第10話 二人きりの夜④

 「殿がこのまま逃げたいとご命じくだされば、必ず叶えてみせる。すべてを捨てて、誰も知らない場所で生きていきたいというのなら」という忠勝の言葉に、家康は何も答えなかった。いや、何も言えなかったというのが正しいのかもしれない。

 そんな言葉を誰かからかけられたことなど、これまでの人生でなかったからだ。

 焚火を挟んで、真剣な眼差しで見つめ合う忠勝と家康。

 緊張を解いた家康が、ハハッと力なく笑った。


「優しいのう、忠勝は」

「俺は真剣に」

「こんな忠臣を持って、果報者じゃ儂は」

「殿っ」


 どこか茶化した様子の家康を、忠勝が強い口調で制する。

 忠勝にとっては、冗談などではない。代々松平家に仕えてきた本多の侍としてありえないとしても、忠勝は己の気持ちに正直でいたかった。


(殿を守る。殿の望みを叶える。殿のすべてを──)


 すべてを、何だ?

 忠勝の刺すように強い眼差しの中に、一瞬の揺らぎが生まれる。

 家康の頬は炎に照らされて赤々と染まり、生命の躍動を感じさせる。

 ふうと一息、家康は溜息をついた。


「誰も知らない場所で生きたいと言ったら、ついてきてくれるのか」

「そうだ」

「すべてを捨てた儂は、もう松平家の当主ではない。それでも傍にいてくれるのか」

「ああ」

「主従の関係などなくなるのに?」

「俺、は」


 忠勝がごくりと言葉を飲んだ。

 松平家から離れても関係ない。俺にとって、主君は殿ひとり。家臣として、ずっと守り続ける。

 その答えが、なぜだか口につかえて言葉に出来ないのだった。

 本心である筈なのに、言葉に詰まる。それは忠勝にとって、別の想いが混じっているからだということは、忠勝本人も自覚してはいない。

 これまでずっと、目を逸らして自覚しないできたからだ。

 家臣としての忠義、侍としての矜持、そして──。

 殿を守る。殿に一生ついていく。そこに忠義以外の感情が混じっているのか否か、忠勝は考えないようにしてきた。

 そんな忠勝を、家康が静かな目で見つめている。

 忠勝の家臣としての立場を慮ってくれているのか、本多家男子である忠勝の思ってもみない提案に困惑しているのか、はたまた忠勝自身も自覚していない忠勝の本心を見抜いているのか。

 忠勝は、己のことが分からなくなっていた。

 家康がポツリと呟く。


「本当に果報者じゃな」

「殿、俺は」

「からかっているのではない。本心から言うておる」


 家康が子供のようにいたずらっぽい目で、忠勝を見る。


「その言葉だけで十分じゃ。夜が明けたら、城へ戻ろう」

「それは」


 家康が炎を越えて、ずりずりと忠勝に近づいてくる。

 忠勝は、黙ってそれを見ている。

 家康の白い手がゆらりと浮いて、ポンと置かれた──忠勝の頭に。

 そのまま、なでなでと優しく頭を撫でられる忠勝。


(は!?!?)


 一体何が起こったのかと、忠勝は固まったまま動けない。


「いい子、いい子。忠勝はいい子じゃのう」


 なでなでなで。

 忠勝の顔にカッと赤味がさす。家康に頭をなでられている忠勝は、額から耳までまっ赤になっていた。

 家康が、花がほころぶように微笑んだ。


「その言葉だけで、明日からまた松平家康として生きていける」


 無意識だった。

 家康のその言葉を聞いた途端、忠勝の魂が激しく震えた。

 気づくと、頭上にあった家康の白い手を取り、そのまま誰にも渡さぬとでもいうように厚い胸の中に抱き込んでいた。

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