第20話
シーは村山の事故もあってコンビニ前を通る気にはなれなかったのか、信号が少ない裏門からのルートで校内に入ると靴を履き替え、何と部室のある四階までノンストップで駆け上がった。
まだ梅雨明けには遠いが既に七月の炎天下、まるで猪に追われているような命懸けを思わせる気迫で走り抜いたシーは、部室前で困り顔をして佇んでいた後輩達へ無事鍵を渡すも息が上がって謝罪の言葉を吐き出せない。俺もヒーヒー言うのが精一杯で、酷い困惑を浮かべる後輩達に全く説明が出来ない。当たり前だ俺達文化部だぞ。そしてシーお前そんなガリガリのくせに急にそんな勢いで走ったら足折れるぞマジで。
何分間呼吸をするだけで必死な時間を過ごしただろう。やっと喋れるようになったシーは、依然真っ青のまま後輩達へ頭を下げた。
「本ッ当にごめんなさい!
後輩達の中でも電話をかけて来た子だろう、思慮深そうな女の子がおろおろ両手を振って否定する。
「いっ、いえいえいえ! 忘れ物なんて誰でもしますから! 副部長こそ大丈夫ですか死にそうな勢いで走って来ましたけれど!?」
「人に迷惑かけといて歩いて来る奴とかいないから……」
「相手を困惑させる程必死で来る人も珍しいですけどね……。何かあったんですか? さっきは軽音部の幽霊の噂について情報提供頼むって、部内全体に一斉送信してましたし」
気になって当然であるが、こちらとしては欲しい情報は既にメッセで受け取っているし話し込んでいる暇も無い。だから適当にあしらえばいいのだが、まだ平静を取り戻せないシーは困り顔になって視線を泳がせた。
「いや、あれは……」
「夏休みにホラー小説書いて賞に送るからその為の取材だよな」
俺が言うとシーは目をかっぴらいて見上げて来る。嘘なので当然である。そもそも小説を書いてる事を、俺とキイ、モト以外に明かしていない。今時図書室に通う生徒も殆どいないから、俺達四人だけで共有されていると言って過言無い秘密だ。
後輩ちゃんは好奇心と驚きに目を丸くした。
「凄い! 副部長小説書くんですか!?」
シーは今度は後輩ちゃんへ振り向く。
「えっ!? ああいや……」
俺はおろおろしているシーの顔を、肩を組みながら覗き込む。
「これがよく出来てるんだぜ。もしかしたら受賞してプロになるかもなあ?」
「そんな事ある訳無いでしょ適当言わないで」
シーを躱そうと後輩ちゃんを見た。
「そういう訳だから深刻な事情とかじゃねえんだ。気にしないでくれ。じゃあ今日はこの辺で」
そのまま回れ右しようと頭を横へ向けると、後輩達じゃない誰かが目の端に映る。
軽音の部室がある棟は移動教室に使われる部屋や職員用の部屋ばかりで、クラス教室が並ぶのは窓から見える向かいの棟だ。それに今俺達がいる棟の四階は、放課後になると使われる部屋は軽音の部室しかなくなる。四階という階段が煩わしい位置からも、退屈凌ぎに散歩しに来る生徒もいない。だから軽音部員以外の誰かが廊下に現れれば、それだけでかなり目立つのだ。でも、今目の端に映った誰かは妙に不明瞭で、生徒なのか先生なのかすら分からなかった。
とは言え有り得ない事じゃない。見間違いなんて誰でもある。改めてその誰かを確かめようと、頭をもう一度正面へ向けようとした。
それより先に後輩ちゃんが、髪を振り乱す程鋭く自身の背後へ振り返る。俺の動きが気になって自分も振り向いてみた。なんてのんびりした動機じゃないとはっきり分かる動きだった。
たとえば道を歩いていて、突然猛スピードの車が走って来たと気配で覚って、殆ど本能的に振り向く時のような。迫る危機から少しでも身を守ろうと、危機となっているその存在の姿を捉えようとするような。兎に角そういう、頭でいちいち考えている暇は無い状況下にいるような。
然しここ校舎内だ。人間は車のような猛スピードで急接近などしないし、他の後輩達も彼女の様子に口を閉ざし、目には戸惑いを滲ませている。
然しそれは当の彼女に届いていない。彼女は後ろを振り向いたまま、こちらに横顔すら向けずにしっかりと後ろを凝視している。余りにそのまま動かないので、後輩達もそちらを見た。俺も見る。
軽音の部室は防音の為、他の教室より壁が厚く作られているらしい。だからだろうか。この四階の廊下は部室の壁に面している部分には窓が無く、他の階の廊下より太い柱が飛び出しては凸凹模様を描いている。向かいの棟に面する側でのみ並ぶ窓は防音の為締め切られていて、
何もいない空間へ本能的に振り向いたままの彼女は、依然空間を凝視している。
いつの間にか、彼女が放つ緊張感が周囲に伝播して、重くなった空気が張り詰めていた。
誰も喋れなくなっていた。
胸を打つ心臓が激しさを増していく。
幾ら目を凝らしても誰もいない。
見間違いと切り捨てるには、依然こちらへ向き直らない彼女の動きが説明出来ない。彼女も何かを察知した筈だ。俺よりも身に迫る何かを感じて。だが何を問わずとも答えは出ている。そこには何もいない。
でも納得出来ない違和感が確かに在って、重い沈黙を押し退けようと口を開いた。
「……どうした?」
掠れた自分の声で、喉がカラカラに渇いていると気付く。走り回った事以上に、この現状というただならぬ気配に。
彼女は動かない。俺の声が聞こえていないみたいに指先すらかっちりと固定したまま、それでも自身へ投げかけられた声だとはっきり認識して応じる。
「変な人がいる」
文章を読み上げているような声でそう言った。
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