あふれ出す花の匂い
いちみりヒビキ
(1)父と僕と悠真さん
幸せで幸せで仕方ない。
そんな日が来るなんて思っても見なかった。
不幸な事があった。
僕が高校生に上がる時、両親が離婚したのだ。
母は姉を連れて家を出て行き、また、父は僕を連れて家を出た。
不幸と言ったけど、父にとっては幸運だったのだと思う。
母は僕からみても、厳しく、怖い女性だった。
だから、気の弱い父は、母との暮らしは辛かったようだ。
僕と父が引っ越した先は、お隣の市の
そこには、大きな池のある公園があって、石畳の歩道や統一された色形の小さな建物が連なり、どこかヨーロッパの田舎町を連想させる街だった。
僕はすぐに気にいった。
父は勤めていた会社を退職し、退職金を元手にして小さなお花屋さんを始めた。
祖父は、仕事がら法律や店舗経営に詳しく、父は前々から相談していたようだ。
僕と父はそこで新しい生活を始めたわけだけど、二人暮らしを始めてすぐに衝撃的な事があった。
父がある事を告白したのだ。
その内容は、女性になりたい、だった。
父は若い頃から性の不一致に苦しんでいたのだ。
父は、離婚を機にこれからの人生は女性として生きていくと宣言し、女性の衣服をまとい、メイクを施すようになった。
それに、女言葉に女性の振る舞い。
僕は、戸惑いもあったけど思い当たる節はあったのですぐに納得した。
父が女性になったとはいえ、二人の生活にはまったくと言って程支障がない。
父は普段から、家事の多くは、母や姉よりもやっていたから、逆に、母と姉はこれから生活できるのかな? と、ちょっと意地悪く思ってしまったくらいだ。
父は、「ユウには迷惑は掛けない」と言い、ただ一つお願いは、今後生活に支障がないように、自分のことは『姉』だと思ってほしい、ということだった。
生活をしてある事に気がついた。それは、父の体の変化だ。
日に日に美しく女性らしさが増す。
付け加えて若返るというのだろうか。
元々、女顔で、男性にしては色白で小柄、そして高い声。
40歳に届こうかという男性の体がみるみるうちに、30歳台、いや20歳台の女性に変貌していくのだ。
きっと、こっちが本当の父なのだ。
真の自分を解き放ち、いろいろなストレスから解放され、眠っていたものが沸き上がった。
僕は、そう思った。
新しい街で新しい生活。
僕は、気持ちを新たに高校生活をスタートさせた。
ところで、お花屋さんという職業は、実は力仕事が多い。
鉢の入れ替えや、花の運搬などなど。
父は、フラワーアレンジメントの心得はあったけど、店の経営となるとそれこそ素人。
いざ蓋を開けてみれば、そのような作業の多さに、力仕事が不得手の父は、日に日に疲労の色を隠せなくなっていた。
僕は、見かねて、学校から帰ったら手伝うよ、と申し入れたけど、
「ありがとう、ユウ。でも、勉強もあるからたまにで良いのよ」
と、弱々しく笑って返した。
結局、祖父のアドバイスもあって、人を雇うことにしたのだ。
初めて
僕は、物陰からこっそりと窺っていた。
爽やかな笑顔で、僕よりも一回りも二回りも大きい大柄な男性。
年齢は20歳台。短髪で吊り目気味。キリッとした精悍な顔つき。
父の質問にハキハキと答えるその姿は、頼もしい印象を持ったが、ちょっと怖い気がした。
せっかく始まった僕と父の新しい生活。
そこに、かつての母のような存在を迎え入れてしまうのではないか?
そんな心配を本能的にしたのだと思う。
悠真さんが帰ると、父も悩んでいるようで履歴書とにらめっこしていた。
「姉さん、あの人を雇うの?」
「うん。そのつもり。ユウはどう思う?」
父の質問に、僕はどう答えるか迷った。
「ユウは嫌? なら、やめましょうか?」
僕は、首を横に振った。
「僕はいいと思う。でも、もし姉さんが辛い思いをするようなら辞めてもらう。それならいい」
「うん、分かった。ありがとう、ユウ。優しい子」
父は、僕の手を取りギュッと抱きしめた。
悠真さんの初出勤の時の事は今でも忘れない。
「
と、悠真さんは改めて自己紹介をして、深々とお辞儀をした。
そして、直るとにっこりと笑った。
僕は、何故だか胸がドキドキしていた。
父に、「ほら、ユウも自己紹介しなさい」と声をかけられて、ハッと我に返ると僕は焦りながら自己紹介をした。
「ユウか……よろしくな!」
いきなり下の名前を呼び捨てにされ、僕は気恥ずかしくて下を向いた。
その後、悠真さんから握手を求められたのだけど、その時の悠真さんの手の温もりは今でもしっかりと覚えている。
「悠真さん、鉢を並べて貰っても良いですか?」
「はい、ナギさん」
父の指示で悠真さんはテキパキと動く。
悠真さんは父のことは下の名前で『ナギさん』と呼んだ。
当然、女性と思っているようだ。
僕は看板を店頭に出しながら横目で悠真さんを見ていた。
あの大きな体にエプロン姿。
そのアンバランスさがなんとも気になってしまう。
いや、違う。
きっと、家族以外でこんなに近くにいる存在に興味が湧いているのだ。
「ほら、ユウ! 手が止まっているわよ」
「あっ、ごめんなさい。姉さん」
僕がそうやって度々、 悠真さんを見つめてぼぉっとしていると父から叱責が入った。
そのたびに、悠真さんは、
「俺が手伝うよ、ユウ。どうすればいい?」
と、手助けを申し出てくれた。
こんな風に悠真さんは進んで仕事をしてくれるものだから、僕が担当の仕事はあっという間に覚えてしまうのだ。
「悠真さん、僕が教えられる事はもうないです。悠真さん、仕事を覚えるの早いですよね」
ある日の店仕舞いの際に僕は悠真さんに声を掛けた。
すると悠真さんは、
「ユウの教え方がいいからだよ」
と、きっぱり答えた。
お世辞でもうれしい。
僕は照れながら、
「そんなことはないよ。悠真さんがすごいんだよ」
と言うと、
「まぁそれもあるな」
と、悠真さんはウインクしながらにっこり笑った。
僕もつられて笑ったけど、内心ドキっとしていた。
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