第30話 やり残したこと

「昔昔、といっても、そんなに昔なことではありません」


痛みのせいで手も口も利かない、藍を止められない……


「とある子爵の家に、四人の令息がいました。その中に、末っ子は抜群に優秀でした。末っ子の身でありながら、家族の後継者として期待されていました。当然、そのようなことは兄たちの不快と嫉妬を買いました」


こんな緊張感の溢れる環境にもかまわず、藍は悠々と物語を語っている。


「ある日、子爵の末っ子はいつものように狩猟に行ったら、乗っている馬が突然に暴れ出して、彼を崖の下に投げ飛ばしました。一命を拾った彼は病院で一週間も治療を受け続けて、やっと意識が回復しましたが、目が見えなくなって、声も失いました。家族の希望だった彼は人生のドン底に落ちました」


アルビンの顔に怒りの色が浮かんだけど、何も言わず、話の続きを聞くことにした。


「家族はあらゆる名医に助け求めていたが、治療の成果がなかなか見えなかった。彼のはますます乱暴になって、自己放棄しました。彼を可愛がっていた親も失望して、彼を諦めました。その時に、彼を救ったのは一人の少女でした。世話役として雇われた少女は彼を励んで、彼の心を開けました」


「励み」というより、「教訓」のほうが相応しい。


彼のことを馬鹿にして嘲笑ったり、食事に苦い薬を混ぜたり、暴れ出した彼の顔を平手で打って、暴れ犬を制するように床に押しつぶすこともあった。


思い知らせてやりたかった。


その時の彼はまるで生まれたばかりの小鹿。自分を支える力を持たないと、何度でも倒される。


彼のいる世界は、いつも誰かが傍で支えてくれるような甘い世界ではない。


彼は単純だから、やすやすと私の挑発に乗った。


いつか治ったら、私を絞め殺すとまで誓った。


なのに……


「そしてある日、奇跡のように、彼は声を取り戻しました。目も光が見えるようになりました。医者さんの話によると、もうすぐ元通りに戻るのでしょう。家族は彼への期待が再び燃え上がりました。しかし、その時、彼は家族を困らせる発言をしました」


姫様は治療を続けているが、注意力が完全にその物語に取られた。


勝手に私の過去を明かして、藍は一体何をしたい……?


そもそも、どうして私とアルビンの過去のことを聞いたの? 


魔女の呪いも見える彼は、一体なにもの……


「『彼女を妻として迎える。花嫁は彼女ではないなら、一生も結婚しない』。声を取り戻した彼は、両親にこう話しました」


そう、それを思い出すだけでも頭に来る。


わがままなお坊ちゃま、勝手にもほどがある。


相手にどれだけの面倒をかけるのも考えずにあんな馬鹿な話を……


「ロマンチックな話ですね。貴公子は自分を助けた平凡の少女と恋に落ちました――」


落ちていない。


私の抗議の目線に気付いたのか、藍は言葉を直した。


「いいえ、正しく言えば、貴公子の片思いだけでした。少女は彼に特別な感情を持っていません。それでも、子爵夫婦は不安でした。家族のために、既に息子に理想な結婚相手を選びましたから。すると、子爵夫婦は少女に話を持ちました。どんな内容なのか、想像できるでしょう」


「……話?どういうこと……」


ここまで聞いて、アルビンはやっと声を発して、叔母の姿を探すように見まわした。


「……叔母様?叔母様はどこ……?」


「意外なのはその後の話です」


藍はさりげなく続けた。


「ある日、目がまだ完全に回復していない貴公子は少女と森で散歩する時に、盗賊に遭遇しました。怯えた少女は盗賊に命乞いをして、傷を負って気絶した貴公子を置き去りして、そのまま行方不明に。幸い、貴公子は通りかかった猟師達に救われました」


「その事件の後、貴公子はもう少女の話をしません。裏切られて、傷ついたのでしょうか。あるいは、少女への愛情は、もう憎しみに変わったのかもしれません……」


その物語の主人公は誰なのか、言うまでもない。


「その少女、と貴公子は……」


姫様は哀れな目で私を見つめた。


あれは、仕事途中のちょっとしたトラブルだけだったのに、なぜ悲劇のヒロインに思われなければならないの?


……おかしい、藍の話が終わった途端に、頭痛が不思議に消えた。


偶然なのか……いいえ、偶然にして偶然過ぎる……


「ブリストン様、そんな、そんなことはないです!きっと何か間違っています!」


姫様はアルビンに向かって声を上げた。


「一番つらい時にもあなたのことを諦めなかったあの少女は、あなたを捨てて逃げるはずがありません!きっと、何か理由が……」


「俺も、信じられなかった……何かがあったかもしれないと、思っていた……」


アルビンは片手で半分の顔を遮る。


体が強張っていて、何かに怯えている様子……


「それに、あの、指輪……」


彼の声が震えていて、言葉は断片になっている。


「掴まれた四人の盗賊の頸、細い刃で血管が切られた……奴らは、命を守るために止血に逃げたから……俺のことを見逃した……」


彼は怖がっているだけだ。


真実を知るのが怖かった。


だから、私への逆恨みで自分を守ろうとしていた。


「叔母様、本当にそうだったのですか……」


アルビンは振り向いて、無力な問を後ろで彼を見守っている叔母に投げた。


「……マーズ様、いいえ、フィルナ・モンド様ですね……申し訳ございません……」


貴婦人は彼に返事をしなく、私に謝った。


「謝ることはありません。あの盗賊の事件がなくても、仕事は終わるところでした。もうアルビンに会わないと子爵様と奥様に約束しました。彼は私の声を覚えているのが思わなかったのです」


「忘れるものか……」


あっさり忘れてくれたら、こんな面倒なことにならないのに。


それに、今は過去のことに浸す場合じゃない。




「よし、できた!皆様、早く!二列に並んでください!」


脱出の準備が出来たようだ。


船員たちは乗客を救命ボートに案内し始める。


「お先にどうぞ」


案内の船員が近くに来たら、アルビンの叔母を船員に任せて、救命ボートを待つ行列に向かわせた。


「行きましょう、お嬢様」


藍も姫様を促して、ふたりが並びに行った。


アルビンは叔母の後について行かなかった。


黙って私の腕を掴んで、私に背を向けたままた行列へ歩き出した。


今回、彼の手に力が入らなかった。


荒波の中で救命ボートを出すのはとても危険な行動だけど、船員たちが必死に頑張っている。


それに、船員と乗客の数は大体半分半分、一対一での誘導もかろうじてできる。


無事脱出の希望が見える。


あと一歩か。




藍は姫様の両手を支えて、彼女を救命ボートに乗せた。


次に、アルビンは船に入って、私を迎えようと両手を伸ばした。


こっそり横を覗いた。


藍はまだ乗っていない。


こんな混乱の中で、彼の冷静から特別な何かを感じた。いいえ、彼本人から不思議を感じた――最初から、今までずっと。


彼はボートに乗るの?


先ほど、姫様が人質にされた時、どうして止まっていたの?再び現れるまでの間に、彼は何をしていた?主人を守るよりも大事なことでもあるの?


その変わらぬ優しい微笑みと黒い瞳の中に、一体何が隠されているの?


現に、彼の注意力がまるで救命ボートに向けていないようだ。今でも立ち去ろうとする雰囲気。


私の直感が強く語っている――まだ海賊船を離れてはいけない。やり残したことがある。


「それでは、うちのお嬢様は頼みました」


いきなり、藍は搭乗を指揮している船長にそう告げた。


「藍?!」


「申し訳ございません、お嬢様。まだ後片付けが残っているので、失礼いたします。契約通り、上陸までの安全を保証しますから、心配しないでください」


「藍、何を言っているの……?後片付けって……」


ほかの人が反応できないうちに、藍は後ろに一歩を跳んで、救命ボートから離れた。


「お客様……」


「藍——!!」


姫様は手を伸ばして、藍を追いかけようとしたが、船長に止められた。


「危ないです!船から出ないでください!」


直感は当たったみたい。


「私も行かない」


私も一歩下がって、アルビンの手から離れた。


「何?!」


アルビだけではなく、ほかの人も驚いた。


無理もない。千載一遇の脱出チャンスなのに、諦めるのは不可解すぎる。


「やり残したことがある」


「なんのこと?!」


「分からない。でも、それは私のやるべきことだと分かっている。皆さんはお気になさらず、このまま脱出してください」


短く言い告げたら、早速身を翻して、藍の後を追った。


海面の向こうから、今までの轟音を凌ぐ砲火の音が伝わってきた。


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