第6話 犯罪談義
本棚にある本を見ていると、何か心理学の本が数冊あった。それ以外というと、ほとんどが歴史に関係する本であり、文庫本の数冊が小説関係の本だった。
「堅苦しい本ばかりかと思ったけど、小説なんかも読むんだな」
と清水刑事は言った。
その小説は、昔の探偵小説で、大正末期から、昭和初期の探偵小説の黎明期のものであった。
「いやあ、懐かしいな」
と辰巳刑事はその探偵小説を見て、懐かしがっている。
「これらは、高校時代に読み漁りましたよ」
と言った。
「私もこれらは、大学に入って読んだかな? 少し遅いかと思ったけど、意外と大人が読んでも感じるものがあったよ」
と清水刑事が言った。
「僕の場合は、時代背景が古いので、想像力を掻き立てることができるので、それだけ大げさに想像できたようなんです。特に戦前の話というのは、時々ドラマや映画では見ていたので、情景が浮かんでくるようでね。しかも、その時代の服も結構好きだったりするんです。意外と今着て居たら、トレンディだったりしないですかね?」
「そんなものかな? でも、私はちょっと違った目で見るんだ。私は時代背景にある歴史を感じながら読んでいると、昭和初期の動乱と、軍が関与している犯罪などを考えたりすると、結構違った意味で想像力が豊かになる気がするんだ」
二人は、探偵小説談義に花を咲かせているようだった。
「当時の小説は、猟奇的な話が多かったり、どこかサスペンスタッチなものが多かったりするんじゃないかって思うんですよ。私立探偵が活躍する話には、そういう時代背景が多いですからね。結構格好良かったりするんでしょうね」
と辰巳刑事はいうと、
「辰巳君は、猟奇的な話が好きなのかな?」
と清水刑事に訊かれて、
「やっぱり、現代との違いを、猟奇的なところに求めるのは、自分が刑事になったからだという感覚はあるかも知れないですね」
「じゃあ、君は謎解きやトリックなどを駆使したいわゆる『本格探偵小説』というのをどう思うね?」
と訊かれて、
「嫌いではないですよ。むしろ好きな部類ですよ。高校の頃などは、探偵小説が好きな仲間が集まって、トリックや謎解きを自分たちで考えたりしていたものですよ」
と辰巳刑事がいうと。
「とことで、まだ黎明期だというのに、同時であっても、すでにトリックのネタは出尽くしていると言われているのを知っていたかい?」
「ええ、当時の売れっ子作家の一人が、評論の中で書いていることですよね。殺人や殺害方法にもいろいろあるけど、基本的なものは、ほぼ出尽くしているという考え方ですよね?」
「ああ、そういうことだ。先にいっておくが、これはあくまでも探偵小説の話だから、フィクションだということにしてだな。トリックの種類を並べてみようか?」
といきなり、清水刑事の頭は探偵小説に入ってしまったようだ。
辰巳刑事もこういう話は嫌いではないので、こういう話ができるのも、願ったり叶ったりというところであるが、清水刑事も結構しているということで覚悟してかからねばなるまい。
辰巳刑事は少し考えてみた。
「それは、アリバイトリックとか、密室トリックというやつですか?」
「ああ、そうだ」
「分かりました。じゃあ、まず今のアリバイトリックに、密室トリックでしょう? あとは一人二役のトリックに、顔のない死体のトリック。あとは、探偵小説にしかありえないことであるが、叙述トリックなるものでしょうね」
と辰巳刑事はすぐに浮かんできたトリックを並べてみた。
「なるほど、ほとんど網羅されていることだよね。ところでこの中でそれぞれに分類できるとすれば、どれとどれで分類できるかな?」
「例えば?」
「例えば、そうだな、密室や顔のない死体のトリックは、最初から早い段階で分かっていないと話にならない。つまりは、謎解きだよね。でも一人二役の場合は最後まで隠しておかなければならないトリックになる。つまり、一人二役だと分かった時点で、犯人も動機もすべて分かってしまうということだね。さらに、密室などは、アリバイトリックに遣われたり、顔のない死体のトリックは、被害者と犯人が入れ替わっているという公式が成り立つかどうかということこがミソだった李するね」
と清水刑事はいった。
「なるほど、そういう分類ですね。じゃあ、私は、組み合わせで考えてみましょうかね? まずは、アリバイトリックと、密室は併用できる気がするな。また顔のない死体のトリックと、一人二役の併合の小説は読んだことがあります。つまりは、犯人と被害者が入れ替わっているわけではなく。同一人物だったというトリックですね」
「ああ、それなら私も読んだことがある。ところで、一つ興味のあるトリックがこの七にあるんだが」
「それは何ですか?」
「密室トリックなんだけどね。密室トリックというのは、謎を深めるという意味では、捜査のかく乱に使えるかも知れないけど、純粋な犯罪としては向かないものだよね。誰かを殺す必要があり、誰かに罪を擦り付けるとすれば、まず考えられるのは、被害者を殺す動機を持っている人、そしてその人のアリバイがないようにしておいて、次第にその人が犯人であるかのように見せかける。これがある意味完全犯罪に一番近いんじゃないかな? 下手に密室などを作ると、せっかく犯人を仕立て上げたのに、意味がなくなってしまうような気がする」
「なるほど、そういう意味では、密室殺人というのは、本当の犯罪では難しいでしょうね。しょせんは、機械トリックでしか、密室は作れないんだから」
「そうでもないよ。密室というのは、いろいろできる。例えば、まわりから監視されている状況であれば、その人が表に出ることも、誰かが侵入することもできないという心理的な密室であったり、道は一本しかない田舎道で、その道が台風か何かで切断され、他の土地に行けなくなったなどの自然災害による密室なんてのもあるから、ただ、そういう場足は、最初からトリックを考えるという計画殺人は難しいだろうな。そう考えていくと、探偵小説談義は、夜を徹してでもいくらでもできるというものだよね」
と、清水刑事は熱弁している。
「どうやら、ここの住人である、鳥飼さんも、そういう話が好きだったようですよ」
と言って、一冊のノートを辰巳刑事が広げたが、そこにはいろいろなトリックのことを細かくイラストのように描いてあり、鳥飼という男が、犯罪や探偵小説に対して。心理的に興味を持っていたことは間違いないようだ。
「ここに彼が考えたトリックや、小説のプロットになりそうなことがいくつか書いてあって、その中に好きなトリックについても書かれていますよ」
と辰巳刑事が続けた。
鳥飼の好きなトリックというか、犯罪方法は、
「交換殺人」
と書かれていた。
交換殺人というのは、自分が誰かを殺したいと思うが、まともに殺すと、自分に一番その人を殺す動機が強いため、当然のごとく第一の重要容疑者ということになる。
「一番の容疑者が、そのまま犯罪を犯せば、判で押したように、あっという間の逮捕劇になるに決まっている。アリバイや、他に犯人がいるかのようなカモフラージュでもなければ、警察の捜査はそれほど甘くない。だからこそ治安が守れるというものであり、それくらいできなくて、税金で作られている警察組織は却って、税金泥棒になってしまう」
と言えるのではないだろうか。
鳥飼のノートの最初には、自分が昔、ミステリー作家を目指していたようなことが書かれていた。その中の一環として、トリックについて書いていると、そこには記されている。
書いていたのは、今から三年前くらいである。ノートの表紙に年代が書かれていた。
その最初に取り組みたいトリックとして書かれているのが交換殺人であった。
それを辰巳刑事は、自分で読んでみた。一人で、
「うんうん」
と頷きながら読んでいるのだが、納得しながら読んでいる証拠で、本人とすれば、自分がそののーーとに集中していて、清水刑事が自分をずっと見ているということを忘れてしまうほどであった。
「そんなに面白いかい?」
と、辰巳刑事が少し我に返ったかと思えた瞬間、清水刑事は声をかけた。
「ええ、なかなか興味がありますね」
「何が書かれているんだい?」
と清水刑事に訊かれて、
「実際に書いた本人ではないので、本当のところは分かりませんが、どうやら鳥飼という男は、真剣にミステリー作家を夢見ていたようですね」
と辰巳刑事は答えた。
「それは最近のことなのかい?」
「いいえ、最近のことではないようです。このノートを見る限り、三年前と記されています。ただ、もっとも、今がどうなのかは分かりませんがね」
と辰巳刑事がいうと、
「それで最初に書かれている内容が交換殺人にいうものなのかい?」
「ええ、交換殺人に少なくとも他のトリックとは違った思い入れがあったのは事実のようですね」
と辰巳刑事は言った。
「なるほど、私も交換殺人という言葉は知っているし、ミステリーのドラマのようなものでは見たことがあるが、実際に小説で読んだり、本当の事件として扱ったことはなかったな」
と清水刑事がいうと、
「ええ、まさにその通りです。私もまったく同じで、小説で読んだこともなければ、実際に犯罪でも携わったことはありません。でもですね。犯人が何か事件の中で偽装工作であったり、捜査員に対して何かの欺瞞を演じようという意図を感じた時、頭をよぎるのは交換殺人なんです。ただ。よほどのことがなければ、そこまでハッキリと交換殺人は意識しませんけどね」
と辰巳刑事は言った。
「というのは、どういうことだい?」
清水刑事はニッコリ笑って聴いた。
清水刑事も彼なりに意見を持っているが、それを抑えて、まず相手に発現させる。だから、いつもこういう会話になるのだった。
「交換殺人というのは、他のトリックや殺害方法とは異質なものがあると私は思っています。その一番は、たくさんの偶然やタイミングが合わなければ成立しないということですね」
「たとえば?」
「ええ、まず例えば、交換殺人というのは、まず、自分が殺してほしいと思う相手を殺してくれる実行犯になる人が必要であるということ。その相手には、自分と同じで、誰かを殺したいという動機と覚悟があり、その動機も、頃さなれば、自分の立場や命が危ないであったり、今殺さないと、目の前にぶら下がっている巨万の利益を逃すことになってしまうなどの、確固たる殺人の理由を持った人が必要だということですね。しかも、その人と自分とは、表向きな接点があってはいけない。それも大切なことだと言えるでしょう」
「なるほど、交換殺人というのは、表に見えていることが少なければ少ないほどいいわけだからな」
と清水刑事が言った。
「そしてもう一つは、お互いが相手の一番殺したい相手を殺すのだから、一種の連続殺人なんだが、それを見破られてはいけない。まったく別の殺人と見えていなければいけないということ」
「それは当たり前のことだね」
「ええ、だから、どちらの殺人にも細心の注意が必要になってくる。もし、自分が相手の殺してほしいと思っている相手を殺したその時には、相手には鉄壁のアリバイが成立していないといけない。だから、タイミングは完璧でなければいけないし、実行する時は、絶対に自分の犯行を示唆するような証拠は残してはいけない。それはもちろん、目撃されていてもいけないし、指紋が残っていてもいけない。それだけ、自分が殺意を持った相手を殺す場合の何倍も気を遣うし、計画も綿密にして、その通りに実行されなければいけない。これほど緊張する犯罪もないのではないでしょうか? しかも、自分はあくまでも実行犯であり、ロボットのようなもの。実行することにメリットは何もないそんな状況に耐えられるかどうかというのも、問題ですよね」
と辰巳刑事は言った。
「うんうん、そこまでは考えなかった。ドラマを見ているそこまでは感じないものだもんな。シナリオを描く人や監督がどこまで交換殺人を意識しているかということが大切なことだが、ドラマというのは、二時間なら二時間という枠がある。その中で演じるのだから、きっとそういう心理的な部分を描くのは難しいのかも知れないな」
「でも、ドラマだからこそ、心理的な部分は綿密に描かないといけないと思うんですよ。交換殺人というのは、確かにそのまま演じれば、これほど機械的で静かな殺人もない。表に出てくる部分はそうでなければいけないからね。だから、解決編に至るまでは、静かに展開してもいいのだろうけど、いざ解決編に入り、犯罪の回想に入った時は、いかに犯人の心理を描くことができるかというのが、難しいのではないでしょうか?」
「やはり、ドラマで描くのにはどこかに限界があるんだろうか?」
「本だと、心理描写の開設はできるけど、ドラマではそうもいかない。そのあたりが難しいところだと私は思うと」
と、清水刑事は言った。
「もう一つ、交換殺人では大切なことがあるんですが、この部分があるから、実際の犯罪ではありえないと僕は思っているんですよ」
と、辰巳刑事が、
――いかにも核心―-
とでも言いたげにニヤリと笑った。
辰巳刑事というのは、プライベートなことを言う時や、ニヤリと笑いながら話す時は、相手が清水刑事であっても、いや、清水刑事だからこそ、敢えて自分のことを、
「僕」
ということが多い。
事件などで清水刑事と相対した時は、
「私」
というのだが、そうなると、この私という言い回しも、どこか形式的に感じられると思うのは、清水刑事だけだろうか。
「伺おうか?」
と辰巳刑事がいよいよ話したいことに入ってきたと思った清水刑事も、そう答えた。
これも二人の間ではいつものことであり、普通に無意識の会話であった。
「交換殺人というのは、普通なら成功する確率というのは、この痕に話すとおりでですね、限りなくゼロに違いと思うんですよ。でもですね。成功すれば、これほどの完全犯罪はないと言えるのではないでしょうか?」
と、辰巳刑事は言った。
「なるほど、確かに成功すれば、お互いに自分とはまったく関係のない人間を殺しているのだし、主犯の本人には完璧なアリバイがあるので、これ以上安心なことはないんですよね」
と辰巳刑事がいうと、
「でも、ここでいうところの成功というのは、どういうことなのかね?」
という清水刑事の漠然とした質問に、最初は言葉の意味を察しかねていた辰巳刑事だが、すぐに理解したかのように、
「そうですね。何をもって成功というかですね。今から二十年くらい前までは、時効というのがありましたので、十五年犯罪が露呈しなければ、いくらその後露呈しようが、罪に問われることはない。でも、今は殺人事件のような凶悪犯には、時効はないんですよ。それを考えると、いつ犯罪が露呈しないとも限らない。それを絶えず考えながら生きなければならない。そうなると、死ぬまで決して安心できないということになる。十五年でも大変なのに、本当に耐えられるかどうかということですよね?」
「ああ、そういうことなんだ。いくら、冷静沈着に機械のように完全犯罪を成し遂げたとしても、精神的にどれだけ維持できるかが問題なんだよな」
と、清水刑事はしみじみとそういった。
「しかも、交換殺人なのだから、相手が必ずあることですからね。自分だけの精神状態の問題ではない。むしろ相手がおじけづいて、自首でもしようものなら、こっちも罪になってしまう。相手が自首する覚悟を決めてしまうと、一蓮托生の自分も終わりになってしまうことは一目瞭然ですからね。そこまでどんなに完璧な犯罪であっても、あっという間にあっけなく犯罪は幕を閉じることになるわけですよ。これほど、情けないものはないと、見ている方も感じるかも知れませんね。下手をすると犯人に同情したりなんかしてですね。そんな犯罪って、考えただけでもありえませんよね」
と辰巳刑事は苦笑いをしながら言った。
これほどの複雑な笑いを見たことがないと清水刑事も思った。心底笑おうとしているのに、どうしても笑うことができない。そんな雰囲気である。
「そのあたりも、確かに実際の犯罪にはあり得ないところなんだろうね」
「そうなんですよ。肝心なところは、それぞれの犯人がお互いを少しでも知っているということを誰にも知られないことが大切なんですよ。交換殺人が実際に行われてしまうと問題になってくるのは、当然動機ということになる。誰が被害者に死んでもらうことで助かるのか、あるいは利益を得るのか、そのあたりから捜査は始まりますよね」
自分たちは捜査のプロだという意識の元に話をしている辰巳刑事だった。
辰巳刑事は話を続ける。
「そして次に被害者や容疑者のまわりとの関係を探ることになる。その中に、同じように誰かに対して殺人の動機を持っている人がいて、その人の動機を持った相手が同じように殺されていると分かればどうだろう? ただの偶然として考えるだろうか。確かにありえないという考えの中でも、一応捜査の基本として、疑わしいことはすべて調査するという考えがあるだけに、一応は調べるでしょう。そうなった時、お互いに相手のアリバイは完璧すぎると却って、怪しいと思う人もいるかも知れない。だからそう思わせないようにするには、絶対に二人の関係を知られてはいけないんですよ」
「なるほど」
「それとですね。自分が殺しを行っている時、相手は完璧なアリバイを得る必要がある。だから、交換殺人は絶対に同じタイミングではできないと言えるんですよね。しかも、二人の関係を知られてはいけないという理由から、この二つの殺人が絡んでいるということも絶対に知られてはいけない。それぞれが単独犯でなければいけないという条件もここに加わってきます」
と辰巳刑事がいうと、
「うんうん」
と頷きながら、清水刑事も少し前のめりになっているようだ。
それだけ辰巳刑事の話が核心に近づいていることが分かっているからであった。
「交換殺人というのは、そういう意味で、それぞれに時間を空ければ空けるほど、いいということでもある。ただ、それはあくまでも理論上のことで、そこに心理的な問題、いや精神的な問題というべきか。それが絡んでくると、少し話は違ってくる」
という辰巳刑事に対し、
「それで?」
と煽るような言い方をした清水刑事だが、清水刑事がこういう風に聞くということは、彼には大体辰巳刑事が何を言いたいのか、ほぼほぼ分かっている証拠である。
ひょっとすると、最後まで言いたいことのすべてを分かっているのかも知れない。
清水刑事と辰巳刑事の関係の神髄はそういうところにある。
相手が何を言いたいのかを言わせるのがうまく、先読みできるのが清水刑事であり、自分から意見を言いたいという思いが強く、それを引き出してくれる清水刑事に敬意を表しているのが、辰巳刑事であった。
彼らが、
「名コンビ」
と言われ、ずっとコンビ解消にならない理由はそこにあった。
「つまりですね。普通の殺人では、犯罪を犯す実行犯と、犯罪を犯すことによって得るメリットがある人というのは、基本的には同一人物であるか、血縁縁者などのような、かなり深い関係でなければならないですよね。稀には脅迫されて殺人を行うなどの例もありますが、ここではややこしくなるので、除外しましょう。でも、交換殺人の場合はそれがお互いにタスキを掛けたような形になるので、それぞれの立場があくまでも対等でなければいけないわけですよ」
「うんうん」
清水刑事も辰巳刑事が何を言いたいのか、次第に分かってきたが、その状態を維持しながら、前のめりで話を訊いている。
「でもですね。もし、相手が自分の望み通りに自分が殺してほしい人を殺してくれて。自分に完璧なアリバイを作ってくれたとすれば、どうなります? これは今度は僕の立場になっての話なんですけどね」
と清水刑事に訊いた。
「そりゃあ。もう何もしないだろうね。今の君の話にあったように、二人は対等ではなくなったわけですからね。相手が自分の利害のある人を殺してくれたことを幸いに、そこから先は何もしなければ、自分の完全犯罪ですよ。自分には完璧なアリバイがあるのをこれ幸いに、一番優位な立場にいるわけです。相手は逆に追い詰められた感じだよね。なぜなら、まったく恨みも何もない相手を殺したわけだから、もし捕まっても情状酌量の余地もない。もし、これを交換殺人だと言ったとしても、捜査員はそんな言葉は戯言だとしか思わない。実際に起きることはないと思っているし、何よりも、その男がやったことにはアリバイもなければ、他に犯人もいない。そうなってしまうよね?」
と清水刑事はいうと、
「ええ、その通りです。つまり、交換殺人は対等の立場でなければ成り立たない。相手が殺人をしてくれれば、もう自分がしなくてはならない義理はあるかも知れないが、あくまでも義理であり、義務はないということですよ。相手に梯子に上らせて、その梯子を取り外すと、降りてくることができないという理屈と一緒ですね」
と辰巳刑事は言った。
「要するに、相手を有利にするために、自分が利用されただけだということだよね?」
「ええ、その通りです。相手も、こんなにおいしい立場になっているのだから、もうここからは余計なことをする必要はない。最初から二人の関係はお互いに隠し通してきたわけだから、いまさら何を言っても誰も信用してはくれない。だか、交換殺人は失敗するんですよ。これは普通の共犯でもなく、誰が見ても単独犯でなければいけないように装うのが一番のミソだということです」
「殺人犯は、決して許してはいけないし、殺人に情状酌量などはないとしても、ここでの立場で裁判をするとすれば、相手に罪を着せるのと同じ意味で、殺してもらった方は地獄行き、騙された方は、恨みを持ったまま苦しむことになるという。どちらにもいいことのない運命が待っているような気がしますね」
「お互いにいいことないよな。失敗すると、本当にろくなことはない。しかも成功する確率はほぼないしな」
「ええ、立場が対等ではなくなった瞬間から、交換殺人は終わりないです」
「なるほど、この犯罪はお互いの関係性で成り立つ殺人とも言えるわけだな」
「その通りです。それに、交換殺人を見ていると、他の犯罪の教訓にもなるんですよ。例えば他に共犯を持てば、その共犯が多ければ多いほど、相手に裏切られやすいとも言える。共犯が三人いるとすると、相手が全部グルになって。自分だけが悪者にされてしまうことだってないとは言えない。犯人が一人で、自分が犯人ではないと言っている人の中には、本当に冤罪であり、共犯者に裏切られた人というのもいるかも知れないですね」
「そうだね、そう思うと、普通の殺人でも、共犯と主犯はそれぞれの立場で、対等でなければいけないということだろうね」
「というと?」
「主犯と共犯というと、まるで社長と社員のようなものだとすれば。社長は社員に仕事をしてもらう代わりに、給料を保証し、逆に社員は給料を保証してもらった代わりに、仕事で奉仕するという関係。それは、それぞれで主と従なのかも知れないけど、お互いにタイ島ともいえる立場でもある。そういう意味で、主犯と共犯もその関係性が壊れると、裏切った方は裏切られた人を身代わりにして、自分が表に出ないようにすることだって可能なんだ。何しろ、共犯しか主犯の犯罪を知らないし。動機も知らない。裏切ろうと思うと簡単なのだろうが、お互いの関係を崩すことが、自分を絶対に安全にできるかというと、難しいよね」
「なるほど、そうですよね。交換殺人で相手が自分の殺してほしい人を殺してくれれば、その瞬間に自分が絶対に安全になるわけだ。逆にこの時以外、安全な時はありえないわけだ」
「そういうことだ。だけど、これはあくまでも警察に捕まるという意味で、主犯を裏切ることで自分が安全だということになる。これをもっとリアルに考えると、少し違った見え方が出てくるんだよ」
と清水刑事が今度は、衆道系を握ってきた。
さらに清水刑事は続ける。
「交換殺人で裏切った方は、警察に対して絶対的な安全性を手に入れたわけだが、もう一人の犯人との関係はどうであろう? 自分がその男の目の上のたん瘤を殺してやったから得られた自由を守ろうとする。しかし、裏切られた方は、自分は殺人犯で、しかも、何の恨みもない人を殺したのだから、情状酌量などもない。動機のない殺人として調べられるだろう。当然警察に動機を訊かれて、交換殺人の話をしても、信じてもらえる確率は少ない。それでも信じてくれたとして、いくら捜査しても、交換殺人の証拠は見つからないだろう。何しろ、お互いに交換殺人を成功させるために、まったく連絡も取らなかっただろうし。証拠は隠滅されているはずだ。何か残っていたとしても、それは自分が不利になるものでしかない。いくら犯人を指摘しても、それは言い訳にしか聞こえない。逮捕されるということは、キチンと証拠も揃っているはずなので、どうしようもない。その証拠だって、裏切ったあいてが、でっちあげたものかも知れない。物証は残っていないとしても、証人くらいはでっちあげられる。死んでほしい人を殺したことで、いくらかでも財産が手に入る立場にいれば、証人の一人や二人、でっちあげるだけの買収用のお金だって手に入るというものだ。そうなると、十中八九実刑を食らうことになる。ただ、いくら凶悪犯として逮捕されても、懲役数年で出てくることになるだろう。裏切った方は今は安全でも、彼が出所する時のことまで考えているだろうか?」
と、言って、少し言葉を切った。
「なるほど、さすが清水さん、なかなかの分析ですね。確かに言われてみると、警察に対しては安全だけど、恨みを買ったまま生きていることになりますからね」
「そうなんだ。そういう意味で行くと、ここからが、第二幕の始まりだと言ってもいいだろう。交換殺人は解決してしまってから第二段がまた問題になってくるわけだね。刑期を終えて出所してくると、きっと世の中は変わっているだろう。ひょっとすると、自分が交換殺人で依頼した人との関係はすでに切れているかも知れないし、彼が殺人犯で刑務所に入った時点で、関係は切れてしまったかも知れない。そうなると、刑務所の中で考えていたことは、自分を裏切った相手に対しての恨みだけではないだろうか。その男に対しての復讐をいかにして行うか、今度は彼としても、余計な計画を立てることはないだろう。ひょっとすると、相手と刺し違えてもいいとまで思っているかも知れない。もし、そう思っていたとすれば、これほど怖いことはない。裏切った方は、せっかく自由を手に入れたということで、人生を謳歌でもしていれば。相当な油断があるだろうし、今度はお互いの立場はまた違ったものになっているだろうね」
「なるほど、そうなってしまうと、数十年は長いのか短いのかを考えさせられますね」
「そうなんだ、その年月に対しての感覚の違いがそのまま、自覚の違いでもある。出所してきた方は、復讐に凝り固まっているし、裏切った方は、相手が逮捕されるまでは、不安もあっただろうが、逮捕されてしまうと、いつかは出所すると思っていても、まさか本当に復讐にくるとは思わないかも知れない。それだけ平和ボケしているんじゃないだろうか?」
「考えてみれば、本当に怖いですよね」
「だから、復讐者はきっと容赦はしないだろうと思う。復讐することだけを考えて生きてきたのだとすれば、この数年間は彼にとって、長いようで短かったはず。そして裏切った方は、短いようで長かったんだよ。そこが二人の運命の分かれ目だよね」
「でも、どんな理由があるにせよ。復讐なんて許されることではないですよね?」
と辰巳刑事がいうと、
「案外辰巳君は、まともなことを言うんだね? 本当にそうなのかい?」
と言われて辰巳刑事はドキッとした。
清水刑事の方が冷静沈着で、復讐などというものは、いかなる理由があっても、認めることはできないと言わんばかりの人だと思っていたのに、この言い草はどういうことであろうか。
辰巳刑事は清水刑事の表情をじっと見つめて何を考えているのか、探ってみた。
その表情には何か不敵な笑みが浮かんでいて、そこから普段とは違う意味での余裕のようなものが感じられる気がした。気持ちの上では復讐者のような感覚になっているのだろうが、そこまで切羽詰まっているわけではないという気持ちが、清水刑事に余裕を与えるのあろうか。少なくとも今の清水刑事は復讐者の気持ちが乗り移ったかのようになっているようであった。
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