第32話 噂

水惟がオフィスの廊下を歩いていると、給湯室の開いたドアの向こうから噂話が聞こえる。


「なんかさー深山さんの奥さんて大したことなくない?もっと大人な感じかと思った〜」

「ねー!あれならうちらもワンチャンあったんじゃん?」

「あはは」


蒼士と結婚してから、水惟はもう何度もこういう場面に遭遇していた。


———ふぅ…


水惟は静かに溜息をき、自席に戻った。

席に戻ると、乾と一緒に進めている案件のデザイン修正原稿が置かれていた。

水惟が作ったパンフレットのデザインのほとんどに赤ペンでバツ印がつけられ、修正指示が入っている。

「………」



「え、水惟それだけ?」

一緒にランチに出た冴子が言った。水惟が注文したのはサラダと飲み物だけだった。

「うん、なんか食欲無くって。せっかくおいしそうなお店に連れてきてもらったのに…」

「それは全然いいんだけど、食欲無いって大丈夫なの?」

冴子が心配そうに言った。

「あ、全然元気です、大丈夫!」

「え…何?もしかして…おめでた…とか?」

冴子の小声での質問に水惟は慌てて首を振った。

「ちがうちがう!…だいたい最近あんまり会えてないし…」

水惟の表情がしゅん…と曇るのを見て、冴子は「やれやれ」という顔で笑った。

「それで元気ないのね。」

「………」

「結婚して、深山くんも頑張らなきゃって思ってるのかもしれないわね。」

「………」

「深山くんは社長の息子だし彼自身がとっても優秀だから、当然深端は彼が継ぐことになるってみんな思ってるけど、結婚したタイミングで仕事が疎かになったり営業成績が下がったりしたら、きっとみんな水惟のせいだと思うのよ。」

「…そうかも…」

「だから、そうならないように結婚してからずっと頑張ってるんじゃない?前より明らかに出張も残業も多いわよね。水惟のため、かな。」

「…じゃあやっぱり寂しいなんて言っちゃダメですね…」

水惟はつぶやくように言った。

「水惟、いいのよ?寂しいって言うくらいは。」

冴子が心配そうに言った。

「でも…」

「もー!水惟は素直なとこがいいところなんだから、遠慮しないで深山くんに寂しいって言いなさい。まだまだ新婚なんだから。」

「うん…」

「それに深山くんがいなくて寂しいなら、私が飲みでも遊びでも付き合うから。メー子にも声かけてさ、ストレス発散しよ!」

「うん」

水惟は静かに笑って応えた。



ある日、水惟は乾と出版社のキャンペーンポスターの件で打ち合わせをしていた。

「ここのコピーはこのフォントで、このサイズがベストだと思います。」

水惟が言った。

「何言ってるの?そのフォントじゃコピーが目立たないでしょ。」

「でも、このポスターはコピーよりも写真で見せるものだと—」

「は?出版社のキャンペーンがコピー読ませないでどうするの?」

乾の言葉にはいちいちトゲがある。

「読ませないわけじゃなくて」

「あのさぁ…っ」


「ストップ」


声を荒げようとする乾と水惟の間に割って入ったのは氷見だった。

「忌憚なく意見を言い合うのは悪いことじゃないけど、冷静に議論しなさい。」

氷見はテーブルに置かれたポスターのラフを手に取った。

「乾。この件は乾に任せてるけど、コピーの入れ方に関しては水惟が正解だと思うよ。」

乾はムッとした。

「でも出版社のキャンペーンですよ?文章を主役にするべきじゃないですか?」

「その“べき”は誰のため?」

「先方のヒアリングの時だって、出版社らしく文章で勝負したいって言ってましたけど。」

「文章で勝負って、文章をビジュアルの主役にすることだけじゃないでしょ?水惟は写真で惹きつけて、コピーを読ませようとしてる。」

「でも洸さんの時だって—」

「乾、洸さんは関係ないでしょ。ディレクションするなら自分の責任でやらなきゃダメだよ。」

「でも—」

乾は全く納得がいっていない様子で食い下がろうとした。

「わかった。じゃあ初回の提出は乾の案と水惟の案、両方出そう。それで選ばれた方が要望に応えてるってことだよ。乾のイメージも仮の写真で組んでおいて。」

氷見がやや呆れながら提案した。

「あの、私…」

「水惟、乾が先輩だからって自分の意見を下げる必要は無いよ。クライアントへのベストを提案するのが私たちの仕事なんだから、水惟が遠慮して案を下げたらクライアントに失礼だよ。」

氷見は水惟の考えを読んで釘を刺した。

「…はい…」


結局その案件では氷見の言った通り、水惟の案がクライアントに選ばれた。


「いいよね、水惟は。洸さんにも氷見さんにも気に入られて、次期社長の奥さんなんだから。」

二人きりのタイミングを見て、乾が水惟に嫌味っぽく言った。

「え…」

水惟は怪訝な顔をする。

「水惟だってわかってるんじゃないの?この会社にいたら自分が超特別な存在だって。深山 水惟なんて名刺出されたら誰だって水惟の方を選ぶよね。」

「そんなこと…」

「無いって言えるの?」

「………」

それを水惟自身が判断するのは無理なことだ。



「なんかさぁ、クリエイティブの深山さんの奥さんて超贔屓されてて—」

「実力以上に評価されてるらしくて—」

「他の人の方が良いデザイン出しても深山さんの—」


いつの間にか根も葉もない噂が広まっていた。

そしてそれはすぐに水惟の耳にも届くことになった。

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