第30話【番外編】ひとでなしのこい⑦

 何気なく口にした思いつきは、口に出した途端、妙に生々しく感じられた。

 この家に嫁入りした時に、この土蔵は倉庫として使っているのだと忠勝の両親から聞いていた。由緒正しい旧家であるこの家には、昔から高価な品物や珍しい掘り出し物が集まってくるらしい。

 ただ、その量が半端ではないらしく、また、高貴なお方から贈られた物も数多くある為、人に譲ったり、杜撰な扱いをすることも出来ず、そうした物を保管する為にこの土蔵が造られたらしい。

 だから、中は物で溢れかえって、足の踏み場もないのだと聞いていた。


(そんな場所に、果たして人が住めるものだろうか)


 だが、家康は、実際にこの土蔵の中を見たことがない。もしかしたら、自分の想像とは違って、この場所は忠勝が本当に愛した人と密会する為に作られた二人だけの愛の巣で、中には二人の為に用意された生活用品などが、きちんと慎ましく並べられていたりするのではあるまいか。

 無意識のうちに家康が指先を掛けていた土蔵の入口の扉が、力を込め過ぎたせいで、ガタッと大きめの音を立てた。


 落とし戸をゆっくりと開けて二階の部屋の中へ入ると、しんとした冷たい土の匂いと、微かな樟脳、そして、それに紛れたカビの匂いが鼻についた。

 家康の手の雪洞に淡く照らされた室内。視界に映る光景は、家康の予想通り、古い品物で溢れかえっていた。

 堆高く積まれた黄表紙本の数々、元は大層鮮やかな風合いだったと思われる、でも今は大分色褪せてしまった一面に夜桜が描かれた打掛け。長いこと使われてないと思われる夜具、流暢な筆文字で題名が記された煌びやかな絵巻物。古びた額縁の中の精巧な押絵細工は、中央に黒ビロードの洋服を着た白髪の老人が座っており、目にも鮮やかな振袖を着た美少女が、その膝にうっとりとしなだれかかっているという、何とも色っぽい構図をしていた。そして、部屋のあちこちに点在している、大小様々な大きさの黒塗りの箱の数々。

 室内の様子は、家康が想像してよりは雑然としてはおらず、思いのほか整頓されてはいたが、家康が思い描いていた忠勝の愛人の姿は見当たらず、またそのような人物が住める場所とも、やはり思えなかった。

 何度か繰り返し室内を注意深く観察してみるが、求める人の影さえ見当たらず、かといって、自分の思い違いだとも何故だか思えず、未だ消えないもやもやとした疑念を胸に、虚ろに視線を彷徨わせていた家康の動きが、ふと止まる。


 部屋の片隅にひっそりと置かれた三尺以上もある大きな黒い箱。


 その箱の上にちょこんと腰掛けるようにしている、世にも美しい娘の姿が目についたからだ。

 ぱっちりとした二重瞼の大きな瞳、不気味なほど赤いぷっくりとした唇。濡れ羽の様な黒々とした髪は、昔風の島田に結われており、零れ落ちそうなほど大きな白菊の簪が挿されている。猩々緋の目にも鮮やかな振袖に包まれたふくよかな胸、金糸銀糸の細やかな刺繍が施された墨色の帯。

 息を飲むほど美しいその娘は、いわゆる浮世人形というもので、身の丈三尺あまり、大きさでいうとちょうど十歳ほどの子供の大きさをしていた。

 今にも動き出しそうな、そのあまりに生き生きとした見事な出来栄えに、家康がほうと大きな溜息を吐く。


「すごいな……。こんな人形見たことがない、まるで生きてるみたいだ」


 きっとこの人形の作者は、かなりの名人なのだろう。人形に疎い家康には人形師の名など皆目分からないが、それぐらいは分かる。だってこんなにも、一目見ただけで、自分は魅入られてしまっている。許されるならば、いつまでだって眺めていたい。そんな不思議な引力のある美しい人形だった。

 四半刻、半刻、いやもしかしたらそれ以上かもしれない。時間の感覚も忘れるほど人形に惹き付けられていた家康の瞳が、ふいに落ちる。

 虫の知らせ、とでもいうのだろうか。何でそうなったのかは分からない。ただその時、人形から少しだけ視線を落として、その人形が腰掛ける黒塗りの箱を一度見た。  

 一度見て、それ以後、家康の瞳はまるで縫い付けられてしまったかのように、その箱から視線を反らせなくなった。

 あんなに見入っていた美しい人形も、鼻につくカビの匂いも、もはや意識に入ってはこなかった。

 まるで、この世界に家康とその箱以外、存在していないかのような不思議な感覚。  

 糸で手繰り寄せられるように、よろよろと家康が箱に近づいていく。蓋の上に座る人形を床の上に置いてどかすと、ゆっくりと指先を箱の蓋に掛ける。家康の白い指先は、カタカタと小刻みに震えていた。


(やめろ。その箱を開けるな!)


 頭の片隅で、もう一人の自分の声が聞こえるが、家康は自分の動きを止める事が出来ない。ずっと探し求めていた答えが、この中にある。それだけは、分かっていた。

 まるでコマ送りの様にゆっくりと、蓋が開けられていく。

 箱から蓋が完全に浮いた状態で、突然、家康は雷にでも撃たれたかの様に身を硬直させると、ひっと小さく悲鳴を上げて飛び退いた。

 ガラン、ガランと、床に落ちた蓋がけたたましい音を立てている。

 土蔵の外で、鳥たちが一斉に飛び立つ音を、混乱する意識の片隅で聞いた。


「な、……んだ、これは……」


 部屋の中央で立ち尽くす家康の顔は、紙よりも雪よりも白かった。

 完全に色を失くした唇は戦慄いて、上手く言葉を紡ぐ事が出来ない。

 これまで生きてきた二十数年間の時間の中で、これほどの恐怖を家康は感じた事がなかった。

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