知れないが――に、僕はどう映っているのだろうか。無謀な探索者か。あるいは愚かな獲物か。

 けれど、僕の脳内は妹の危機のことで一杯になっていた。

 ――蘭には、手出しさせない!

 僕は叫ぶ。叫んで、化け物に体当たりしようとして……。


 記憶はそこで途切れていた。


    *


「……ちゃん……お兄ちゃんっ」

 はっと目が覚める。ここは……そう、蘭の部屋だ。

 怪物はいなくなっていて、しかしオカルト一色に染め上げられた部屋は原型をとどめないほどにはぐちゃぐちゃに荒らされていた。

 そして、魔方陣の中央で倒れていた僕。その傍らに、蘭がいた。

「よかった……目が覚めた」

 心配そうな顔をした妹に、薄目を開けて状況を把握した僕はほうっと息をつく。

「よかった、はこっちの台詞だよ……」

 口をついて出た言葉に、蘭はしゅんとしたようすで「ごめんなさい……」と謝る。

「なんともなってないからいいけどさ。……なんで、あんなことしようとしたの?」

 興味本位だった。決して反省を促そうとした訳じゃなかったつもりだけど、蘭は怒られたように感じてるようで、ビクビクしながら答えた。

「……お兄ちゃんを、私の妹にしたかったの。そうすれば」

「そうすれば?」

「……もっと、お兄ちゃんとお話しできるって……」

「そう……」

 要するに、彼女は僕と話したがっていたのだ。

 挨拶くらいは交わしてるつもりだった。けど、それだけじゃ足りなかったようで。

「せっかく家族になったから、もっと話したかった……のに……」

 ついに泣き出した彼女に、胸がぎゅっと締め付けられ。

「ごめん。僕も、察してやれればよかった」

「……私こそ、ごめん」

「謝ることはない。十分反省しただろ?」

「そーじゃなくて……」

 じゃあなんだ、と少し思った。

 深呼吸して居直る蘭。

「お兄ちゃん」

 涙を拭って、真剣な目つきで僕を見る少女。僕も一度深呼吸して、彼女に正座で向き直す。

「なんだ、蘭。妹の言うことはなんでも聞いてやる」

 兄ちゃんだからな。なんて格好つけようとしたのもつかの間。

 どん、と正面から肩を押された。

 急のことで追い付かない頭。押し倒された僕の身体。

「な、んで」

「よく聞いて、お兄ちゃん」

 僕の身体の上に乗る蘭。そして、そのまま口を僕の耳元に近づけて。


「お兄ちゃん……私の、妹の振りをして」


 耳を疑った。

 ……なんで、そうしなくちゃいけないんだ?

 疑問が脳裏をよぎり。

「なに? さっきからうるさいわね。蘭ちゃん?」

 廊下から母さんの声がした。

 一軒家の二階。短い廊下に四人家族それぞれの部屋のドアが並ぶ。つまり、母さんはすぐ目の前にいると言うわけで。

 蘭をどかす間もなく、母さんはこの部屋のドアを開けた。

 驚いた母さんの顔。妹に押し倒される兄の図はさぞ衝撃的だったろうと思った。けど。

「まあ、もう仲良くなったのね! やっぱり『』だからかしら」

「……は?」

 意味がわからなかった。

 おい待て。僕は男だぞ。

「でも、蘭ちゃん。いくらお姉ちゃんだからって、妹を床に押し倒しちゃうのはいけないわよ」

「いも、う……んぐっ」

 疑問の声が出そうになった僕の唇に、蘭は人差し指を押し当てる。

「はぁい、おばさま。ごめんなさぁい!」

 一オクターブくらい高い声で答えた蘭。僕はなにも言えぬまま。

「凛も……あら? 男物のジャージ着てるなんて珍しいわね」

「きっとそういう気分だったのですわ」

「あらそう。蘭ちゃんが言うならそうなのかもね。じゃあごゆっくりー」

 そうして母はこの部屋を去った。


「おい、どういうことだ」

 どうにか起き上がった僕は、息を荒くして妹に詰める。

「わかった! 説明するから落ち着いて!」

 一呼吸おいて。

「……で、どういうことなんだ」

「えっとえっと……驚かないで聞いてね」

 バクバクと落ち着かない僕に、蘭は落ち着いて告げる。


「お兄ちゃんは、本当に私の妹として認識されるようになっちゃったみたいなの」


 ……驚かないで聞いて、というのが無理な話だと思う。

 口をポカンと開けた僕。

「え、じゃあ……僕ってなんなの?」

「私の妹で、名前は凛。私と同い年の女の子……ってことになってるみたい」

「なってるみたいって……え、どうしてそう思った?」

「思ったんじゃなくて、なっちゃったの! おばさんの話もおかしかったでしょ!?」

 蘭のにわかには信じがたいような言葉に、しかし他ならぬ自分の母の言動を思い返すと異様な真実味を帯びていて。

「おばさんだけじゃない。パパも、友達も、いなかったはずの私の妹を話題に上げてる。お兄ちゃんの代わりに妹がいるの。……お兄ちゃんが妹になっちゃったとしか、考えられない」

 その言葉に、僕は背筋を凍らせた。

「じ、冗談、だろ? そうだ、みんな冗談を言ってるんだ。うん、そのはずだ……」

 そうとしか考えられない。いや、そうであってほしい。

「……ちょっと寝る」

「待って、まだ続きが」

 オカルトに染まり切った妹の部屋を出ていき、自分の部屋に向かって数歩。

 ドアにかかったプレートには自分の名前。それを確認せずに、開け放ったドア。

 ……息が詰まった。

「冗談、だよな?」

 カーペットがピンク色だった。普段敷いてるのは茶色のもののはずなのに。

 ぬいぐるみが散乱している。無論、僕にぬいぐるみ収集の趣味はない。

 ベッドはファンシーなパステルピンク。サテンのフリルがぶら下がったお姫様仕様。黒と白の布団を敷いた木製ベッドの面影はほとんどない。

 壁紙もベビーピンクのかわいい物に統一されていた。白かったはずの壁はどこにもない。

 そして、クローゼットが開いていた。女物、それも女児向けのかわいらしい意匠の服が、ところせましと詰め込まれていた。フリルが満載のロリィタ服が目を惹いて……もちろん、買った覚えすらないし着た覚えもない。女装などただの一度もやったことがない。

「……どう、いう」

「凛ちゃんはね、内気でかわいい物好きなの」

 背後から蘭の声。びくり、驚いた僕。蘭は続ける。

「かわいいものが好きで、私服もフリルやリボン、ピンクの物を好き好んで着る。夜はかわいいぬいぐるみを抱いて寝る……」

「っと、つまり?」

「そんな妄想が反映されてるみたい……」

「うそぉ……」

 もう自分でもどういうリアクションをすればいいかわからなかった。

 ……部屋を間違えたか。そう思って一旦部屋を出る。

 そして、そのドアにかかったプレートを見て、僕はまた愕然とするのだった。

「りんの部屋」

 ピンク地に五線譜の書かれたようなデザインのドアプレート。何年もすんでる我が家にないはずの不自然がそこにはあった。

 ぞっとする。僕は……京介という存在は、一体どうなったのだ。僕とは一体何者なんだ。

 頭を抱える僕。呼吸は荒く、早くなって……。

「落ち着いてよ、お兄ちゃん!」

 蘭の声。はっとした。

「お兄ちゃんがお兄ちゃんだってのを知ってるのは私しかいない。私が全部悪いの。……ごめんね、お兄ちゃん」

「……なんとかして戻せなかったのか?」

「だめだった。色々試してみたけど……どれもなんにもならなかった」

 沈黙。呼吸の音だけが、ふたりだけの短い廊下に響く。

「でも……なんとかして、お兄ちゃんをもとに戻す方法を見つける。だから……いまは、妹の振りをしてて。おねがい、お兄ちゃん」

 真剣みを帯びた悲痛な声に、僕は深呼吸して。

「……わかったよ、蘭『お姉ちゃん』」

 なるべく優しい声で、答えた。

 泣き出した蘭を胸で受け止め、僕はその背中をさすった。


 こうして僕らは『姉妹』になった。


「落ち着いたか?」

「ぐすっ……うん」

「ならよかった。さて、着替えなきゃ……な……」


 が、それは同時に僕の変態強制女装生活が始まった、ということでもあった。


「そういえば服って……」

「全部女の子のになってたはず。……お兄ちゃん、身長低くてよかったね」

「なにもよくないよ!」

 なにもかも変わった環境でただひとつ変わらなかったもの。それは己の身体であった。

 どうせ妹にされるんなら、身体ごと変えてくれればよかったのに……。

 泣きそうになった。こんな羞恥を強いられるだなんて思いもしなかった。最悪だ!

 僕は世界を呪った。神を呪った。

 早くもとに戻りたい。いや……絶対、男に戻ってやる!

 女児下着を着ながら、僕は誓ったのだった。


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