永禄四年(一五六一年)八月、武田、上杉両軍は川中島に出陣した。

 千代は信玄の世話係として川中島に同行した。武田軍はまず塩崎城に陣取った。そこからしばらく睨み合いが続き、千代も動くことは無かった。

 先に動いたのは上杉軍だった。本陣の善光寺から犀川、千曲川を抜け、妻女山に陣取った。対して武田軍は千曲川を渡り、上杉軍の退路を断つ為、海津城に入った。それ以降は両軍とも再び動かず、無駄に時を過ごした。

「長い……」

 蓮は望月の兵に紛れて付いて来た。千代も了承した上だが、本来、女が戦場にいるなど有り得ない。飢えた男達の格好の的である。一応、将という確立された地位のところにいた為、蓮ほど危険性は高くない。故に、蓮には感謝しなければならないが、今の彼女を見ると、とても素直になれない。

「人の部屋で寝そべるな」

「うるさい。私もあなたも戦で功を立てないとやっていけない立場でしょう?」

「……否定はしない」

 千代も内心では望月の家を守る為、信玄に褒められるような手柄を得なければならないと思っている。ただでさえ、信頼の代わりに妻の千代が実質、家を率いている為に奇異な目で見られることが多い。

「だが、そろそろ来そうだな」

「何が?」

 蓮が上半身だけを起こして尋ねてきた。千代は蓮の方を向いて答えようと口を開こうとした時だった。

「望月様。御屋形様がお呼びでございます」

「ほら」

 肩をすくめると千代は少し驚いた表情を見せている蓮を放っておいて外へ出た。

小姓の後に大人しく付いて行く千代だが、正直なところ外をあまり出歩きたくなかった。万一に備えて男装しているが、千代の正体を知っている数少ない者と出会った時、また何か嫌味を言われると思うと体がかゆくなる。信玄の下に行くとなれば自ずとその可能性も高くなる為、ますます機嫌が悪くなる。一歩一歩進むたびに先程まで蓮と無駄話をしていた時の心の充実などあっという間に消えてしまう。

「御館様、お呼びでございますか?」

「うむ。我が軍は明日の晩に動く。故に、長尾の動きを探ってきてもらいたい」

 信玄は簡単に言ってきたが、かなり難しいことだ。上杉軍には軒猿衆と呼ばれる優秀な間者集団がいる。監視は厳しく、千代が城下町に向かった際も軒猿らしき者に尾行された。如何に化粧で誤魔化していたとはいえ、下手をすれば始末されていただろう。しかし、信玄の命を断る理由が今の千代には無かった。

 承諾したと頭を下げ、信玄の下を逃げるように去ると部屋に戻って蓮に仔細を説明する。蓮は最初に目を見開き、終いには呆れたと溜め息を吐いた。

「御館様は私達がどうなっても良いのでしょうねぇ」

「さあな。だが、主の為に命を投げ出すのが家臣の務めだろう」

「そうだとしても、どうしてあなたにやらせる? 男の間者もいるだろうに」

「試しているのだろう」

「武田直属の間者に相応しいか?」

 蓮の問いに小さく頷いてみせると表情を険しくする。

「簡単に上杉の陣に潜入するように仰られた。だが、どれほどの者が上杉の軒猿の餌食になったのか。御館様も知らぬはずが無い」

 軒猿は戦の影で動く集団。以前から武田が送り込んだ優秀な密偵のほとんどをも始末している。戦場となればなおのこと警戒は厳しい。だが、立ち上がらなければならない。

「行くの?」

「行かねば望月は消える」

「大丈夫?」

「……ああ」

 確証は無い。そう言わなければ、蓮は必死に止める。否、蓮はおそらく嘘をついていると分かっているだろう。あえて何も言わずに送り出そうとしているのは千代の覚悟に自身が入り込もうとする余地が無いと思っているのかもしれない。千代は息を吐くと部屋を出ようと襖に手を掛ける。

「いざとなったら頼むぞ」

「千代……!」

 襖を素早く閉めることで蓮と空間を遮断する。今は安らぎを求めてもそれは千代と蓮のものだけ。望月を守るには修羅にでも鬼畜にでもならなければならない。

 妻女山に向かうべく外へ出ると一人、山道を伝う。千代は獣道を見つけるとそこを辿った。元々、狭い道しかない妻女山ならどこを通っても同じだろうが、男ではない千代が人の通る道を行く訳にはいかない。

「止まれ」 

 木の陰から低い声が聞こえると軽装の男が二人、出てきた。ここまで警戒しているのは敵ながら天晴だが、止まっている訳にはいかない。体力では劣ると判断した千代は素早く右前に潜んでいた小柄な者の喉元に小刀を突き出す。あっさりと躱されたが、深追いはしない。振り向き様に背後から近づいてきていたもう一人の大柄な男の腹に得物を突き刺す。見事に臓器を抉った。小刀を引き抜く隙を狙って後ろの小柄な男が近付く。千代は小刀を諦め、脛に蹴りを食らわせると怯んだ相手の両目を指で貫いた。そして、隠し持っていたもう一本の小刀を首元に刺すと小柄な男は絶命した。首元の小刀を引き抜き、大柄な男の胸に収め、止めを刺すとようやく千代は息を吐いた。だが、これ以上はいないだろうと思いながらも急ぐしかない。騒がれると面倒なことになる。


 武田軍が戦支度を始めた夕方、千代は妻女山に着いた。強引な手口で上杉兵の鎧を奪い取り、上杉軍の中に潜入した。特に何も動きは無く、兵達はいつ出陣するのだろうか、早く家に帰りたいなどと他愛もない話をしている。

 そろそろ夕日も沈もうとしている。信玄が動くと言っていた刻限まではまだ少しある為、千代は適当な所に腰を落とす。少し心に余裕が出来、自身が山にいると思うと不意に顔を上げた。既に桜の花は散っている。残念と思いながら武田軍が陣取っている海津城の上空を見る。

 数本の太い炊煙が揺らめいている。普段よりも炊煙が多く感じられた。自分だからだから分かったことかもしれないと千代は気にしなかったが、同時に妙な胸騒ぎを覚えた。もしも聡い者があの炊煙を見たら武田が動くと知られる。

「おい、どうした? ずっと武田の陣を見て」

 千代が振り返ると兵が訝しげに様子を窺ってきた。完全に怪しまれている訳ではないと判断した千代は全く動揺した素振りを見せない。

「いや、何でもない。早く武田に勝って家に帰りたいと思っていただけだ」

「そうか……ん?」

「どうかしたのか?」

 千代は少しだけ目を細めて兵を見る。

「いや、ちょっと……」

 兵は首を傾げながら持ち場に戻って行く。先程の胸騒ぎが確信に変わり、千代は小さく舌打ちをした。踵を返し、近くにあった岩に座り込む。今まで川中島を何度も見てきた為、日没がいつになるのかの検討はとうに付いている。夜までどう過ごすか考えながら立ち上がるとそれとなく兵の集団の中に溶け込む。

「おい、聞いたか? 夜になったら出陣だってよ」

「なら、今が内に寝ておくか?」

「そうだな……」

 早めに用意された夕餉を食らいながら兵達は話し込んでいる。すぐに腰を上げたくなったが、問い詰められることになるのは目に見えている。武田の陣を一瞥すると相変わらず炊煙が上がっていた。

夜になって立ち込めてきた霧は一刻もしない内に一寸先も見えない程、濃くなった。川中島周辺ではこの時期に起こる特有の現象と言われている。

 千代は濃霧に乗じ、武田軍の動きを予想した動く直前の上杉軍から離脱し、別動隊の下へと向かった。本隊の下に行くよりも上杉軍に危険性が低く、動きやすい。また、距離的にもすぐに知らせられる。幸い、別動隊には同じく信州の国人衆である真田が同行していると千代は聞いていた。そこに駆け込めば女とばれても何もされないだろうと判断した。

 鬱蒼とした林の中を千代は走る。武田を守らなければ望月は滅びる。城も町も焼かれ、略奪で皆が苦しむ。特に女子は望まぬ生き地獄を味わい、絶望の中で死を迎えなければならない。気分の悪くなりそうな光景を思い浮かべ、千代は眉間のしわを深くする。

林の中に張られているだろう上杉軍の網の目を千代はかいくぐって行く。幸い、軒猿も武田軍の動きを探る方に目が行っている為か、上杉軍に対する目が甘くなっている。

 思ったよりもすぐに上杉の網の中を突破出来ると慢心に似た思いを千代が抱いた時だった。

「なっ……」

 妻女山を海津城方面に抜ける道に入ろうとした千代の前に見たことが無い武人がいた。雪のように色白いその人物は夜空を見上げ、何か呟いている。

出で立ちや装備を見てもかなり上位の将だ。すんでのところで見つからなかった千代だが、将の方はかなり気配に敏感なのか、視線を地上に戻し、辺りを見回している。

「誰かいるか?」

 千代は小さく舌打ちすると木陰に身を潜める。鎧武者はまだ辺りを探しているのか徐々に千代へと近付いてくる。見つかりそうになってしまった以上、逃げる他ない。ここで将を殺せば武田の品位にも関わる。さらに近付かれる前に駆け出した。将は驚いたようだが、すぐに追って来た。

 しかし、将は千代が思っている以上に気配と音に敏感で、千代の駆け出した方向を正確に掴み、追いかけ始めた。振り返って距離を確認したかったが、霧のせいで一瞬でも駆けている方から別方向へと目を逸らせば木の枝や岩に足を取られそうで出来ない。

 将は何も言わずに追いかけてくる。しかも、かなりの俊足で、距離が縮まってきている。距離を取る為、木と木の間を巧く使い、あちらこちらへと走る向きを変え、将の視界から外れようと試みる。少し開けた場所に出た為、全力で駆けようとした途端、穏やかな声が聞こえてきた。

「そちらには軒猿がいる」

 千代は反射的に足を止めてしまった。足の勢いを食い止める間に将に簡単に追い付かれてしまった。しまったと思いながらも将の方を振り返り、飛び掛かる。だが、簡単にかわされた。将はこちらを見て目を見開いている。

「女か?」

 千代は振り向きざまに懐に忍ばせていた小刀で将の首、心臓、腹を立て続けに狙う。しかし、攻撃は避けられ、距離を取られてしまった。兵に扮していた千代のことを一瞬で見抜く洞察力といい身のこなしといい、名のある将なのは間違いない。

 構わずに逃げようかと思ったが、軒猿が本当にいるかもしれないと考えると今の状況の方より不利になると思い、踏み止まる。如何にするべきか思案しながら千代は将からの攻撃に備える。しかし、将の方は落としていた腰を伸ばし、裏の無い微笑みを浮かべた。

「案ずるな。別にお前を犯そうなどと思っていない」

 珍しく声の高い将だなと思いつつも千代は腰を低くする。普段の千代ならそのような甘言に乗らずに隙を突いて逃げたが、向かい合っている将からは不思議と信じて良いという雰囲気が漂っている。春の、あの春日山の満開の桜を見ているような暖かな気持ちになる。しかし、千代も簡単に釣られてはならないと心を強く縛り、眉間にしわを寄せる。

「何を謀っている?」

「いや、邪なことは露ほども思っていないのだが」

「ぬけぬけと……貴様等に必ず裏があるのは承知の上だ」

「ははっ。随分な嫌われようだ……」

 侮蔑の言葉をどう受け止めたのか分からないが、気にも止めていないという笑みで将は平然と千代の前を通ると近くにあった岩に座った。

「ほら、そこへ座れ」

 適当に横にあった岩を将は指差す。正気かと鼻で笑うしかない。

「断る」

「何故?」

 将は心底驚いた表情で千代を見てくる。さすがに呆れたと溜め息を吐かずにいられなかった。

「今は戦の最中だが、戦は行われていない。にもかかわらず、敵の近くに自ら向かう阿呆がどこにいる? ましてや、私が貴様の隣に座るなど何をされても良いと言っているようなものだ」

 千代の口調は吐き捨てるようなものに変わっていく。将は納得したように何度か小さく頷き、今さら気付いたように「なるほどな」と呟く。相手にしているのが馬鹿馬鹿しいと思えてきた。敵でなければ既に適当な言い訳をして立ち去っていただろう。こめかみのあたりをかきたくなるが、気を抜いてはいけないと小刀を握り直す。林立する木々の中で少し開けたこの場所で虫も鳴かずに千代と将の動向を見守っているのだろうか、沈黙が周辺に広がっていく。

「ならば、そのままで良い」

 将の一言で沈黙と共に走った緊張感があっという間に解けた。本当に話をしようとしているのかと千代は呆れながらも付き合ってみることにした。

「武田の者であることは聞かぬ。されど、完全に武田を信じている訳でもなさそうだな」

 千代は一瞬、体を震わせそうになったが、どうにか堪えた。

「御館様には恩義がある。故に、恩を返す」

「なるほど。道理だ」

将は歩み寄り、千代に近付く。来るかと神経を相手の動向に集中させる。周りには人の気配が無い。

「今宵、武田が動くのか。それだけ教えてもらいたい」

 単刀直入すぎる。馬鹿馬鹿しくて鼻で笑うしかない。

「……私がそれを話すとでも?」

「いや。期待しておらぬ」

「ならば、何故にそのような問いを?」

 千代の鋭い口調を受け流し、将は腕を組んで考える素振りを見せる。今ならやれると千代は懐の小刀に手を伸ばす。しかし、それは出来なかった。将に全く隙が無いのだ。千代が奥歯を噛み締めている間に将は答えを平然と言ってきた。

「気紛れだ」

「なに?」

「僅かながらの期待よ。私は全くとは言っておらぬ」

 敵将が少しだけ顔を緩ませたのを見て、苛立ちを覚えた千代は相打ち覚悟で殺そうかと思ったが、夜風が正面から吹き付けた。強い風は二人の顔を撫で、一気に去って行く。千代の怒りは夜風と共にどこかへと飛んで行った。

まだ若いとはいえ、間者として養われた洞察力は非凡な将よりも上回っている。目に写ったのは相手の将が浮かべた穏やかな笑みと風によって無造作にかき上げられた髪。途端に千代は落ちてきた岩を脳天で受けたような衝撃が全身を走った。

「どうした? 目を丸くして」

 千代が将の正体を知ってしまったことに気付いていないようだ。表情が面白いのか悪戯の成功した子供のような笑みを浮かべている。普段であればすでに問い詰めいただろうが、すぐに口を封じられるのは目に見えている。動揺を押し隠そうと表情を無に戻そうと必死になる。しかし、夫や信玄、蓮の目の前で上手く出来たことが今、全く出来ない。完全に動揺してしまって、落ち着くことが出来ない。

「ふむ、露わになってしまったか……」

 さすがに気付かれた。案外冷静に言うが、向こうも失態を犯したと思っているだろう。千代は小刀に手をやる。だが、表情を崩さずに手で制する。

「ああ、言っておくが、私はお前の口を封じようなどと露程も思っていない」

「……その言葉、信じられるとでも?」

「ふむ。それもそうだな……」

 千代はさらに腰を深く落とす。だが、将は無防備に困ったような笑みを浮かべると立ち上がって刀を外し、座っていた岩に立てかけるとは思ってもいなかった。

「これで良かろう?」

 千代は唖然として将を見る。ここで丸腰の将を殺めることは容易い。しかし、千代の心は真っ先に持っている小刀を将と同じように捨てろと言った。千代は自分の心に驚きながらも素直に従った。それを見た将は満面の笑みを浮かべて頷くと千代を同じ岩の上に招く。互いに丸腰ならば忍びの心得を持っている自分の方が有利だろうと千代はその通りにする。将が座っていた所だったのかとても暖かく感じられた。

「さ。聞きたいことを言うが良い」

 千代は口を噤んだ。将の一度ばれればもうどうでも良いという心構えに呆気に取られたこともあるが、正体を表の世界で生きていながら隠せているのか。知りたい気持ちと共に本当に尋ねて良いのか。千代の眉間にしわが深く寄る。

「女子故に、叶えたいこともあるのだ」

「っ……」

 躊躇いをかき消し、疑問を解決する優しげな声が千代の耳に入った。実に爽やかで穏やかな気持ちになれる口調のように千代は感じ、息を呑む他ない。

「表の世で生きるのは確かに苦しい。されど、面白くもある」

 将は立ち上がると千代が腰掛けている岩に移動した。

「かような乱世に、女子に楽しみなどあろうか」

「……なるほど。お前も哀れよな」

 千代の吐き捨てるような言葉など将は気にもしない。そして、優しく微笑みを浮かべる将が千代の方に顔を向けたと思うと一気に彼女を引き寄せる。

「お前と同じようなことを、私は表の世で成してみたい。故に、二度と会えぬやも。しかし……」

 溜め息を吐き、首を小さく何度も横に振る。無防備だ。今、懐にある小刀を取り出せば千代でも仕留めることが出来る。

 だが、出来ない。何故かまじまじと将の顔を見てしまう。中性的で一度見ただけではどちらなのか分からない。何しろ麗しい。思わず音を立てて唾を飲み込んでしまいそうなくらいに。

「惜しいものよ……」

 微笑んだと思った瞬間、躊躇いなく千代に口付けをした。ほんの一瞬だったが、千代は将と触れて今まで味わったことの無い安心感を抱いた。まるで何か柔らかいものに包まれ、暖かかったようなもう一度だけ味わいたい感覚だった。しかし、それはもう叶わないと千代自身がよく分かっている。

「さて、そろそろ行かねば、はぐれてしまう。では……」

 将は踵を返す。背中を見せている今なら将の警戒をかいくぐって刀を届かせることが出来るかもしれない。しかし、千代は心の思いを行動に移すことが出来なかった。

「何故に、あなたは私を見逃す?」

 足を止め、驚いたと将は振り返ると腕を組み、考える素振りをみせる。

「そうだな……」

 わざとらしいと思いながらも返答を待つ。すると、すぐに腕組みを解き、笑みを浮かべながら口を開いた。

「武田に知られても我等が最後には勝つと思っているが故。かな」

 その言葉に千代は怒りを通り越して呆れてしまう。

「甘い」

「皆にもよく言われる。されど、己が業をそう易々と曲げることは出来ぬ」

 子を包み込むような慈愛の笑みを浮かべつつも、将の言葉には強い信念が感じられた。将は夜空を見上げ、哀しげな笑みを浮かべる。千代も釣られて向いている方を眺める。向けている視線は空ではなく、木の枝であると分かった。

何の木なのか分からない。

「ふふっ、お前とは酒と共に桜を見たい……互いに再び生きて会えれば。な……」

 途端に風が千代達に向けて強く吹いた。熊が突進して襲ってきたようで千代は反射的に手で顔を覆ってしまった。敵の目の前で禁忌の行動を取ってしまった。慌てて手を退けて、目を開く。

 しかし、目の前にいたはずの将は既に霧の中に消えていた。気配も無く、風の音が千代の耳に響いた。一瞬だけ風とは違う草の音が聞こえたが、人影が確認出来なかった。動物かと息を吐く。同時に千代の胸が痛んだが、すぐに消えた。

 残されたのは千代と母親に抱きすくめられているような暖かい唇の感触と焼けるような胸の中の熱さだけ。

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