第26話【番外編】ひとでなしのこい③

「まずい、急がないと間に合わぬ」


 若草色の着物に同系色の羽織り、深緑色の袴という新調したばかりの恰好で、朝早くこの家から出かけていった筈の家康が、何故か再び戻って来た。

 列車に乗る直前に忘れ物に気付いて、真っ青になって帰って来たのだ。

 先程からずっと家康の脳裏には、苦虫を百匹潰したよりも酷い親戚たちの形相が消えることなく浮かんでいる。今日は実家からの呼び出し、里帰りの日だ。遅れると、後が大変にこわい。ただでさえ、子供はまだか、跡取りはそろそろかと質問攻めにあうに決まっているのだから。

 カラコロと、おろしたばかりの柿色の鼻緒の下駄を鳴らしながら、裏門をくぐり抜ける。

 酸素が足りないと悲鳴を上げる己の肺を鼓舞して、小走りに庭を駆け抜けたところで、家康の足はまるで金縛りにあったかの様にピタリと動きを止めた。

 月が満ちていくかの様に、見開かれていく大きな瞳。満月の様にまんまるくなった家康の目は、一定の方向を凝視したまま固まった。


「……忠勝?」


 小さな呟きは、風に乗る前に掻き消えた。

 庭の中央に立ち尽くす家康の視線の先には、いつも見慣れた縁側。

 いつもと違うのは、そこに、こんな昼間から居る筈もない、縁側に腰掛けている忠勝の姿があったことだ。

 家康の視線に気づくことなく、忠勝はただ静かに庭を眺めていた。


「あ、えっと」


 久しぶりに会った夫に声を掛けようとして、しかし途中で口を噤む。

 まるで話すことがない。それこそが、家康と忠勝の今の関係だった。

 忠勝に話したいことも、聞きたいことも、家康には一つもなかった。陽の光の下で顔を合わせるのも本当に久しぶりの相手に対して、それはごく当然のことかもしれない。


 その代わり、家康は忠勝の姿をまじまじと見た。こんなにじっくりと忠勝の姿を見たのは、婚礼の時以来、初めてのことだった。

 降り注ぐ太陽の光を浴びて、黒髪がきらきらと輝いて見える。男らしいきりりとした太い眉、すっと通った高い鼻、口角の上がった大きめの口。元から整った顔立ちをした男だとは思っていたが、横から見た彼の顔は、その端正さが益々際立っているような気さえする。

 辛子色の半襟に、濃紺の着流し、漆黒の角帯に黒繻子の足袋というこざっぱりとした恰好ではあったが、忠勝の男らしい雰囲気と、その顔立ちをこれ以上なく引き立たせていて、何ともいえない男の色気を醸し出していた。

 長い足の上で、節くれだった大きな手を組みながら、忠勝はじっと庭を見つめている。

 何の関係もない家康から見ても(いや、夫婦なのだが)惚れ惚れする様な男振りに、何だかよく分からぬ感情を抱いて見入ってしまっていた家康が、はっと息を飲む。


 その時、家康は忠勝の瞳を見てしまった。


 彼の瞳は、庭を見つめているのではなかった。

 その瞳は、もっと遠く、ここではない、どこか別の場所を見ているかのようだった。婚礼の日に間近で見た際に感じた、透き通る様に澄んでいて、だが底が知れぬという印象を抱いていた彼の黒い瞳は、今は熱に浮かされたかのようにどろりと溶けており、その奥からは、狂気にも似た切迫した何かが滲み出ていた。

 家康は、忠勝のことは何も知らない。だがその時、確信した。


 彼は恋をしている。

 

 はるか遠い、決して手の届かない相手に、狂おしい程の恋心を抱いている。

それを確信した時、家康の胸がざわりと蠢いた。


「……?」


 胸の辺りが焼けつくような、何ともいえない不快感を感じて、思わず胸の辺りに手を添える。皮膚の下で何かが燻っているかの様な感覚に、家康が眉を寄せた。

 陽のあるうちには妻のいる家に寄りつかない、そして夜ごと布団から抜け出し、朝まで帰ってこない夫。ただ単に、変わった奴だと思っていたが、自分はとんでもないお人好しだったのかもしれない。

 カチリと寄木細工が合わさる様な音が家康の内から聞こえてきて、ずっともやもやと奥底で燻っていた煙のように胡乱なものが、形を伴った明確なものへと変化していく。

 忠勝の奇怪な行動の数々の理由を、彼の熱を孕んだ瞳の先に見つけてしまって、家康は今度こそ心の臓が抉られる様な鋭い痛みを感じていた。

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