4:災いを退ける力

「きゃ」


 足を取られて、思わず悲鳴が出る。視線を違和感がある場所へ向けると、そこにはツタ植物のような何かが絡まっていた。

 植物ではないとわかるのは、それがあまりにも真っ黒だったから。夜の闇から飛び出してきたような色をしたそれは、ヘビのように動きながらわたしの足首を強く締め付けてくる。


 ヤフタレクからもらった爪を枕元においたままに家を出た日に限って、こんなことになるなんて……。

 ぞわりとした悪寒が背筋に走り、一瞬で周囲から刺すような視線を感じる。獣のものではなく、人に近い気配。村の人々が盗人や罪人に向ける視線を今、自分が向けられているという恐怖が、ひたひたと胸の内からあふれ出して悲鳴が漏れになる。でも、ここで叫んだら、きっと村の人たちにも声が届くかもしれないし、声を聞いたヤフタレクと村のみんなが鉢合わせして、入らぬ誤解を与えてしまうかもしれない。そう思って歯を食いしばって両手で口元を抑えながら声を抑える。

 神様……は、たぶん助けてはくれない。だって、神殿でしかわたしたちと関われない存在だから……。

 わたしが死んだとしても、そうしたら次の御子を村人の中から探すだけだと思う。

 この一年は移譲の力無しでみんな生きなければならなくて、迷惑はかけてしまうなぁ。そもそも、また村を抜け出してきてこんなことになっているから……みんなわたしに怒って弔ってすらくれないかもしれない。


「……オマエヲ……ダレモアイシテナイ」


 囁くように耳元でそんな声が聞こえてくる。

 そうだ、御子のわたしを愛してくれているけれど、なんの力も持たないわたしを愛してくれる人なんて……。


「カヤール!」


 長くて細い枯れ枝みたいな腕が、首に伸びてくるのがわかっていて、振り払えなかった。

 このまま、死んでしまってもいいのかも……なんてことが頭に浮かんだ時、わたしの名前を力強く呼ぶ声がした。


 夕暮れ時の陽に焼かれた空に似た毛皮の狼が、こちらに向かって吼えているのが見えて、さっきまで抱いていた後ろ向きな気持ちがパッと晴れていく。


「助けて」


 そう言い終わるよりも早く、赤い閃光が黒い腕を切り裂いた。

 弓で射られた獣の様な短い悲鳴と共に、わたしの足を掴んでいたツタのようなものも消えて、先ほどまで辺りを取り囲んでいたなにかの気配もすっかり消えてしまったみたい。

 いつのまにかわたしのすぐ目の前にまで近付いて来ていたヤフタレクにペロリと頬を舐め上げられてから、ようやく自分が涙をこぼしていたことに気が付いて、少し遅れて自分の頬を両手で覆う。


「……よかった」


 ほっとしたように呟いたヤフタレクは、わたしの目を見つめてくれながら溜め息を吐く。

 怒られるのかと思って身を竦めたけれど、彼は何も言わないままわたしの肩に大きな頭を擦り付けるだけだった。


「君は忘れっぽいみたいだな」


 あんたって呼ばなくなってる……! なんて小さなことを少し嬉しく思いながらも、僅かに呆れが滲み出ている声色に「急いでいたから、つい」と言い訳を返す。


「そういうことにしておこう」


 わたしの手が届きやすいように頭を下げてくれた彼の首元に腕を回して立ち上がろうとすると、黒いお化けに掴まれた方の足首がズキリと痛む。


「……気が進まないが、少しだけ待ってくれ」


 顔を少し顰めただけで、ヤフタレクはわたしの痛みに気が付いたらしくて、わたしその場へ座らせると、眉間に皺を寄せて難しいことを考えているような表情を浮かべた。


「気が進まないなら、無理しなくても、このくらい」


 我慢出来るから……と言おうとしたけれど、ヤフタレクは首を横に振るだけだった。


「いいから待ってろ」


 グルルと形だけの威嚇をしたヤフタレクはそう言って目を閉じた。

 さわさわと長い毛が風もないのに靡いて、火の粉に似た暖色の光の粉が周りに現れ始める。

 小さな声で何かを唱えているヤフタレクをじっと見ていると、彼が瞳と同じ色で包まれた。

 彼の燃えるような赤い毛皮は徐々に彼の背中側へ吸い込まれるように集められていき、狼の形をしていたはずの姿がゆっくりとヒトの姿に近付いていく。


「これなら、君を傷付けないで運べそうだ」


 彼を包んでいた紅い光が消え、現れたのは、たくましい体の美青年だった。コダルトよりも少し高い身長に、たくましい体……。熱した銅みたいな赤みを帯びた艶やかな肌には、ところどころ裂かれたような形の隆起した傷痕がある。これは……彼が不死になる前に刻まれたものなのかな……なんて考えながら視線を上げていくと、狼の姿だったときと変わらない透き通るように綺麗な真紅の瞳と視線がぶつかった。

 なんだか急に恥ずかしくなって視線を横へずらすと、緩く波打つ炎の色をした長い髪が揺れいてる。


「わ」


 肩に手を置かれ、膝の裏に腕を差し込まれたわたしの体が浮き上がると、彼の厚い胸板が顔に押し付けられる。

 目のやり場に困ってしまいながら、もう一度、彼の顔を見ると心配そうな表情でわたしをじっと見つめていた。


「神の獣になる前は、これに似た姿だったんだ。こめかみに一対の黒い水牛のような角が生えていたんだが……」


 ヒトの姿になると、彼の表情がさらにわかりやすい気がする。きりっとしていた眉毛が少しさがって、自信なさげにそんなことを話してくれる。


「こんな醜い姿を見せることになってすまない。だが、君を傷付けずに安全な場所へ連れて行きたかった」


「醜くなんてない」


「変わったやつだな」


 ふっと口角を持ち上げて笑うヤフタレクだけど、その目はどことなく悲しそうだった。

 きっと、彼のいた世界では角の有無が美醜に関わる大切な要素だったのかもしれない。でも、わたしの目から見れば彼は、人の姿でも十分に美しいと感じる。

 男性に対して、美しいというのは正しいのかわからないけれど。


「あなたの姿、わたしは、とっても美しいと思ってる」


 その言葉を聞いた彼の目が一瞬だけ大きく見開かれる。切れ長の目に浮かぶ細長い瞳孔が針みたいに細くなって、すぐにまた丸みを帯びた優しい瞳に戻った。


「いつか角を取り戻した俺の姿も見せてやりたいが」


「狼に角があったらかっこよすぎてダメじゃない?」


 ぼそりとつぶやいた彼の言葉で、あの綺麗な狼みたいな姿に黒い角が生えている様子を思い浮かべてみた。水牛はみたことがないから、大角鹿トナカイのような角でしか思い浮かべられないけれど……。

 鹿のように大きくて、立派な角がある狼はすごくかっこよくて、完璧すぎて「ずるい」と思ってしまったのだ。


「ふ……そうか。クク……君にとってはそれが俺の姿なのだな」


 ヤフタレクが急に上機嫌になった理由はわからないけれど、それでも、愁いを帯びていたその表情が明るくなったことがうれしくて、わたしは彼の首に腕を回してグッと顔を近付けた。


「よくわからないけれど、その姿で笑っているあなたもすごく素敵」


 そう言って彼の頬に自分の唇を触れさせた。

 触れた彼の肌が熱かったからなのか、それとも、軽率にしてしまったことに対して自分自身で驚いたからなのか顔中がカッと熱くなったけれど、それでも気持ちはとても幸せだった。

 この時間がずっと続けば良いのに……。空を見上げて、村に帰る時間が迫っていることを憂鬱に思うくらい、幸せで、なんだか胸が少しだけ苦しくなった。

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