第32話
「それをされると注意しないといけなくなるから」
無表情になったあの店員が、俺の手を掴んだまま言った。
ぎょっとして目を見張る俺とシーを見るなり、店員は愛想笑いじゃないと分かる笑顔を、申し訳無さそうに浮かべる。
「僕が見るから待っててくれる?」
店員は言うと俺をドアから離れるよう目で促し、ノックをしてから「失礼します」と言って、女性用トイレを開けた。ジリリリリンと、黒電話の音はまだ止まない。
店員は慣れた様子でトレイ内を調べ、隣の共用トイレも同じ手順を踏んでからドアを開け中を調べた。掃除道具入れになっているだろう向かいの小部屋も見てから、手ぶらで戻って来る。
やっぱり忘れ物なんて無いんだ。ここから鳴ってるのに。
どうしてそんなに落ち着いてられるんだ。店員に尋ねようとすると、店員は察したのか立てた人差し指を自身の口元に寄せた。もう片方の手で廊下を出るよう促して来る。俺とシーは、困惑の視線を交わしてから従った。
最後に廊下から出て来た店員は、にこにこと愛想笑いを浮かべた。
「いやーすみません。わざわざ忘れ物が無いか調べて下さって。ありがとうございました。特に何も見つかりませんでしたけれど、誰かから問い合わせが無かったか確認しておきますね」
まだジリリリリンと電話の音が鳴り続けているのにそう話し出すので、堪らず叫ぶ。
「いっ、いやいや、聞こえてるんでしょ!? 聞こえてるからこっちに来たんですよね!? 何なんですかこれ!?」
「それが誰にも分かってなくて。何かよくあるんですよね。いつも分からないタイミングで鳴り出して、分からないきっかけで止まるんですけれど。多分言ってる内に止まりますよ。ああ、ほら」
もう何周目かも分からないジリリリリン、ジリリリリン。の間の無音のタイミングがやって来たと思っていたら、確かにそのまま聞こえなくなった。
本当に前触れも無くぱたりと止んで、俺とシーは絶句し立ち止まると振り返る。トイレへ続く廊下は誰もいないし、スマホだって落ちていない。廊下と飲料の棚の間の壁面しか無い僅かなスペースに、近隣で開催予定のイベントのチラシや、行方不明者の情報を求めるポスターが貼られていた。
行方不明者のポスターは、この辺りで暮らしていればよく見るものだ。もう失踪した日から十年以上経っている、俺達が通っている高校に在籍していた当時十七歳の女の子が、部活終わりの帰宅中に姿を消したらしい。当時のスマホと言った持ち物や服装を再現した写真、女の子の写真も掲載されているが、皆知っているのはこのポスターに載せられている彼女の姿であって、生身の彼女を知る人はいない。校内でもあちこちで貼られているし、ポスターだけが有名になっていってる。そう言えば、この人のスマホと俺のスマホは同型だったな。
安心したいからだろうか、見慣れたポスターをつい眺めていると、「暗いし早く帰った方がいいよ」と店員が言った。声はどんどん離れていっていて、振り返れば既にレジに立っている。まるで危機は去ったと言うように。
「気持ち悪くなったなら、全然他の店で買い物してくれていいし」
こういう時、どんな言葉をかけるのが適切なんだろうか。まだ心臓は、早鐘のように鳴り続けている。
「……何でそんなに落ち着いてるんですか」
やっとの事で尋ねた。
店員は過去の記憶を漁るように、目線を上へやってから答える。
「んー。慣れだね。最初はそれこそ君達ぐらいに、超びっくりしたけれど」
「い、いや、慣れって……。無理でしょそんの。いつ起きるかもいつ止むかも分からないんでしょ?」
「それがあるんだよ。だから僕はここのバイト辞めてないし、他の従業員さんや店長もここで働いてる。ほら、制服だって着始めた頃は慣れないけれど、その内普段着と変わらない感覚で着れるようになって、肩凝らなくなるじゃん。そんな感じ」
言葉が出なくなった。
そんな俺に店員は、本心からだろうさっぱりと笑う。
「幽霊っているから。僕もここでバイトするようになって分かったけれど。案外身近にいるんだって。そこのトイレの音みたいに」
「幽霊の定義って何ですか」
シーが尋ねた。
「何を条件として、それを幽霊と呼ぶっていう判断をしてるんですか」
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