練習帳

青井志葉

忘却の対価

 空が深い紫色に染まる頃、人影の少ない路地に入ると、不思議とその喫茶店に行きつくらしい。

 少年は不確かな都市伝説を信じ、名も知らず、姿かたちも知らない喫茶店を目指し、薄暗い路地裏を歩き回った。

 路地裏から人で賑わう通りに出ること数度。夕焼けで燃え上がる、路地裏にしては比較的明るい道で、目当ての店を見つけた。

 それは黒い屋根と白亜の壁を持つ、西洋風の平屋であった。道側にある大きな窓には黒く華奢な面格子があり、ツタが絡まっている。その窓の隣には組子細工の片開きのドアが納まっていた。ドアをほのかに照らす灯りは極々普通の電球であるのに、どこか不気味さを感じるのは、事前に入手していた都市伝説の内容をそのまま再現したような立ち姿だったからなのかもしれない。

 少年はポケットから四つ折りにした写真を取り出した。丁寧に開けば、幼い少年を抱えて微笑んでいるかつての母が映っている。

「……よし」

 少年は意を決し、写真を片手にそのドアを開いた。

 カランとドアベルが鳴る。

「いらっしゃいませ」

 穏やかな男性の声が迎えてくれた。

 店内はレトロというのだろうか、テレビで紹介されるような情緒ある昔の雰囲気を持つ喫茶店であった。カウンターの他に、二人用のテーブルが二卓あるが、客は一人もいない。

「おひとりですか?」

 カウンター内でカップを拭きながら、黒い蝶ネクタイを締めたマスターが、口ひげに隠れた口でそう訊ねてくる。

「待ち合わせをしているんです」

 少年は答えた。

 マスターはカップを置くと、白髪交じりの髪を後ろに撫でつけた。

「どなたでしょうか?」

「僕の母です」

 少年は手にしていた写真をマスターに手渡す。マスターは写真を見詰めたあと、ゆっくりと顔を上げ、少年の目をとらえた。

「お代は、お支払いいただけますか?」

 少年は唾を飲む。都市伝説の通りの流れにわずかな恐怖を覚える。しかし、この流れのまま進めば願いが叶うと、興奮する心もある。

 真っ直ぐに見つめてくる深い紫色の目を睨みつけ、少年は自分のこめかみに人差し指をあて、二度つつき、

「あるものすべてを」

 都市伝説の通りの答えを返した。

「承りました」

 さて、ここから先は分からない。都市伝説はどれもこれもここまでの流れで話が終わっているからだ。

 何が起こるのか。恐怖と期待が一緒になって心臓を打ち叩く。

 マスターは微笑むと、緊張する少年の額に人差し指を当て、二度つついた。すると、少年の額から糸のような細く白い光がマスターの指先によって引っ張り出された。

 少年は背中がぞくぞくするのを感じた。くすぐったい箇所を指でなぞられているようなむず痒さ、嫌悪感、体のどこかを掻きむしりたくなる衝動がわく。マスターが何度も白い光を手繰り寄せる動作を見守りながら、早く終われと祈り続ける。

「……こんなところでしょうか」

 マスターは長い光の糸を少年の額から出し切ると丁寧に丸めて、手のひらサイズの毛糸玉にまとめ、サイフォンのフラスコへと納める。そして、少年から受け取った写真をロートへ入れた。

「最後の確認ですが、本当によろしいですか?」

「はい」

 少年は間髪いれずに首肯。

 マスターも頷き返すと、その手のひらに青い火を灯し、フラスコを加熱し始める。

「お母さまは亡くなられたのですか?」

「そうです」

「ご病気ですか?」

「事故です」

「それは突然でしたね」

 白い光がフラスコの中でうねる。踊っているようにも見えるし、熱から逃げようとしているようにも見えた。

「会われて、何をお伝えになるのですか?」

 ろ過器を通って白い光の先がロートに到達する。ロートの中の写真がふわりと浮き、白い光との接触を拒んだ。

「謝りたいんです。母が事故に遭った日の朝に喧嘩をしてしまって」

「それはそれは、さぞ心残りでしょう」

 蓋のないロートから写真は飛び出そうとした。しかし、マスターがやんわりと抑え込む。上に向かいたい写真に、白い光の先がようやく接触した。

 光に触れたところから、写真が焦げていく。見れば、フラスコに残っている白い光のほうもところどころ黒ずんでいる。

「さあ、もう少しですよ」

 写真の焦げ目から煙が立ち上る。焦げている範囲に比べて量の多い煙は天井にぶつかると薄く広がり、波を打つ。やがて渦を巻き、流動の模様はいつしか懐かしい面差しの影へと姿を変えていった。

「母さん……」

 少年は天井を見上げ、声を震わせた。

 煙に映し出された少年の母は唇を動かし、しきりに訴えかけているが、何一つ音にはならず、それを悟ると煙の涙を滂沱のごとく流した。

「さあ、時間がありません。どうぞ、お話しください。あなたの後悔を」

 少年は煙の涙を受け止めながら、母に手を伸ばし、

「母さん、ごめん。あの時、ウザイとか、うっせえとか言って、本当にごめんなさい。母さんが僕を心配してくれていたのは分かってる。帰ったら謝ろうと思ってたんだ。もう言えなくなるなんて思ってなかったんだ。本当に、ごめんなさい!」

 天井から煙の手が伸びてくる。音が出ないと唇は、それでも少年に何かを語りかけている。煙の雨はいっそう激しくなる。

「母さん、母さん……」

 少年は涙を流しながら母を呼び続けた。

 少年の手と煙の手が今まさに触れ合う、その間際、天井にわだかまっている煙が一方へ急激に流れ出した。吸い込まれている。

 煙は少年へ必死に手を伸ばす。少年も煙の手を掴もうと手を伸ばす。けれど手と手はどんどん離れていく。指先だけでも触れ合いそうだった距離は、もはや届きようもないものになり——。

「母さん!!」

 手を伸ばした先で、少年の母の姿をした煙はマスターの口の中に飲まれていった。

 サイフォンの中で、白い光と写真が同時に燃え尽きた。

「時間切れでございます」

 くすぶった口の周りを長い舌で舐めとり、マスターはにこりと笑う。

 少年はマスターに向けていた手を引っ込め、自身の手のひらをまじまじと見つめる。その手のひらに水滴が落ちるの気付き、それが己の流す涙だと理解すると当惑した表情を見せた。

「なんで僕は泣いて……」

 マスターはにこにことするばかりだ。

「お勘定、たしかに頂戴いたしました」

 マスターは慇懃に頭を下げ、手を組子細工のドアへと向けた。

「お帰りはあちらでございます」

 少年は首を傾げながらも、服の袖で涙をぬぐい、案内されるがままドアを押し開ける。

 ドアベルがカランと鳴った。

「本日はご利用いただきありがとうございました」

 敷居をまたいだとき、聞き慣れない女性の声に名前を呼ばれたような気がして、少年は肩越しに店内をかえりみる。

 ドアが閉まる直前、マスターが自分の口から飛び出した手の形を煙を鋭い牙で噛み千切っているさまが飛び込んできて、思わず体ごと振り返る。

 しかし、目の前にはあの喫茶店はなく、夕焼けに染まるコンクリートの壁がそびえるだけであった。



三題噺ガチャより:『喫茶店』『天井』『つつく』

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