比楽坂優里という謎を、僕はまだ解いていない。

凍龍(とうりゅう)

音楽室の幽霊

第1話 5月18日

 彼女は、僕が初めて本気で好きになった人だった。

 比楽坂優里ひらさかゆり

 

 あの日、彼女は忽然と姿を消した。

 残されたのは、二枚の写真と、添付された座標データ。

 それきり、連絡は途絶えた。


 テニスコート脇の遊歩道、駅前のカフェ、静まり返った教室。

 そこに、彼女の姿だけが、きれいに切り抜かれたように存在しない。

 

 今にして思えば、彼女が見せた少しだけ寂しげな笑顔――

 あれが、すべての予兆だった。


 ――比楽坂優里という謎を、僕はまだ解けていない。


◆◆◆


 五月、新緑の昼下がり。

 桜はすでに散り、若葉が陽光を弾いて輝いていた。

 その日、僕はテニスコート脇の遊歩道で思わずカメラを構えた。

 目の前にいたのは、スモークゴーグルに全身をすっぽり覆う草色のポンチョ、腰だめに構えたモデルガンMP7

 異様な光景に思わずシャッターを切った、次の瞬間。


「おい、君!!」


 鋭い声が飛ぶ。


「無駄な動きをせず、ゆっくりとこっちに歩きたまえ!」


 それが比楽坂優里との出会いだった。


(最悪だ。盗撮と誤解される…‥)


 望遠レンズ付きのデジタル一眼レフ、場所はテニスコートのそば。これでは言い訳の立ちようがない。


「ああ、違うんです、これはですね――」


 弁解しようと両手を上げ、謎の人物に向かって踏み出した瞬間、二の腕にズキリと鋭い痛みを感じた。


「痛っ!」

「だから言ったのに!」

 

 彼女は銃を投げ捨て、猛然と駆けて来た。そのまま僕の背後に向け数メートルもの火炎を噴き出す。


「は?」


 あっけにとられる間に水飲み場に引きずられ、強引にカメラを取り上げられる。


「シャツ、脱いで!」

「へ? 痴女?」

「何言ってるんだ君は! 刺されたろ? 腫れているはずだ」


 確かに、二の腕は熱と痛みが脈を打っていた。

 言われるままTシャツ一枚になったところで、彼女は自身の靴紐を抜いて僕の腕の付け根をきつく縛り、蛇口をひねって冷水を浴びせる。


「過去に蜂に刺されたことは? アレルギーはあるか?」

「確か、昔、スズメバチに刺されたことが。あと、軽いアトピーが……」

「……ヤバいな」


 彼女はゴーグルを脱ぎ捨て、猫のように鋭い目つきで僕の二の腕を眺める。次の瞬間、彼女はいきなり僕の腕に噛みついた。


「なっ!!」

「心配するな! 災害救護員の講習は受けている」


 腕を吸い、ぺっと吐き出す動作を繰り返しながら、彼女は申しわけなげに眉を下げる。


「私の判断ミスだ。もう少し周囲の動向に気を配るべきだった。まさか盗撮を企てる人間が潜んでいるとは――」

「それは誤解です! これは正当な依頼……」


 言い訳を始めた途端に強いめまいに襲われた。

 顔全体が妙に熱い。


「あー」

「おい、君! 大丈夫か!! 気を確かに持て!!」


 次の瞬間、まるでシャッターが降りるように目の前が暗くなった。 


◆◆


 気がつくと、あたりはすっかり薄暗くなっていた。


「……ここは?」


 カーテンの隙間から差し込む夕日がまぶしい。

 身体を起こそうとしたところ、ひんやりとした手のひらで額を押され、再び枕に頭をうずめられる。


「保健室だ。君はテニスコートのそばで倒れた」

「……ああ」


 そうだった。思い出した。

 後で聞いた話では、彼女は僕を背負って保健室に運んだらしい。確かに僕は平均より小柄だが、女の子に抱えられる体重じゃない……どこにそんな力があるんだ?


「めまいはどうだ? 息苦しさは? 校医の話ではもう心配はいらないらしいが……」


 のぞき込んでいるのはテニスコートのそばで出会った少女で間違いない。彼女は医者が診断をするように、淡々と質問を重ねる。


「あなたは?」

「……ああ、優里ゆり比楽坂優里ひらさかゆり。二年」


 彼女は、どうでもいいとでも言いたげな表情で投げやりに自己紹介した。


「比楽坂先輩……僕は一体?」

「ああ、君はスズメバチに刺されてショックを起こした。ハチ毒に過剰反応したんだ」

「ああ、アナフィラキシーショック、でしたっけ?」

「そう。校医いわく、応急処置と薬が効いたと……素人診断をするなと叱られたがね」

「応急処置? ああ、アンモニア……もしかして、あの?」

「……馬鹿か君は」


 優里先輩は心底呆れたような顔つきになった。


「でも、虫刺されには尿って」

「俗説だ。効かない」

「え、今日まで信じてましたよ」

「現代人ならもう少し科学的な知識を身につけろ」


 僕はしかめ面の彼女を見上げながら、ふと違和感に気づく。


「あれ、でも今、薬が効いたって言いましたよね? 誰が、一体どうやって……」

「それは別にいいだろ!」


 彼女はなぜか憤慨し、顔をさらに赤くして学生鞄から市販薬の小箱を取り出すと僕に投げつけた。


「これ。原理上、ハチ毒のアレルギーにも効くはずなんだ」


 パッケージを確かめると、僕も花粉症のときに使う強めの鼻炎薬だった。


「とはいえ、気が動転していたとしても、ずいぶん乱暴なやり方だった。先生にも叱られたし、もう二度とやらない」

「……よくわかりませんが、そのままだと危なかったんですよね?」

「ああ。最悪、息の根が止まってたかもな」

「だったら、お礼を言うのは僕の方ですね。先輩は命の恩人です。本当にありがとうございました」

「あ、ああ」


 彼女は照れくさそうに顔を背けると、鞄を持って立ち上がった。


「じゃあな。妙なことに巻き込んですまなかった。いいか、アナフィラキシーは後で症状が出ることもある。違和感があればすぐに病院に行くこと。いいね」


 そう念を押し、彼女は背中を向けたまま立ち止まる。


「しかし、礼を言われるとは思わなかったよ。普通なら怒鳴られてるところだ」


 最後の言葉には、諦めにも似た影が宿っていた。まるで、人から感謝されることなどみじんも期待していないような。

 遠ざかるきゃしゃな背中を見て、僕は忘れていた疑問を思い出した。先輩はあの時、まるでサバイバルゲームのような装備で僕に銃を向けていたのだ。


「ところで、先輩はあそこで一体何を? あと、あの炎は?」


 途端に先輩の肩がピクリとはね上がる。


「女子テニス部の主将が泣きついてきたんだ。蜂の巣退治なんて引き受けるんじゃなかった……」


 彼女はトイレットペーパーの芯ほどの大きさのスプレーボトルを僕に放ると、そのまま、まるで逃げ出すように保健室を出て行った。


「ヘアスプレー?」


 女子がよく持ち歩いている整髪料だった。成分表には「エタノール・LPGプロパンガスの文字。あの火炎放射の素はこれらしい。

「……あれ、もしかして……」


 モデルガンに火炎放射——もしかして、そもそもハチを刺激して怒らせた原因は彼女ではなかろうか?


「まあ、結果的に助けてもらったわけだし……」


 僕はそれよりも、彼女の最後の言葉が妙に引っかかった。


〝普通なら怒鳴られる〟


 彼女は当たり前のように言った。

 あの回りくどい謝り方。きっと素直になれない性格なんだろう。だが、奇抜な行動の裏には、驚くほど科学的で論理的な思考があった。


「明日、改めてお礼をしよう。そして……」


 手の甲にチラリと見えた色の違う皮膚や、手慣れた応急処置。そして、どこか冷めた、諦めたような表情。


比楽坂ひらさか……優里先輩か」


 ヘアスプレーの缶を手の中で転がしながら、僕はこの謎めいた上級生のことをもう少し知りたいと思った。

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