アストレアの花嫁〜辺境の小国に嫁いだ姫君は、病弱な旦那さまにもっと愛されたい!〜

朝倉

満月と乙女の涙


 それは美しい夜だった。


 藍色の空一面に輝くのはきらきら星、ぽっかり浮かぶまあるい月は真珠のような輝きを放っている。


 これが王都の城下街ならばまだ街は起きていて、大衆食堂から酒精アルコールのにおいと、良い気分になった男たちの賑やかしい声がきこえてきそうなもの。

 

 けれどもここは王都から離れた辺境である。人々は静かに眠っているし灯りだって付いていない。母親に絵本をせがんでいた子どもたちだってとっくに夢のなかだ。


 開け放たれた露台バルコニーから子どもの泣く声がきこえる。

 雨期を迎える前の、瑞々しい新緑の季節にはまだ早くとも夜風が心地良い夜だ。姫君のために用意されたその部屋には、他にも趣向が凝らされているのがわかる。 


 縦皺模様の木目が美しいマボガニーを使った調度品の数々が、化粧棚も書斎机も見事な艶が見える。猫脚の円卓には薔薇の花が飾られて、夜になったいまも瑞々しい香りを放っている。


 天蓋付きの寝台にも、一級品の絹を用いた寝具が備え付けられている。どんなに疲れていても朝までぐっすり眠れるだろう。それなのに、その泣き声は寝台からきこえる。ついさっきまでわんわん泣いて疲れてしまったのか、声は次第に小さくなった。


 寝台へと身体を突っ伏しているのは、先刻この国に嫁いできた花嫁だ。

 背に流した豊かな青髪は夜空の色、ほろほろと涙を流すその両目は青玉石サファイアのように美しく輝き、長い睫毛が頬に影を作っている。すっと伸びた鼻筋、赤く濡れた唇からはずっと嗚咽が漏れている。象牙色の肌によく似合う寝間着の色は、つい数時間前に彼女が纏っていた花嫁衣装とおなじ白だ。


 最上級の絹を編み込んだ寝間着も、いまは彼女の涙と鼻水で汚れてしまった。

 普段の彼女ならば、きっとこんなにもはしたない姿は誰にも見せなかっただろう。王都から伴った侍女は彼女の背中を撫でながら彼女を励ましている。声に応えようとしても嗚咽が邪魔をして言葉が上手く紡げずに、そうして彼女はまた泣く。小夜中さよなかを過ぎてしまったのに、一向に涙は止まりそうもなかった。


「どうして、なの? わたくしの、なにがいけないの?」


 パトリツィア・ルカ・マイアは今日のこの日を振り返った。

 正確には日付が変わっているので昨日なのだが細かいところはともかくとして、婚礼の儀式から会食、そして夜に至るまで何の落ち度もなかったはずだ。聖イシュタニアの前で愛を誓ったそのとき、夫となる人の顔はやさしかったし触れた手も唇もあたたかかった。


 ならばその前は、と思い出しかけてパトリツィアはやめた。婚約者と言葉を交わしたのは、聖イシュタニアの前が最初だったからだ。


「ああ、どうか。泣き止んでください、姫」


 侍女のミラがパトリツィアの髪を撫でてくれる。本当ならばいまパトリツィアの髪に触れているのは夫だった。侍女が綺麗に整えてくれた髪もぼさぼさで寝間着もぐちゃぐちゃ、おまけに泣き通しで目も腫れてしまった。


 日付が変わる前ならば、もしかしたら気が変わって来てくれるかもしれない。

 パトリツィアも侍女のミラもそう思っていた。でも、いまこんなひどい顔を見られるわけにはいかない。それに夫の従者は言ったのだ。今宵、ギルベルト様はここには来ません、と。


「きっとなにか事情がおありなのです。ですから、今宵はもうお休みにならないと」

「でも、でも……、ミラ。わたし、はじめてでしたのよ?」


 ミラがにこりと笑う。王都マイアの白の王宮、生まれてこの方マイアを出たことのなかったパトリツィアが、一番長く時間を共にしたのが侍女のミラだ。婚約が決まって喜んでくれたのもミラだったし、王都を離れて不安な思いをしないようにと励ましてくれたのも、こうして一緒にこの国へと来てくれたのがミラだ。


「存じております。姫」

「じゃあ、どうしてなの? ミラ」


 何度振り返っても、彼の気に障るようなことをした覚えがない。

 婚礼のあとの宴は夫よりも彼の周囲の人間とよく話した。辺境とはいえギルベルト・エーベルはこの国の領主である。王家から嫁いだパトリツィアはこの国の人間になるのだから、そうすべきと侍女のミラは教えてくれた。


 くすんくすんと繰り返すパトリツィアにミラはううんと唸った。


「わたくし、この日のために、おやつをすこし我慢しましたのよ。クッキーもカヌレもマドレーヌも大好きですのに」

「ええ、存じております」

「お肉ばかりは身体に良くないって言うから、ちゃんとお野菜多めに食べてきましたのよ」

「ええ、そうですねえ」

「努力のおかげでドレスもぴったりでしたの。この寝間着だってそうよ」


 肌の露出を抑えた寝間着だが、零れそうなふたつの膨らみははっきり確認できる。なだらかな丸みを帯びた肩や腰、すらっと伸びた腕や足、一見華奢そうに見えて女性の魅力をこれでもかと言うくらいに詰め込んだ肢体したいを持つのがパトリツィア・ルカ・マイアである。


「でも、でも……、思い出してみれば、旦那さまがわたくしと目をちゃんと合わせてくださったのは、婚礼のときだけでしたわ」



 両手で頬を覆いながらパトリツィアはため息を吐く。いったい、この身体のどこに不満を持ったのだろう。自問自答をつづけるパトリツィアに侍女のミラはこう返した。


「まあ、なんて言いますか。性欲なさそうな塩顔でしたからねえ、あの領主様」

 

 パトリツィアは激しくまたたいた。

 さっきまでほろほろ零していた涙はどこにやら、すっくと起きあがったパトリツィアはミラの肩を掴んだ。


「どういうことですの? ミラ」

「申しわけありません、姫。もっと早く気付くべきでした」

「つまり、わたくしに魅力が不足していると、そういうわけですのね?」

「えっと、姫? ちがいます。あの……?」


 パトリツィアは自分を抱きしめてそれから豊満な胸を揉み、太腿を撫でて腰に手を当て、最後にまた手で頬を覆った。朝昼晩とミラが櫛を入れてくれる自慢の青髪と香油を塗り込んでくれる象牙色の肌だが、それでも慢心していたのかもしれない。


「ひ、姫様? あのですね、ギルベルト様は病弱でいらっしゃいます。ですから」

「わたくしに魅力が足りないというのでしたら、もっと努力致しますわ!」


 辺境――もとい田舎の領主の若者には王家の姫君は刺激が強い。というミラの声など、もはやパトリツィアには届いていなかった。


「そうとわかれば寝ますわよ、ミラ。明日から、わたくしがんばりますわ!」


 さんざ泣いたあとでも、切り替えの早さがパトリツィアの良いところでもある。

 かくして、腫れた顔をどうにか直すところから姫君と侍女の朝ははじまった。

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