第8話 あたしの欲しいものは
「眼鏡が欲しい」
「目が悪いのか?」
「あたしじゃなくて…シェラ。あいつ多分目が悪いんだよ」
「ほう?」
アイザックは目を細めてエリンを見る。真意を探ろうとするようなその目線を打ち払うようにエリンは手を振る。柄にもないことを言っている自覚はあるようで、気まずそうに早口で話し出した。
「別にあいつのためじゃない。ウッカリは性格だとしても、道を間違えたり、人の顔を覚えられないのはたぶん見えてないせいなんだ。だから、眼鏡があれば直る。このままじゃ、尻拭いで全部あたしに皺寄せが来るんだよ」
言い放って、プイッとそっぽを向くエリン。それを横目で見ながら、アイザックは顎に手を寄せ、考える素振りを見せたが、直ぐに頷く。
「…良いだろう」
「…ホントに?」
言ってはみたもののまさか許可されるとは思わず、エリンはポカンと口を開けた。
眼鏡は、高級品だ。それこそ庶民なら一月の給料を丸々つぎ込んだところで買えないくらいの価値がある。そんなものを、易々とメイドに買ってもらえるとは思っていなかった。
「お前の負担が減るのだろう?」
そう言うと、アイザックはエリンの頭にポンと手を乗せる。
眼鏡の件に気を取られて、避けることもできなかった。
「少し寝ていろ。俺はもう行く」
彼が部屋を出たあと、ぽすんとエリンはベッドへと倒れ込んだ。
◆
アイザックは有言実行の男だった。
その日のうちに、憮然としたリアムに連れられた眼鏡屋がやってきて、事態についていけず、おろおろとするシェラの視力を測定して帰った。
そして、二週間後には納品された。
オーダーメイドの物を購入してくれたことも驚きだが、こんなに早く納品されたことも驚きだった。
アワアワしているシェラに、エリンは度が合っているのか試すようにいう。恐る恐る眼鏡をかけたシェラが、ゆっくりとエリンの方を見て目を輝かせた。
「エリン様!良く見えます」
「…そりゃ良かった」
「ありがとうございます!」
嬉しそうに笑うシェラに気まずそうに手を振る。
「礼ならあの男に言いな」
「いえ、でも、エリン様が進言してくださったと…」
「言うだけはタダだからな。…ほらさっさと仕事しな」
「はい!…ありがとうございました!!」
シェラは深々と頭を下げると、るんるんと仕事に戻って行った。
そこから彼女は見違える程、変わった。
やはり、見えていないから道や人が分からなかったようで、迷子になることがなくなった。さらに、見えないものを必死に見ようとすることで、必要以上に力が入っていたらしい。力が抜けたことで、パニックになることも減った。段差や、手元が良く見えるようになったことで、転ぶことも減った。
「なんだ、やればできるんじゃん」
そして意外なことに、シェラはアクセルをあやすのが上手だった。
動作に危なげがなくなったので、アクセルの世話を任せることにしたところ、これまで見たこともない顔でアクセルが笑ったのだ。
「……子供の相手、慣れてんだな」
エリンの呟きに、バッと顔を上げたシェラは恥ずかしそうに俯いた。
「私、6人姉弟の長女なんです。母だけではとても手が回らなかったので、小さな弟妹の面倒は昔から良く見てて……」
「ふーん…」
「えへへ、でも全部母の受け売りだったり、やっていたことを真似しているだけなんですけどね」
シェラの言葉にさっとエリンの顔色が変わったことが分かったのだろう。シェラがおずおずと「あの…」と声をかけてくるのに、何でもないと片手を上げる。
エリンには親がいない。いや、育ててくれた奴はいたが、決して親と認めたくは無かった。だから、何においても『普通』が分からない。
ソフィアは年上だし、自身が母親だからできることだと思っていたが、同じように子をあやすことが、エリンよりも年下のシェラもできるという。
自分が上手にできないのは、そもそも愛情をもって育ててもらっていないからかもしれない……。
(そんなこと、今更どうしようもないのにな)
その日は何となく、気分が晴れることがなく、そのまま夜になった。
今のシェラならば、夜のアクセルの世話もエリンと分担できるだろう。「今日の夜は任す」とエリンが言うと、シェラは顔を輝かせて元気良く返事をしてくれた。
世話を変わってもらったなら、さっさと眠りにつくべきだと、頭では分かっていたが、何となく眠る気分ではなく、エリンはそっと部屋を出た。
◆
「そんなところで何をしている」
「…背後に立つな!」
ぼんやりと、廊下の一部にもうけられたバルコニーに出て、風に当たっていると、アイザックに声をかけられた。
「…何かあったのか?」
言ってもしょうもないこと、と思いながらも、今日のシェラとのやり取りをポツリとこぼした。
「親がいないあたしには、どうやってアクセルに接していいか正解が分からない」
「……。お前はいつも俺にはどうにも答えようのないことばかりに救いを求めて来るな」
「…あぁ!?」
聞いたのはおまえだ、とばかりにエリンはアイザックを睨み付ける。
「それで今日の夕食では元気がなかったのか?」
まさか、そんな風に見られていたとは思わず、エリンは狼狽えた。アイザックは一度口をつぐむと、ポツリとエリンに問いかけた。
「……伯爵夫人はご健在だったと思ったが?」
「あたしは妾の子なんだと」
そう言って、エリンはこれまでの経緯を話した。
「は、お貴族様だと思って娶った嫁がこんなでがっかりしたか!?」
「いや?」
「……」
「俺はお前でなければよかったと思ったことはないし、別にこれからも思わん。何より息子はきちんと大きくなっている。……お前はよくやっているよ」
思いがけず優しいアイザックの声と言葉に顔を上げられず、俯くエリン。
「暖かい家庭と言うなら俺にも分からん。持っていないものを嘆いても今更どうしようもないし、お前もそう思う質だと思っていたが?」
「…あんたにあたしの何がわかるんだよ」
拗ねたようにエリンは答えたが、心は少し軽くなっていた。
今まで否定されることはあっても、肯定されることなど無かった。アイザックは、エリンを馬鹿にしない。衣食住も保証してくれる。
ホカホカと温かくなった心に気付きながら、エリンは一度ぎゅっと目を閉じる。
(絆されるな…何時までもこんな時が続くわけがないのだから)
目を開けた時には、もういつもの褪めた顔に戻ったエリンはふんと鼻を一つ鳴らして部屋に戻った。
それを見送ったアイザックはポツリと呟く。
「妾の子、か……調べてみた方がいいな」
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