第14話 7月28日(2)

 脱衣所の中では、優里先輩が洗面台にすがるような姿勢で崩れ落ちていた。


「先輩! 大丈夫ですか? しっかりして下さい!!」


 呼びかけてもほとんど反応がない。かろうじて意識はあるみたいだけど、体中が異様に熱い。さっきまであれほど白かった顔は真っ赤で、そのくせ額には汗の粒ひとつにじんでいない。


「熱中症……脱水症状だ!」


 生物の教師が授業中の雑談で妙に熱心に解説していたことを思い出す。

 水分とナトリウム……主に塩分、が不足して、体温調節ができなくなっているのだ。対処法は確か、身体を冷やして、それから……。


「ごめ……力が」

「喋らないで。いいですか? 寝室に運びます!」


 必死だった。彼女が下着姿でいることも、その時はまったく意識する余裕がなかった。

 僕は両腕で彼女を抱え上げ、寝室のドアを蹴破るように開く。彼女をベッドに横たえ夏毛布で体を覆うと、すぐ台所に取って返す。


「……全然ないな、氷」


 製氷皿は一度も使ったことがないらしく空っぽだった。

 一瞬、コンビニに必要な物資を買い出しに行こうかと考えた。だがこの部屋はオートロックで、外からの開錠は先輩の手のひらの掌紋認証だ。鍵はない。

 今の意識朦朧とした先輩にインターフォンで中から鍵を開けてもらうのも百パーセント不可能だ。


「仕方ない、とりあえずここにあるものでどうにか……」


 ガサガサと物色すると、冷凍室にぎっしりと詰まっていたのは冷凍食品のレトルトパック。


「この際、代用できれば何でもいいか」


 再び脱衣所に取って返し、きちんとたたんで積まれたフェイスタオルをひとつかみ取ってくると、レトルトパウチを包んで即席の氷のうをいくつも作る。


「先輩、いいですか、これで体を冷やしますよ」


 首筋、脇の下、足の付け根……とにかく太い血管に近い部位を冷やせば、効率的に体温を下げられる。

 僕はしょっちゅう授業が脱線する生物教師に今だけは感謝しつつ、大の字でぐったり脱力している先輩の首すじと脇に氷のうをねじ込み、少しためらった末に太ももの付け根にも挟み込む。


「次は水分! あと塩!」


 バタバタと三たび台所に戻る。

 調味料ラックは空で、頭上の棚に未開封の塩と砂糖のパックだけがポツリと置かれていた。


「うわ! 本当に全然料理しないんだな」


 棚にずらりと並べられている食器類はほとんど新品だし、これまでもずっとあのキットミールしか食べてないことが容易に想像できた。

 僕はスープカップに砂糖と塩をひとさじずつ入れ、電気ポットでお湯を沸かして注ぎ、溶けるまでかき混ぜる。

 砂糖は水分の吸収を促し、塩でナトリウムを補給する。さらに冷蔵庫からミネラルウォーターをカップに足してお湯を冷まし、即席の経口補水液を作った。


「先輩、飲めますか?」


 寝室に取って返す。左腕を枕の下に差し込むようにして頭を抱え上げ、スプーンで力なく開いた口に補水液を運ぶが、先輩はうまく飲み込めない。ダラダラと口の端から流れ落ちてしまう。


「どうしよう……」


 先輩の症状はほぼ間違いなく熱中症だ。僕より体の小さな先輩は、脱水症状もより深刻なはず。


「先輩、救急車呼びますね!」


 だが、先輩はスマホを持つ僕の腕にすがるようにして必死に首をふる。


「……めて。救急車は呼ばないで」

「でも、このままじゃ……」

「……ませて。水を」

「でも先輩!」

「……ち移しでも構わないから、水」


 彼女の掠れた声は、単に僕の鼓膜を震わせただけじゃなかった。まるで心臓に直接冷たいくさびを打ち込まれたような激しい衝撃が僕を貫いた。


「……水、ちょうだい」


 うわ言のようにつぶやいて手をさまよわせる先輩を僕はこれ以上見ていられなかった。


「ストロー、いやスポンジのような何か……」


 僕はついさっき引っかき回したキッチンの情景を思い浮かべ絶望する。

 

「ああ! ないよそんな物!!」

「……水」


 かすかなつぶやきは、部屋を支配する重苦しい静寂に吸い込まれて消えた。

 国道を走るトラックのエンジン音も、遠くで鳴る救急車のサイレンも、今の僕には届かない。

 聞こえるのはただ、早鐘を打つ鼓動だけだ。ドクン、ドクンと、まるで全身が心臓になったように激しく響く。


 僕は覚悟を決めると、スープカップを手に取った。口に含んだ即席の補水液は、妙に存在感のある異物に感じられた。


「失礼、します……」


 もうろうとした彼女に、ゆっくりと顔を寄せる。視界が極端に狭まり、僕の目にはもう、先輩の唇しか見えなくなった。

 触れた瞬間、脳内で真っ白な閃光が弾けた。

 ボディーソープの清潔な香りと、熱に浮かされた彼女特有の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。唇の感触は、想像を絶するほどに柔らかく、そして火傷しそうに熱い。


「……んっ」


 先輩の喉がかすかに鳴る。僕は自分の体温を、迷いを、そして祈りをすべて口内の液体に託すように、ゆっくりと、慎重に彼女に流し込んだ。

 ぬるい液体が僕らの唇の間を伝い、彼女の喉を通り過ぎていく。一口、また一口。静まりかえった寝室に、彼女が嚥下する音だけが湿り気を帯びて響いた。


(これは医療行為、医療行為だから)


 必死に自分に言い聞かせるが、無駄だった。

 僕らはもう、以前の関係には戻れない。単なる先輩、後輩という関係が音を立てて崩れた。

 この柔らかさを、この熱を知ってしまった以上、先輩を単なる謎解きのパートナーとして見ることはもう、できそうにない。


 僕は何度もカップを啜り、同じ動作を繰り返した。 指先が震え、視界が滲む。 でも、唇から伝わる彼女の微かな呼吸だけが、僕をこの現世うつしよに繋ぎ止めていた。


◆◆


 先輩の容態がようやく落ち着いたのはもう夜だった。

 先輩は救急車を呼ぶことを頑なに嫌がり、かと言って僕が買い出しのために外出することはもっと嫌がった。

 仕方ないので即日宅配のオンラインスーパーで必要なものを見繕う。僕が先輩のそばを離れたのはトイレと宅配の荷物を受け取る時だけだった。


「迷惑をかけてすまなかった」


 数時間後、ようやくベッドから半身を起こせるようになった先輩は、珍しく神妙な顔つきで頭をさげた。


「これで貸し借りなしイーブンだな」

「イーブン?」

「ああ、私は今日、君に命を救われた」

「いや、そんなだいそれた話じゃありま——」

「熱中症で死ぬことだってある。知ってるよ」


 笑いながら手をふる僕の言葉を、先輩は真剣な表情でさえぎった。


「これで、もう君は私に恩義を感じる必要もなくなった」

「は?」

「私はこれまで、君の負い目を利用して面倒なことを押し付けてきたが、それももう終わりだ。今日限りで君を開放す——」

「先輩!!」


 僕は思わず大声を出した。

 自分で思ったよりはるかに大きな声になってしまい、先輩はびくりと身体をすくませた。


「僕が先輩に恩を感じているのは確かですが、だからといって渋々従っていると思っていたんですか?」


 「え?」といった表情で口を半開きにしたままの先輩に僕はさらに畳みかける。


「面倒って何ですか? あなたのリハビリに付き合えって言われたことですか? そんなの全然面倒じゃない……それに僕は、先輩を本気で尊敬してるんですよ」

「……へ?」

「先輩は確かに自分勝手だし、平然と既読無視するし、学校にだって全然顔を見せないし、生活面でも色々ダメダメな感じですけど――」

「なっ!!」

「だからといって僕は先輩に構ってもらえることを心底嫌だと思ったことは一度もないですよ。むしろ先輩の知識の深さと広さに憧れます。羨ましくさえ思います」


 それは僕の偽らざる気持ちだった。


「それに、利用しているというなら僕だってそうです。延田や他のクラスメートに面倒な話を持ち込まれるたびに、僕は先輩を頼りました。先輩があまり人と関わりを持ちたくないのは承知の上で、無理やり巻き込んだんです」

「いや、別に、それくらいは……」


 先輩は僕の顔を上目遣いに見ながらモゴモゴと言葉をつむぎ、自分のむき出しの肩にはっと気づいてきっと唇を噛んだ。


「でも、君は、見ただろ?」


 毛布に隠れた胸や脇腹、そしてふとももに手を這わせながら、先輩は弱々しい口調で顔を伏せる。


「私は、醜い欠陥品だ」


 そのことには気付いていた。

 極力見ないつもりだった。でも、どうしても目に入ってしまい、その傷の異様さに疑問を感じずにいるのは無理だった。


「……はい、見ました。本当にごめんなさい」


 僕は素直に頭を下げた。


「いや、そのこと自体はいい。緊急時だったし気にしてない。感謝こそすれ、君を非難するつもりはまったくない」


 気にしていないと言った割に、先輩は自分の身体を毛布でくるむようにしながら、ひどく悲しそうな表情をした。


「事故でね。車から投げ出されて崖を転がり落ちた。全身を百針近く縫う大ケガだった。幸い顔だけは無事だったけど、あとは……」

「え?」


 僕は先輩の言葉の異様さに思わず声を上げた。


「もしかして先輩……」

「ああ、私は家族に捨てられたんだよ」


◆◆


 先輩は、手渡した経口補水液のペットボトルを両手でもてあそびながら、ボソボソと言葉を続ける。


「私はもともと、都内の女子高に通っていたんだ。君も恐らく名前ぐらいは聞いたこともあると思う……」


 告げられた学校の名前に僕は納得の頷きを返す。女子高としては関東でも屈指の名門進学校だが、優里先輩の頭脳なら入学は難しくもなかっただろう。


「入学してすぐに生徒会に誘われて、風紀担当役員に任命された。いずれは生徒会長に……という声もあった。今から考えれば、当時の私はずいぶん調子に乗っていたよ」


 そう言って先輩は自嘲するように小さく口角を上げ、またすぐにハアとため息をついた。


「持ち上げられて自分の立場を勘違いした私は、幼稚な正義感を振りかざし、校内外のトラブルに次々に首を突っ込んだ。あの時の自分には、どんな問題も解決できるという根拠のない万能感があったんだ」

「遅れてきた中二病ですかね」

「む!」


 深刻な空気を少しでもやわらげようと口を挟んでみるが、逆効果だったらしい。先輩は顔を少し赤くして口を尖らせる。


「ったく。まあ、否定はしない。で、調子に乗ったあげくの果て、私は本物の犯罪に巻き込まれて、大ケガを負った」

「え?」

「同時に私は家庭内でも立場を失った。勘当されたんだ」

「どういうことですか? だって先輩は——」

「私はこれでもそこそこ良家の出でね、幼い頃から許婚がいて……まあ、今時流行らない政略結婚的なものだけど、文字通りの傷物に価値なんかないだろ?」

「いえ! 結婚にそもそも戦略とか価値とかそういう――」


 むきになって反論する僕を、先輩はからかうように鼻で笑う。


「言いたいことはわかるが、君は結婚に夢を持ちすぎだ。そんなことだからいまだに彼女の一人もできないんだよ」

「お、大きなお世話です! それに何でそんなことまで知ってるんですか!?」


 顔を赤くする僕を見て、先輩はようやく小さく笑い声をあげた。


「企業秘密だ……」


 生活能力皆無の先輩が一人暮らしを強いられている訳はそれだったのか。僕はその理由を悟ってなんだか憂うつな気持ちになる。


「あの一件で、色んなものを失ったよ。友達も、家族も……」


 彼女は小さくつぶやくと、どこか遠くを見るように顔を起こした。


「ちょっと疲れた……この先は、またいつか話すよ」


 先輩はあくびを噛み殺すように口元に手を添え、にじんだ涙をぐしぐしとぬぐった。


「私はもう少し眠る。君ももう帰るといい」

「でも……」


 僕はためらった。先輩の顔色はずいぶん良くなっているが、果たして一人きりにしていいものだろうか。


「あの」

「何だ?」


 やっぱりこのまま帰るのは心配だ。


「先輩さえ良かったらもう少し……そうだ、帰る前にお風呂、借りてもいいですか?」

「ああ、そうだったな。さっき抱き上げられた時も思ったが、今の君は少しばかり汗臭いよ。まぁ、不快な匂いではなかったけど」


 先輩はそう言って枕に頭をうずめると、小さく笑った。


◆◆


 風呂を借りる名目でリビングに戻った僕は結局、日付が変わる頃まで先輩の家に居座った。

 寝室のドアを細く開いて様子をうかがうと、規則的な寝息を立てる優里先輩の表情は穏やかで、体調はもう心配なさそうだった。


「おやすみなさい、先輩。せめて今夜は良い夢を」


 僕は眠り続ける先輩に向けて小さく呟くと、マンションを出て、蒸し暑い夜更けの街をゆっくりと駅へ歩いた。

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