Day27 渡し守
とある田舎の国のことである。初老の男が太い川で渡し守をしていた。
川の向こうには街があるとかで、数人いる渡し守たちは皆、連日仕事に追われていた。人々を乗せて漕いで行き、また乗せて戻ってくる。人が荷物に変わる事もあったが、毎日その繰り返しであった。
日差しで肌がピリピリと痛む日、ある若い旅人の男が低い草の中で客待ちをしていた舟に乗り込んできた。くたびれたリネンのシャツだったが、縫い目の綺麗さは都会の人物であると物語っていた。
旅人は随分話好きであり、渡し守を相手に、やれこの国の空気は美味いの、やれ雨が少なくて故郷とは全く違うだの、やれ物価が安くて助かるだの、実は西の川で橋を作っているだの、そんな事を話していた。
渡し守は旅人も数多いる客の一人としてさしたる関心は無く、適当に「へぇ」と相槌を打つばかりで、話の内容も右から左、殆ど記憶すらしていなかった。
「渡し守さん、この暑い中漕ぐのは大変だろう?」
「へぇ」
「この川は橋をかけるつもりは無いのかい」
そう言われて渡し守はようやっと旅人に目を向けた。
「さっきからあんたの言うハシっちゅうもんはなんだい。有難いものなのかい」
そう言われた旅人は渡し守の顔をまじまじと見て、すまない、橋を知らない人がいると思わなかった、と謝った。それから橋を説明しようと旅人があれこれ難儀した後、ようやく渡し守は橋を理解した。だが、質問への答えは無慈悲なものだった。
「川の中に何か作ったら、川の精が怒って壊しにくる。だから橋は作れない」
渡し守の答えに旅人は考え込んだ。
「もしかして、川の水があふれる事があるからかい?沈む事を想定して作る橋もあるぞ。沈下橋とか流れ橋とか」
「うんにゃ。川に建物は作ったらいけない。壊れてもなんでもけしからん事だ」
睨むように言った渡し守はそれきり旅人が何を聞いてもだんまりしたまま、船が向こう岸へついた時すら一言も答えることはなかった。
川向こうへ行ってから十日経ち、用事を済ませた旅人の帰る日がやってきた。またあの初老の渡し守に会うのは気が重かったが、川を渡らねば仕事場へ帰れぬ。腹を決めた旅人は、川へ向かった。
川には、誰もいなかった。舟を待つ人々も繋留杭も水鳥も河岸の草もない。ただ茶色くのっぺりとした水が轟々と音を立てて流れていくのみである。
せっかく決めた覚悟に肩透かしを食らった旅人は、ぼう然と大水を眺めていた。そういえば、川の周りはやけに低い草しか生えていなかった、全部川下の方向に靡くような癖がついていた、と思い出して己の馬鹿らしさを呪った。
怒りも悲しみも過ぎ去った後、笑いが込み上げてきた。水が引けるのを待っていれば、上司に決められた日時までに現場へ戻る事は叶うまい。戻った時には殴られるだろうし、戻らなければ給料は一銭も払ってもらえない。さて、どうすればいい。
考え始めた旅人の耳に、ギシィ、ギシィと櫂の音が聞こえてきた。ハッと顔を上げると見覚えのある渡し守の姿が見えた。
こちらへどんどん近付いて来たと思うと、岸に乗り上げて止まる。
「乗りな。一番大水の時に乗ると割高だけどな」
低い渡し守の声に、旅人は涙ぐみながら「いえ、ありがとうございます」と答える。
「川に建物はけしからんのがわかったろう」
旅人は涙を拭うばかりであった。
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