紅心-Hongxin-

紺野しぐれ

Prologue:宵宮

 看板を下ろした後の日課は、一日の自分を労って入れるブランデーと、思い出の肴。人を雇っていた頃は、笑い話も多くあったが、今はそれもない。寂れたもんだ、と零したくなる。

 人と触れ合うこの商売は、俺に向いていた。自分のことで悩む時間がないことが、今日までやってこられた理由なのかも知れない、この頃はそう思うことが増えていた。

 ――潮時。

 時々はそんな考えも過ったが、感傷的になっているのではない。ただ、お預けにしていた自分の仕事に手を付けるべき時期が来たのかも知れないと思うだけだ。

 多くの友人に出逢い、そして別れた。今生の別れではないにせよ、海を越えた友人に会うことはそう容易くはない。時折の文の報せがすべてだった。

 おもむろにグラスの酒を少し嚥下して、今朝方届いたばかりの文の封を切ることにした。整った文字は女性のものだと分かる。封を切って最初に飛び込んでくるのは、鮮やかな写真。四季の国の花芽吹く春を切り取ってある。数枚添えられた写真のうち、いくつかには腹違いの義弟と、その彼女が一緒に映る。不器用な笑みの義弟に、思わず目尻に皺を刻んだ。幸福そうだ。

 文を寄越したのは彼女だ。義弟にはそんな親しさも、細やかな気遣いも期待はできない。長年の疎遠に相まって、血族間の冷えの解消は望むだけ贅沢なものだろう。

 こうして、彼女を通じて縁ができたことが奇跡だった。

 文には近況と、謝辞が添えられている。


「いい女だったなあ」


 言葉にしてみて、少し笑う。本当のことではあるが、じゃあ、とはならない自分の腰の重さが、笑えるのだ。

 いい女にはそれこそ数多く出逢ったろうと思う。それでも、今ここで独り身でいることがすべてを裏付けていた。


「……逃した魚は、いつだってでかく見えるもんだ」


 まさしくそう考えたところで、俺は頷きを重ねて、声の主の存在に顔を上げた。俺の声ではない。


紫蓮ヅィリェン、いつ戻ったんだ。来るなら一報入れろよ」

「そんな面倒なこと必要ないだろ、お前がこの時間まで飲んだくれてるのは知ってるんだ。……いい紅眼ロゼリアだな」


 いつの間にか扉を潜って、カウンターへ寄って来ているこの男も、海を越えた友人の一人だ。気紛れに国を行き来して行商めいているが、今は隣国・シークレストに経営の腰を据えたはずだった。外は吹雪くのか、風よけの外套のあちこちが濡れていたが紫蓮はそんなことは気に留めず、天板に置いた写真の彼女にしげしげと熱視線を送った。


「階段を降りる音にまるで気づかなかった。まだ、一杯目なのに。外套を脱げよ、掃除が面倒だから」


 写真の彼女は紫蓮と面識はない。それだけに、この好奇心旺盛な男の目に触れたことを厄介だと俺は感じる。食い入るような姿勢に、壁際のコート掛けを指して引き離し、戻るまでに文ごと片付けた。とはいえ紫蓮も初老を越えたいい歳の大人、気を逸らすための方便交じりの言葉はとうに見抜いているし、それ以上の詮索はしないだろう。喫煙道具の一式を手にカウンターへ戻ってくる紫蓮の顔色には旅疲れが見えなかった。


「温めようか」

「人肌で」

「俺の体温は低いンだけど」

「お前と同じでいい」


 真顔で交わす冗談は、聴衆がいなければさほど面白くもなんともない。こうやって、ふたりともが周りの人間の反応を楽しむ、悪辣な性質だった。同じ気質だから長く続いている付き合いなのかも知れない。

 俺はグラスへ常温のブランデーを注いで出した。


「相変わらず、この街は辺鄙だな。代わり映えしない。発展させる気概も残ってないみたいに、この数年景色が変わらんな」


 つまらない顔で言うが、この男にとってそんな話題は前置きにしかならない。本題はまったく別の場所にあるのは間違いなかった。こういう時は決まって煙草の一本が燃え切るまで、無駄話が続く。まるで、その合間の反応で本題を切り出すに値するか、見極めているかのように。俺は諦めて紫蓮が煙草へ火を点け、燻らせる時間に付き合うのだった。


「ところでお前、逃した魚はどうした?」


 煙草一本と、グラスが空になる頃、紫蓮は足を組み替える。


「弟の女になった。……近年は逃し放題、俺は養殖家にでもなるべきかも知れないぜ」


 空のグラスへ、継ぎ足してやりながら答えた。


「逃した魚が産卵に戻ったら、どうする?」

「そんな例え話に興味はないぜ。どうせなら稚魚でも紹介しろよ。立派に育ててやるからさ」


 そして食わずに放流する繰り返しを想像するのは俺には易くて。鼻で笑って、グラスを差し戻した。

 紫蓮は、俺の冗談にもピクリとも笑わず、グラスを煽って小さく息を吐く。


「お前に、会わせたい奴がいるんだ。今度はそのために帰国した。夜出歩かせるのは危なっかしいから、宿に置いてきた」


 紫蓮が真面目ぶるときは大概ろくでもない。信頼しているとはいえ、この男は商売が絡むと俺相手にも容易く仕掛けてくるだろうと俺は考える。結果として俺は押し黙った。


「……どこから話せばいいんだろうな、俺にも分からん。だから、まずは事実だけを目にして、考えるのは後からにしてもらおうかと思ってる。……会う勇気はあるか?」


 グラスの縁をなぞる紫蓮はらしくもない、歯切れの悪い言葉で含蓄を持たせて、挙句には困ったように眉を下げた。その様子に、商売絡みの話でないことは悟ったが、俺には思い当たる節が見当たらない。


「会うのに勇気が要るような相手、墓の下にしかいないよ」


 皮肉を返して、琥珀色を飲み干した。

 紫蓮はしばらく黙して静かに酒を減らす。煮え切らない態度も、もしかしたら演技なのじゃあないか、なんて勘繰りたくなってきたところで、彼は席を立った。


「今夜は帰る。明々後日までは待つ、というか……待たせるよう努力する。……気が短いんだ、お前に似て。決心がついたらホテルのフロントまで連絡を寄越せよ、場を用意する」


 天板へ紙幣を滑らせて、壁の外套を拾うまでに紫蓮はそう言った。紙幣の下へ、ホテルの名前と部屋番号を記したメモ書きが置かれている。クラウンズ・ベッド。言わずと知れた、アラン・ウリンソンの城だ。街髄一のホテルともなれば皮肉と呼ぶには弱いものだったが、やはり皮肉だと俺は思う。メモを三つ折りに、腰のポケットへしまい込んだ。


「おやすみ、またな」


 連絡するとは言わなかった。明々後日まで時間はある。待てないのなら、それまでだ。待ち人の正体が気になるのは事実だったが、去る者を追うのは性に合わない。逃げた魚ならそれも運命だったんだろう。

 グラスを片して、施錠して回り照明を落とす。店の裏通りから角を曲がった位置に寝泊まりにしか使わない、無機質なばかりの部屋を借りていた。深く考えずに寝台へ身を投げた。

 目を閉じると胸のざわつきが遅れてやってきたが、気のせいにしてやり過ごすことにした。

 朝方の浅い眠りの中、紅眼の眼差しを久方ぶり、夢に見た。

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