第2話 ノックスの破戒
1
空はどこまでも澄みきった晴天で、だから栗須は絶望的な顔つきをしていた。
「人類は自動車や飛行機を発明したのに、わざわざ走るなんて進歩に逆行してる。このままだと、そのうち四足歩行で走らされるよ」
わたしは言った。
「いいじゃん。十キロくらい。男子なんて十五キロだよ」
栗須は恨みっぽい表情でわたしを見上げた。
「倫子はそれだけ背が高いからいいだろうね。身長がわたしの一・五倍はあるでしょ。わたしにとって距離は倫子の一・五倍なんだよ」
栗須は高校三年生で身長が百四十センチほどしかない。
一方、わたしは身長が百七十五センチある。おまけにガリガリで、たしかにマラソンに向いてる。本木倫子という名前から、キリンというひねりのないあだ名で呼ばれている。
栗須は思いつめた表情で腕時計を見た。
「大丈夫。制限時間は一時間半。焦らずペース配分すれば完走できる」
腕時計は薄っぺらく、文字盤ではミッキーマウスが両腕を回して、時針と分針の役割をしていた。栗須の腕は細く骨ばっている。半袖に短パンという体操服だと、栗須は普段より子供のように見えた。
「その腕時計、いつの?」
「小学生でディズニーランドにいったときに買ったの。トゥモローランドが楽しかった。夢の未来を想像させてくれて」
「子供が生まれなくなって、人類そのものが高齢化して、絶滅を待つだけになった未来だよね。世界各地の都市機能が停止して、文明が崩壊に向かってる」
「なにその夢のない未来!?」
栗須が叫ぶ。わたしはポカンとした。
「え? P・D・ジェイムズの『トゥモロー・ワールド』じゃないの? 〈コーデリア・グレイ〉と〈ダルグリッシュ警視〉シリーズのP・D・ジェイムズの小説で、ハヤカワ・ミステリ文庫から出てたのに、読んだら推理小説じゃなくてガッカリしたよ」
栗須は額を押さえた。
その腕を見て「もしディズニーの世界で殺人事件が起きて、凶器に指紋がなかったら、普段から手袋をしてるミッキーマウスが第一容疑者だな」と思った。
埼玉県立朝霞東高校は、毎年、六月にマラソン大会を実施している。
会場は自然公園の彩湖・道満グリーンパークだ。朝霞駅から徒歩二時間ほどのところにある。名前のとおり、彩湖の外周に造営された公園だ。
湖といっても、端から端までを見通すことができないから、川のように見える。
楕円形の湖面に沿って、荒川が流れている。荒川には全長一・五キロ、幅五十五メートルにもおよぶ、東京外環自動車道の幸魂大橋が架かっている。
その反対側には高い土手がある。土手の上からは、首都高の高架道路を背景に、戸田市の住宅地を見下ろすことができる。
マラソン大会は十時開始だ。現地集合で、九時半に広場に集まり、クラスごとに出欠をとる。
日曜日だけど、順調にいけば十二時半には解散することができる。欠席者はほとんどいない。
このマラソン大会を欠席、あるいは参加してもタイムオーバーすると、課外時間に十キロほど追走させられる。マラソンしたほうがマシだ。
広場は芝生で、離れたところに児童公園の遊具がある。骨組みが鉄パイプのテントが設営され、折り畳み式の机と椅子が置かれている。マラソン大会の本部だ。実行委員の生徒たちが働いている。ちなみに、実行委員にマラソンしなくていいという役得はなく、交替で参加する。
開会式がある。実行委員長の挨拶、ルールの説明、諸注意だ。
男女で開始時間が異なり、男子は十時、女子は十時半だ。距離は男子は十五キロ、女子は十キロだ。差が大ざっぱなのは、彩湖の外周が五キロだからだ。男子は三周、女子は二周する。もっとも、正確には四・七キロらしい。
制限時間は男女とも十二時だ。この時点で中間記録がなく、ゴールに着いていないとタイムオーバーになる。そのあと閉会式があり、現地解散になる。
わたしたちは広場で開始時間を待った。男子がスタートしたあとだ。
だいたいの女子はその辺をぶらぶらしている。三年G組が集まっているあたりを見ると、翔子が念入りに準備運動して、クラスメイトたちに冷やかされていた。
わたしは時間いっぱいまでグリーンの『くたばれ健康法!』を読むことにして、芝生に腰を下ろした。
栗須は尻ポケットから細々したものを出して点検していた。小分けされた袋は、塩アメとチョコレートだ。
「マラソンが心配なら、身軽にしていったほうがいいんじゃないの」
「〈死の行軍〉にいくんだから、このくらいの準備は当然だよ」
栗須は真剣な顔で言った。
「死の行軍っていうより、幼稚園の遠足に見えるよ。灼熱の太陽光が降りそそぐなか、黄色い帽子の園児たちが一列で行進する。飲みものも幼稚園の先生に、カルピスの入った水筒を〈入れていいのは水かお茶だけだって言ったでしょ〉って取りあげられて。そのうち、強行軍で園児たちはコテン、コテン、ってひとりずつ倒れていくんだけど、歩みをとめることは許されない。脱落したものの死体はその場に捨ておかれる。展望台に着いたときには三分の二に減ってて、残りは帰らぬひとになってる。あの遠足ね」
栗須は無言で点検を続けた。テーピング用のテープと疲労回復サプリメントが出てくる。それを見て、それ以上、栗須の装備品を確かめることをやめた。
実行委員が集合の号令をかける。わたしは荷物置き場にいき、『くたばれ健康法!』を自分のリュックに突っこんだ。
十時半になり、実行委員の合図で、スタートラインに並んだ生徒たちが一斉に駆けだした。
男女で開始時間をずらしているとはいえ、五百人ほどの大集団だ。はじめからスタートラインにいた生徒たちが飛ばしたのは、好成績を出したいというより、人混みから離れたかったのだろう。
わたしは栗須に合わせ、下位集団に加わった。
マラソン大会は賞品があって、ゴールまで一時間を切ればスポーツドリンクの缶をもらえる。けど、ムリして獲得するほどのものじゃない。スポーツドリンクは多めに用意してあるから、毎年、余りが問題になる。普通は実行委員たちで分ける。去年は、調子にのった実行委員が自分のクラスに配って、あとで揉めた。
マラソンコースの遊歩道は、湖岸に沿っている。湖岸は柵がめぐらされている。湖面から岸まで、コンクリート造の傾斜が設けられている。反対側は自然公園で、樹木が並ぶ。
さざ波の立つ湖面を左側に見ながら、わたしは走った。
十分ほど走ると、栗須は言った。
「もう三十分は走ったよね。そろそろ給水所かな」
腕時計を見て、無表情で腕を下ろす。給水所はマラソンコースの中間点に設けられている。
栗須は量のある髪をポニーテールにしているけど、いまは走るために、いつもより高く結っていた。足を踏みだすたびに太い尻尾が左右に揺れてバカっぽい。
栗須は恨みっぽい顔でわたしを見上げた。
「倫子は文化系なのによく体力があるね」
「吹部で基礎体力のトレーニングはするから。あ、陸上競技に縁はないけど、リレー小説なら推理小説によくあるよ。有名なのはアメリカの『大統領のミステリ』とイギリスの『漂う提督』だね。『大統領のミステリ』はルーズベルトが原案を出して、ヴァン・ダインやガードナーが書いてる。
『漂う提督』はすごいよ。チェスタトン、クリスティー、セイヤーズ、ノックス、クロフツ、バークリーほかの豪華執筆陣。正確には、チェスタトンはリレー小説のアンカーのあとでプロローグを書いたんだけどね」
栗須はうさん臭そうな顔をした。
「推理小説をリレー小説で書いたら、筋が通らないでしょ」
わたしは体操服の尻ポケットから、丸めたノートを取りだした。高校一年生のときから使いこんでいるものだ。普段から丸めて制服のポケットに突っこんでいるため、表紙は縦にひび割れている。
栗須はノートを見てギョッとした。マラソン大会だろうと、これは手放せない。
ノートをパラパラとめくり、目当てのページを見つけだす。
「それについてはセイヤーズが序文を書いてるよ。推理小説としての欠点が、逆に、人間の複雑さを示すだろうってね。〈ある担当者がこの手がかりの示す方向はこっちに決まっていると考えて手がかりを置いたとしても、その同じ手がかりを、あとの担当者たちは正反対のあっちの方向を指す証拠にまんまと変えてしまうのだ。この探偵ゲームが現実の人生にもっとも近づくのはこのところであろう〉だって」
わたしはノートを丸めて尻ポケットに突っこんだ。
「日本にも『堕天使殺人事件』っていうリレー小説の推理小説があってさ。これが二階堂黎人、柴田よしき、北森鴻、篠田真由美、歌野晶午、西澤保彦、小森健太郎、芦辺拓ほかの豪華執筆陣なんだ」
「出来はどうなの?」
「人間の複雑さを示してる」
わたしたちはまた走ることに集中した。
といっても、もともと栗須に合わせて遅く走っているから、退屈で仕方ない。また栗須に話しかけると、真剣な表情で腕時計を見ながら「いま心拍数を計ってるから黙ってて」と言われた。
タラタラと走りながら前方を見る。同じ三年G組の二人がいた。
クラスの交友関係は、探偵小説の黄金時代の階級社会のように、運動部、文化部、帰宅部でくっきり分かれていて、『ABC殺人事件』や『ホッグ連続殺人』のような無差別連続殺人が起こらないかぎり、交わりそうにない。
けど、いまはマラソン大会によって物理的に距離を決められているからか、運動部と帰宅部のふたりが並走してダベっていた。
その会話から「盗む」や「犯人」という単語が聞こえて、急に興味が湧いた。
即席でできた会話らしいから、遠慮なく割りこむことにする。速度を上げる。
と思ったら、運動部のほうが速度を下げて、わたしに近づいてきた。女子バトミントン部の三崎だ。帰宅部のほうはそのまま離れていく。
三崎は困ったような顔をして言った。
「もしかして、いまのはなし聞いてた? キリン、推理小説好きだからなー」
「推理小説に関係あるの!?」
わたしが食いつくと、三崎はますます困ったような顔をした。
三崎はつぶらな目をしている。鼻は細いけど、鼻先が丸い。肩まである髪を、黒いヘアゴムで結んでいる。人当たりがよく、わたしは好きだけど苦手だった。人当たりのいいひとと接していると、自分が悪いことをしている気分になる。
三崎はすこし考えた。
「えーッと、お兄ちゃんの話なんだけど…」
「三崎、アニキいたんだ」
「うん」三崎は笑った。「今年、大学に進学してひとり暮らしをはじめたんだ。うちにマンガを置いていったから、好きに読ませてもらってる。ときどきシリーズ全巻を駅まで持っていかされるけど。ちゃんと紙袋に入れてこいとか、いちいちうるさいんだから」
わたしはさきを促した。
「それでこのあいだ会ったときに聞いたんだけど、お兄ちゃん、駅前に駐輪してた自転車を盗まれたんだって。うちにいたときから使ってて、引っ越すときも自分で持ってくくらいだったから、かわいそうだったな。話を聞いたら、ゴツい五桁のダイヤル錠をちゃんとかけてたのに、それを外されたんだって」
「五桁?」わたしは声をあげた。「ダイヤル錠なら一個ずつ数字をずらしていけば開けられるけど、四桁でも三時間くらいかかるでしょ」
三崎はうなずいた。
「わたしもそう思って、お兄ちゃんに聞いたの。そしたら《これならリーマン予想も意味ないな》って。謎だよ」
わたしは俄然、興奮した。ノートと鉛筆を取りだす。やっぱりノートはもち歩くに越したことはない。まさかマラソン大会中に〈日常の謎〉に出会うとは思わなかった。
鉛筆を持ってから、念のために確認する。
「実話?」
「うん」
体操服の尻ポケットからノートと鉛筆を出したわたしを、三崎はなんとも言いがたい表情で見ていた。
走りながらだから、ノートが上下に揺れて書きにくい。それでもメモはできた。
「リーマン予想って?」
「ググったけど、数学の有名な未解決問題だって。調べたけど、詳しいことはよくわかんなかった」
わたしは鉛筆の尻で頭を掻いた。
体操服の上着の裾が引っぱられる。ふり向くと、後ろを走っている栗須が裾をつまんでいた。
「どうかした?」
栗須はなぜかボソボソと言った。
「リーマン予想は素数の法則に関する問題。百年以上昔の〈ヒルベルトの二十三の問題〉のひとつ。いまよく使われてるRSA暗号は、ふたつの素数の組み合わせで成り立ってる。だから、リーマン予想が解かれるとそれが解読されるようになるかもしれないって話がある」
「じゃ、三崎のアニキもダイヤル錠の数字をなにかの暗号にしてて、それを解かれたんだ」小声で思考を言葉にする。「五桁の数字でしょ。『黄金虫』も『二銭銅貨』も文字の暗号だし…」
「考えなくていいから」
栗須は呆れた声で言った。思わず声をあげる。
「え!?」
三崎がふり向く。
「五桁の数字がなにかわかったの!?」
「市販のダイヤル錠なんて、数字はランダムでしょ」栗須は眉を寄せて上げた。「推測できるものじゃない。自転車の窃盗犯は数字を一個ずつずらして試したんだよ」
「でも、それだと何時間もかかる。駅前でチャリについたダイヤル錠の数字を試したりしてたら、すぐ警官に捕まるでしょ」
「だからダイヤル錠は自転車についていなかった」栗須は言った。「三崎さんのお兄さんは、マンガを持ってこさせるとき、紙袋に入れるように頼んだんだよね。マンガをシリーズ全巻っていったら、それなりの重さになる。自転車を持ってるなら普通それを使う。でも自転車に荷台があったら、袋に入れても入れなくてもあまり関係ない。だから自転車は荷台が付いてないものだった」
「荷台のない自転車のほうが珍しいでしょ。ロードバイク?」
「お兄さんは引っ越しのとき、自転車を自分で持っていったんでしょ。電車に乗せたんだよね。きっと折りたたみ自転車」
走りながらだけど、わたしは鉛筆の尻を口に当てた。
「名推理だけど、自転車の車種なんて関係ないでしょ」
栗須は首を振った。
「折りたたみ自転車に大型のダイヤル錠は重すぎる。たぶん、三崎さんのお兄さんは自転車から外したあと、駅前に繋ぎっぱなしにしてた。ガードレールでもなんでもいいけど。だから自転車の窃盗犯は、夜中に人気がないとき、地べたに座って何時間でもダイヤル錠を試すことができた。何日でもね。三崎さんの話だと、盗む価値のある自転車じゃなさそうだから、何日か手慰みにダイヤル錠をいじってたらたまたま外れたんじゃないかな。犯人は夜中に駅前にたむろしてる大学生あたりかも」
話すことに意識を集中したからか、腕の振りがおざなりになる。
「《リーマン予想は意味ない》っていうのは?」
「どんな暗号も絶対に解読できる方法がある。全部のパスワードを試すこと」
わたしは鉛筆を指に挟んで拍手した。
「どうしていまの話を直接、三崎にしてやんないの?」
「クラスで変に目立ちたくない」
栗須は短く言いきった。わたしは加速して三崎に近づき、いまの話をした。
三崎は感心した声をあげた。
「すごーい! キリン、推理小説を読んでるだけじゃなくて、自分で推理もできるんだ。そうだよね。ダイヤル錠なら全部の数字を試せばいいんだもんね」
そう言って、確かめるように何度もうなずく。わたしは気分が良くなった。わたしでなく、間接的にとはいえ栗須が褒められていることにだ。
三崎は感動を十分に味わってから、うなずくのをやめた。後ろをふり返る。
「ところで、栗須ちゃんはなにを話してたの?」
「ホームレス排除ベンチが許せないから、抗議活動するんだって。排除アートがある公園にチューリップを植えて、人権を訴えるらしいよ。今度、三崎も一緒にやらないかって」
わたしは適当に言った。
「へえ!?」三崎はびっくりした。「栗須ちゃん、政治的だったんだね」
何人かの生徒が近づき、わたしたちを追い抜いていった。それを見送ってから、三崎は言った。
「じつは話してたのは、べつのことだったんだ」
たしかに三崎たちの会話に自転車という単語は出ていなかった。
「あんまりうわさを広めないほうがいいと思って、お兄ちゃんの話をしちゃった。でも、キリンがそんな推理ができるんだったら、話を聞いてもらおうかな」
わたしは不審に思った。秘密にするほどの話というのは想像がつかない。
三崎は言った。
「じつは、窃盗があったらしいんだよね」
「このマラソン大会で?」
わたしは慌てて確認した。三崎は「うん」とうなずいた。
荷物置き場のことが頭に浮かぶ。貴重品は身につけるように指示されている。それでも生徒の何人かは、面倒がって財布やスマホを置いてきているだろう。それを盗まれたなら、けっこうな不祥事だ。
「大ごとだね。ひとに言えないのも当然だよ。どのくらいやられたの?」
「うん。四箱盗まれたの。スポーツドリンクが」
「は?」
三崎の言葉に、わたしはコケそうになった。
「それってマラソン大会の? 実行委員の連絡ミスかなんかじゃないの」
「ううん。本部のテントを設営したときにはたしかにあって、そのあとなくなったんだって」
わたしは半分興味をなくしていたけど、三崎は真面目な顔をしていた。
「スポーツドリンクなんか盗んでも仕方ないじゃん」
「でも、実際になくなってたんだから。ほかに考えられないよ」
わたしはうなった。反論を考えるけど思いつかない。それから、ふと気づく。
「そういえば、三崎、実行委員じゃないよね。どうしてそんなこと知ってんの」
マラソン大会の実行委員は、各クラスから男女一人ずつ選ばれる。三年G組は木村と、橋津という女子だ。
「朋恵に聞いたの」
橋津のことだ。三崎と橋津は女子バトミントン部の仲間で、仲がいい。
「橋津も大変だね。紛失騒ぎだなんて。マラソン大会が終わったら反省会かな」
「それはいいんだけど」三崎はあっさり言った。「朋恵、分藤くんと付きあってたからさ。このマラソン大会が仲直りするいいきっかけになれば、って思ってたから。でも、紛失が起きて問題になったりしたら雰囲気最悪でしょ。それどころじゃなくなるよ」
わたしは記憶を探った。
「分藤って実行委員長?」
「そう。B組で男テ」
男テは男子テニス部の略だ。開会式で挨拶していた男子の顔を思い出す。
聞かれてもいないのに、三崎は説明しだした。
「朋恵と分藤くんは去年、同クラでさ。もともと女バトと男テはコートが近いから、よく運動場で顔を合わせてたんだけど。それで去年、朋恵のほうから告白して付きあいはじめたの。でも、このあいだの朋恵の誕生日を分藤くんが忘れちゃってさ。それで喧嘩になって、そのまま別れたの。先月の付きあいはじめの記念日はおぼえてたから、なおさらね」
「誕生日っていつ?」
「六月六日」
「それは忘れたら怒る」
ただの場つなぎの質問だったけど、その返答にわたしは大きくうなずいた。真横を走る三崎に顔を向ける。
「もう別れたんでしょ? 仲直りもなにもないんじゃないの?」
「えーッ!」三崎は大げさに声をあげた。「それはさ。マラソン大会が終わったあとに、実行委員で打ち上げにいったりするじゃん。そのときとかさ」
「だいぶ肩入れしてるね。橋津がよりを戻したがってるの?」
「ううん。朋恵はまだ怒ってる。よりを戻したがってるのは分藤くんのほう。分藤くん、朋恵の誕生日を忘れたのをすごく悪いと思っててさ。謝りたいと思ってるの。わたし、それを分藤くんに相談されててさ。朋恵といちばん仲がいいの、わたしだから」
「三崎を経由しないで、本人に直接言えばいいじゃん」
そう言うと、三崎は肩を落とした。
「キリンはそう言うだろうね」
また走るフォームを整え、腕をおおきく振る。
「とにかく、そういうわけで、スポーツドリンクが盗まれた件を解決してほしいんだ」
「フィリップ・マーロウなら〈報酬は一日二十五ドルと必要経費〉って言うところだけど…」
わたしはチラッとふり返った。後ろを走る栗須の、リスの尻尾のようなポニーテールが揺れている。
「ここはアメリカじゃないからね。手形はドングリ銀行で切ってくれればいいよ。為替レートは一ドル当たりドングリ三個。虫食いのあるやつはダメ。森にある、いちばん大きな木のウロに入れておいてね。ときどき小動物の死体が入ってるけど気にしないで」
三崎はふり返って、栗須に言った。
「キリンと付きあってて疲れない? 栗須ちゃん」
栗須は尻ポケットから疲労回復サプリメントを出した。
給水所が近い。三崎はさきに走っていった。背中が見えなくなってから、ノートにいまの話をメモする。目の前で友達の恋愛模様をメモされれば、いい気はしないだろう。
わたしは速度を落とし、栗須に並んだ。
「名探偵の出番、って言いたいところだけどダメか。目立ちたくないんだよね」
「いや。やろう」
栗須が断固としてそう言ったから、わたしは驚いた。これまで栗須を表舞台に立たせようとしたことはあったけど、栗須はいつも抵抗してきた。
「急に積極的になって、どうしたの」
「事件を解決すれば、実行委員会がサボリをごまかしてくれるかもしれない」
ズッコケそうになる。信じられないほど下らない理由だった。
体勢を立てなおし、走りながら言う。
「スポーツドリンクを見つけて、そのお礼に記録をごまかしてもらうの?」
「わたしはそんなに楽観的じゃない。スポーツドリンクを見つけて、隠し場所と引きかえに記録をごまかしてもらう」
「悪い考えじゃないね」
出発したばかりのときはよかったけど、湖を半周ほど走って、わたしもかったるくなってきた。
考えてから言う。
「でも、どうして犯人はスポーツドリンクを盗んだりしたんだろうね。ネットオークションで売ってこづかい稼ぎにするのかな?」
「ダンボール箱で四箱っていったら、かなり重さだよ。持って帰るだけで苦労する」
栗須はあっさり否定した。
「なら、どんな理由があったと思うの?」
「わからない。とにかく実行委員のひとに話を聞かなきゃダメだよ」
調査に乗り気になったわりに、栗須は平然としていた。気に入らない。
遠目に給水所が見えてくる。わたしは加速し、栗須を引き離した。
「さきに水飲んでくるね!」
「あッ、待って!」
背後で栗須が叫ぶ。それを尻目に、給水所に向かう。
大半の生徒が給水所を無視して通りすぎるなか、わたしは立ちどまった。
折り畳み机を広げ、給水用のタンクを置いている。さらに、水を入れた紙コップを並べている。机の端にゴミ袋をガムテープで貼りつけ、ゴミ箱の代わりにしている。
わたしは紙コップを取りあげ、中身を飲みほした。そのまま硬直する。空になった紙コップが大量に入っているゴミ袋を見たまま立ち尽くす。
栗須が追いつく。急に本気で走ったから、呼吸が乱れている。両手を膝について、荒い息を吐いている。
栗須はわたしに文句を言おうとした。
「ちょっと、倫子…」
それを遮り、わたしは言った。
「スポーツドリンクがどこにいったか、わかったよ」
「え?」
目を見開く栗須に、わたしはスポーツドリンクが注がれていた紙コップを見せた。
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