優しき天神は生贄を欲す 其の拾参《じゅうさん》
二人が出て行ってから、どれくらい時間が経ったのか。
既に外は夜の帳が下り、真っ暗だ。
それでなくても、此処は山の中であり、見通しは良くない。
こんな漆黒の闇の中、一体何処まで行ったのだろうか。
探しに行きたいが、琥珀に此処にいろと言われている。
下手に外に出て、入れ違いに帰って来たら、後でこっ酷く罵られるだろう。
(…どうしよう)
戸を開けて、家の外に出ると、コヨーテの遠吠え、そして虫の声が、うるさいほど辺りに響いていた。
その頃琥珀は、廃寺から数里ほど離れた場所にある湖へと来ていた。
勿論、蛇野郎と呼んだ男も一緒である。
湖の畔まで来ると、琥珀は背後をずっと黙ってついて来ていた男を振り返り、無言で殴り掛かった。
だがその行動は読まれていたようで、男は涼しい顔のまま琥珀の拳を避け、代わりに手の平に力を溜め、その力を衝撃派として琥珀へ放った。
「…!!」
まさか反撃して来るとは思っておらず、琥珀は間一髪で攻撃を避けると、舌を鳴らしながら距離を取る。
しばらくそのまま、お互いにお互いの次の行動を警戒していたが、その沈黙を破ったのは琥珀であった。
「…で、何しに戻って来やがった」
「此処は私の湖であり、この山は私の山だ。戻って何が悪い?」
「ふざけんな!誰の山だ、誰の!勝手な事言うんじゃねぇ!!」
「…?私が加護を与えた山だ、私の山だろう」
「あ、の、な、ぁー!!この山はもう俺の縄張りだ!」
「私が留守にしている間に、お前が棲みついた事は知っている。悪いとは思っているが、私もこの山が気に入っているのだ」
「知るか、んな事!!この蛇野郎が!!」
全く変わらない。
昔からこの男は、飄々としていて掴みどころがない。
よく言えば天然、悪く言えば阿呆なのだ。
「私の名は
「うるせぇ!この蛇!蛇!蛇野郎!!」
伽耶といる時もそうなのだが、この風玉といる時も、琥珀は調子が狂う。
風玉がこの山にやって来たのは、既に琥珀がこの山に棲み付いて、数十年が経過した頃だった。
だが実は、風玉は山を留守にしていただけで、琥珀より前からこの山に棲みついており、山に加護を与えた妖だったのだ。
それから数十年。
二人はたまに喧嘩をしながらも、なるべく互いに顔を合わせない様に、山頂の廃寺と、中腹にある湖で、別々に生活して来た。
そんな均衡が壊れたのは、風玉がいつの間にか、旅に出たまま戻らなくなったからだ。
風玉は旅が好きで、時々ふらっといなくなる事はあったが、最後に旅に出て以来、ずっと戻って来なかった。
こうして帰って来たのは、何十年ぶりだろうか。
数えてもいないから、琥珀には分からないが、相当の時間が経っている事は確かである。
「別に一つの山に、二人の
「俺はお前が嫌いなんだよ」
「つれないな、
「…出来ねぇのが分かってて言ってんだろ。…つーか、何で俺が負けなきゃならねぇんだよ」
一つの縄張りに、二人の妖が棲みつく事は、さほど珍しくはない。
ただ問題は、二人の妖が住み着いた場所から、どちらかが去る場合、その去る方が縄張り争いに"負けた"事になる…という事だ。
それに縄張り
「…それより、廃寺にいた人間の娘は誰だ?まさか人間を嫁に貰っ…」
「んな訳あるかぁ!!!」
いきなり何を言い出すのかと、つい声を荒げてしまう。
だがずっと暮らしている廃寺に、人間の娘がいれば勘違いも仕方がないか…と、琥珀は隠れて溜め息を吐く。
「…あれはてめぇの生贄だよ」
「…?私の?」
「てめぇがまだ山にいると思い込んでる人間共が、未だに生贄を山に送り続けてやがんだよ。…喰える訳でもねぇのに、こっちは良い迷惑だ」
「…?まさか、まだ人間断ちしているのか?」
「…てめぇにゃ関係ねぇだろうが」
「この山を去らないのも、その"約束"が、未だにお前を縛り付けているのだな」
「知ったような口を利くんじゃねぇ…、黙ってろクソ蛇」
「…風玉だ」
こんな下らないやり取りをしていると、大昔、風玉と縄張り争いをしていた頃の事を思い出す。
それは決して楽しい思い出ではないが、あの縄張り争いがあったからこそ、琥珀はこうして生きているのかも知れない。
風玉の事は好きではないが、この男との縄張り争いは、嫌な事を思い出す時間を、確実に減らしてくれていたからだ。
(ち…ッ、嫌な事を…。此処しばらく、思い出さなかったってのに…)
昔は風玉のおかげで、嫌な事を忘れられたが、今度は風玉のせいで、嫌な事を思い出す羽目になった。
琥珀は苛立たしげに風玉を睨み付けると、これ以上は話したくないと言わんばかりに姿を消した。
残された風玉は、琥珀が消えた夜空を見上げると、深い溜め息を吐いた。
「自分で連れて来ておいて…、まったく相変わらずだな」
そう誰にともなく愚痴る風玉の姿を、暗い湖から、アビが見つめていた。
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